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アメリカ合衆国の日本語話者を主な対象とはしていないこのサイトのSGI-USAの反論リストをどう思いますか?
SGI(創価学会インタナショナル)の「お決まりのウソ」が暴かれる
――創価の“裏側”――
これは、SGIによる定番の誤情報に対する反論リストです。u/Professional_Fox3976氏の発案で、多くの協力を得て作成されました。ほかにも追加すべき項目があれば、コメントでお知らせください。
1. 唱題には特別な力はない
南無妙法蓮華経を唱えることは一種の瞑想にすぎず、悟りへの唯一の道ではありません。人の数だけ悟りの道があるはずです。
2. 御本尊に特別な力はない
御本尊は、「ダンボの羽」のようなもの。不安や自信のなさを抱える人がすがる「お守り」にすぎません。これに依存する思考は、自分の力を信じる心を弱めます。
3. やめても罰はない
やめたからといって不幸になることはありません。「やめたら不幸になる」と脅す団体は、もはやカルトです。私自身、唱題をやめても御本尊を捨てても、むしろ人生は好転しました。
4. 御本尊は大量印刷品
入会時に渡される御本尊は、個別に書写されたものではなく、印刷された紙を台紙に貼ったものです。
5. SGIは仏教ではない
SGIには仏教の基礎である「四諦」「八正道」「無常」「無我」「空」「六波羅蜜」などがほとんど見当たりません。「学ぶ」ことを重視しているはずが、実際には学びを放棄しているのが現状です。
6. 執着を助長している
仏教では「執着は苦のもと」と教えますが、SGIでは「目に見える結果」を重視し、物質的成功を追い求めさせます。これは精神性とは真逆の発想です。
7. “釣ってから変える”手法(ベイト・アンド・スイッチ)
「何でも願えば叶う」と誘っておいて、入会後は「池田先生の理想を体現せよ」「組織のために働け」にすり替わります。個人の目標よりも「シンイチ・ヤマモトになること」が最上とされます。
8. 『新・人間革命』は自己美化の創作
このシリーズは池田氏自身の創作であり、実話とは言えない内容が多数あります。他人の経験を自分の手柄のように語るなど、信頼性に欠けます。
9. 世界平和活動は実質ゼロ
食糧支援、寄付、署名活動などは皆無です。国連への提言も正式に扱われたことはなく、パフォーマンスに過ぎません。
10. 男女・人種間の格差と閉鎖性
「平等」を掲げつつ、実際の幹部層はほとんどが男性・日本人で占められており、多様性は見られません。
11. 友情は条件付き
SGIにいる間だけ続く「友人関係」で、やめれば関係は消滅することがほとんどです。勧誘目的の“愛情爆撃”もあります。
12. SGIは巨額の資産を保有
世界中に高額な不動産を所有しており、資金難などあり得ません。「電気代のために購読・寄付を」と言われても、矛盾を感じます。
13. 池田大作氏は“拝む対象”ではない
SGIは池田氏をまるで現代の仏陀か救世主のように扱いますが、実際の業績は誇張・美化されており、彼の名義による著作の多くもゴーストライターの手によるものです。
14. 唱題は“重たい羽”
「ダンボの羽」のように見えて、その実、時間・エネルギー・金銭を吸い取り、人生を削っていく“重荷”です。
15. 唱えても人生は良くならない
SGI会員が非会員よりも健康、成功、幸福であるというデータは存在しません。実際、多くはそれに見合う「証明」をできていません。
16. SGIで社会的つながりは築けない
困っている時に助け合えるような地域共同体とは異なり、SGIでは孤立が進みます。むしろ、外部との縁が切られていく傾向があります。
17. 心理的に健全な環境ではない
「すべては自己責任」と教え、被害者が自分を責め、加害者が責任を問われない構造があります。過去の苦しみも「前世の業」と片づけられます。
18. 池田氏は“権力に物申す”人ではなかった
中国政府による少数民族弾圧や、独裁政権との対話においても、一切の批判は行わず、むしろ迎合する態度を取ってきました。人権擁護の姿勢は見られませんでした。
この投稿は、Redditのr/sgiwhistleblowers(SGI内部告発者向けサブレディット)というコミュニティにおいて、主に元・現役のSGI(創価学会インタナショナル)会員や、その経験に関心を持つ人々によって投稿・編集されたものです 。
このスレッドは、SGIの典型的な主張に対し元会員らが体験や視点から反論を集めており、Redditコミュニティの中でも共有・補強されているスタイルで、投稿文中には、
“This is a nice list of refutations for SGI’s standard lies that we’ve collaborated on – a special shout‑out to our own u/Professional_Fox3976 who got this ball rolling.
“これは、我々が共同で作成したSGIの標準的な嘘に対する素晴らしい反論のリストである。”
SGI を疑問視する人々による情報交換の場として機能しています。
(質問に感謝)
そうですねー。
内容を読んで、単純に感じる事は、
アメリカの創価学会批判者というのは、すなおだということですねー。
単純に、無知と幼稚なだけの判断ですねー。
日本のような、タチの悪い創価学会批判者とは違いますねぇ。
アメリカ創価学会に対して、このような批判が出てくるという事は、
アメリカの創価学会組織が、社会に影響力を持ってきていることを
意味していますねぇ。
アメリカ社会にとって、どうでもよい宗教団体であれば、
こんな形式の批判など出てきませんねぇ。
ところで、どうしてこのような幼稚な批判になったのか、
考えてみましょう。
この批判文を日本のタチの悪い創価学会批判者が読めば、
次のように言うでしょうねぇ。
「なんと、単純で薄っぺらな批判ではないか。
こんな批判では、創価学会に全くダメージを与えられない。
それどころか、学会員からバカにされる」
こんな感じの内容ですねぇ。
実は日蓮大聖人は、将来、世界に布教をする場合、
国土、国民に2種類の特質があることを教えられていますねぇ。
それが次の文ですねー。
《無智・悪人の国土に充満の時は、摂受を前とす。
安楽行品のごとし。邪智・謗法の者の多き時は、折伏を前とす。
常不軽品のごとし。(中略)
末法に摂受・折伏あるべし。
いわゆる悪国・破法の両国あるべきゆえなり》
これは、日蓮仏法を流布する時の相手国に、
「無智・悪人の国土」と
「邪智・謗法の者の多き」国があるということですねー。
何を持って、 2つに分けたかというと、
「無智・悪人の国土」というのは、大聖人の仏法が流布する前に、
レベルの低い仏教が拡がっていない国ということですねー。
ヨーロッパやアメリカやアフリカなどの地域ですねー。
それに対して「邪智・謗法の者の多き」というのは、
大聖人の仏法が流布する前に、
釈尊が未顕真実と言ったような、
仏法の本質が説かれていない仏教が、
広まってしまった国のことですねぇ。
日本をはじめ、アジア諸国がそれに入りますねぇ。
この「邪智・謗法の者」は、真実の説かれていない仏教を
正しいと信じ込んでいるので、日蓮仏法に対して、
激しく攻撃してくるわけですねー。
日本のタチの悪い創価学会批判者の言っている内容を見れば、
まさにその通りと思うでしょう。
批判する根性が歪み、曲がってしまっているわけですよ。
「無智・悪人の国土」の人たちの批判は、
ちょうど、この質問文にあるような幼稚で、素直なものなのですねー。
まさに、無智から来ているわけです。
この大聖人の教えを読んでも、いかに日本の創価学会批判者の
タチが悪いかがわかりますねぇ。
さて、この質問内容は、どの程度のレベルのものなのか、
キリスト教に当てはめて考えればよくわかりますねぇ。
次のような疑問と同じですねー。
1、この世に神など絶対にいない。
なぜなら誰も、神の存在を実証したものはいないではないか。
2、そのいない神を、存在すると洗脳してだまし、
金を巻き上げている。
3、そんな妄想した神に、何を祈ったって、叶う訳がない。
4、何の効力もない、十字架やマリアの絵など、ゴミと同じだ。
5、祈りの言葉など、寝言と同じだ。全く意味がない。
6、信者を洗脳して集めた金で建てている教会など、
人間の墓場そのものだ。
7、ローマ法王や神父などというのは、二重人格で、
裏で何をしているか分からない。
表面的にだまされて尊敬させられているだけだ。
8、キリスト教が世界の平和に、
実質的には、何の役にも立っていないのが歴史的事実だ。
9、結局、神を信じて、悪いことがあれば、
神のおはからいとかと説得されて、諦めるしかない。
10、信仰など、洗脳から抜ければ、
人生の無駄な負担でしかなかったというのが、すぐに分かる。
まあ、こんな程度のレベルですかねぇ。
キリスト教に対して、まともな批判になっていませんねぇ。
愚かで、寝ぼけた悪口としか言いようがありませんよ。
それと同じように、質問文の批判は、
全く、創価学会に対する、まともな批判にも、
ましてや日蓮仏法の否定にもなっていませんねぇ。
よくまぁ、こんなレベルの低い、虚偽の批判をして喜ぶものだと、
感心しますねぇ。
「唱題は地球を超えるか?――宇宙文明時代に問われる仏国土ビジョンとは」
創価学会の「仏国土」――それは一人ひとりの生命に具わる尊厳が花開き、他者の幸福と共に歩む社会の創造を意味するとしています。
しかし今、地球という一つの星の限界を越えようとする、未曾有の時代に生きています。
AI、ブレイン・マシン・インターフェース、アバター、宇宙移住…。イーロン・マスクや日本政府の「ムーンショット計画」に象徴されるように、人類は“身体・時間・空間”の制約を超える文明進化の扉を開け始めています。
そうした未来では、もはや地球語に基づく言語コミュニケーションすら限界を迎えます。
むしろ、「波動」や「周波数」、あるいは「共鳴」や「心の振動」といった、言語を超えた“意識どうしの交流こそが主流になる可能性があります。
「南無妙法蓮華経」という音声による生命変容の実践について、学会員の方々は言語を超えた何か、“宇宙的な調和と共鳴”を起こす力を実感されてきたとされています。苦しみの中で、ふと心が静まる瞬間、祈ることで他者への怒りや妬みが浄化される体験、誰かと共に唱えたときの、深い一体感など、
これらは、単なる心理現象ではなく、「意識どうしの深層的な振動=仏の共鳴」とでも呼ぶべき次元ではないでしょうか。
そしてそれは、人類が地球外生命やAI意識と出会う時代においても、最も根源的な理解と信頼の架け橋になりえます。
にもかかわらず、今の創価学会において「仏国土」や「唱題」のビジョンが、あまりに地球内、あるいは“昭和的な”人間関係の枠にとどまってしまってはいるのではないでしょうか。
本来、仏法とは宇宙と生命を一体に見る究極のスケールの哲学であり、
唱題とは宇宙のリズムと一体となる音声のマントラとも言える行為とされている
創価学会が掲げる仏国土とは:AIや異星文明をも含む“意識の共鳴ネットワーク”であり、民族や宗教、地球的常識を超えた“多次元的共生社会”であり、唱題が、その中心にある“宇宙的コミュニケーション”の実践となる可能性を秘めているもであるとされています。
では、
現実には、学会の現場では以下のような問題が、、
• 組織運営や会合が旧来的形式にとどまり、未来的対話が乏しい
• 若者の創造的思索やテクノロジーとの接続が十分に生かされていない
• 「心の変革」がどこまで科学や社会に可視化・実装されているか曖昧
このままでは、「妙法は宇宙を貫く真理」ということすら、空理空論のように扱われてしまい、改めて問うべきではないでしょうか。
「地球外文明の時代に、創価学会が掲げる“仏国土”とは何か?」
「唱題の宇宙的意義と、未来社会における役割をどう言語化・共有するか?」
宇宙的・人類的なビジョンを“宗教の言葉”と“科学の言葉”でつなぐ橋渡し役になろうとしているのか。「人間の幸福と世界平和の実現」の理念を地球外的視野で広げ定義し直す必要があると思います。
「仏法は生命なり」「妙法は宇宙の理法なり」
その言葉をを今こそ地球規模ではなく“宇宙文明規模”で生きた思想として現実に投げかける時代なのではないでしょうか?
信仰が、閉じた世界を守るものではなく、開かれた宇宙と人類の未来に貢献する知恵であることを、堂々と語れる時代に
そうした信仰と科学の融合による楽園主義を超えるような具体的な“ 新しい仏国土ビジョン”はあるのでしょうか?
(質問に感謝)
そうですねー。いいですねぇ。夢がありますねー。
創価学会の原田会長も、先日の本部幹部会で、
次のように講演していますよ。
「ともあれ今後、これにとどまらず、
学会が世界青年学会として生まれ変わっていくために、
あらゆる面から総合的・抜本的に見直し、
必要な事業、必要な改革を断行して参りますので、
なにとぞ、よろしくお願いいたします。」
1人の信仰のあり方は、「常に自分の殻を破る」というものですねぇ。
同じように創価学会という組織も、常に殻を破って、
新たな方向性を創造して行ったからこそ、これほどまで発展したわけです。
この基本的精神は、会長の講演のとおりです。
その一つとして、これも本部幹部会で発表になったのですが、
創価学会に関して、言語生成AIの技術を利用した検索サービスを
始めるいうことでしたねぇ。
ただまあ、現時点では、日蓮仏法を基調にした、
宇宙文明を見据えての組織改革というのは、
楽しい夢見物語と言えるでしょうねぇ。
現実にそういう時期が到来すれば、
人間が人間を殺し合うという人類の宿命を転換した、
素晴らしい地球社会の実現でしょうねぇ。
確かに日蓮仏法は、壮大な宇宙論、宇宙文明論と
言えるように思いますねぇ。
カントは、宇宙には星の集団が点在していると考え、
その集団の一つ一つを大海に浮かぶ小島にたとえて島宇宙と呼びました。
私たちが生きているのは、銀河系の島宇宙ですねー。
宇宙全体には、銀河系以外の、アンドロメダ、大マゼランなどの島宇宙が、
無数に存在していると考えられていますねぇ。
この銀河系だけでも、直径は20万光年と言われています。
その中には、太陽系のような、 1つの恒星を中心に、
その重力範囲に複数の惑星が存在しているものが、
5億個あると言われていますねぇ。
研究者は、その5億個には、
それぞれ生命の発生する環境が整った惑星があり、
人間のような高等生物が生息しているという可能性は、
十分にあるとしていますねぇ。
もし、地球上に、創価学会の活動によって日蓮仏法の流布
すなわち広宣流布が達成したとするならば、
まさに、仏国土は地球でしょうねぇ。
そしてそれは、他の恒星を中心にした生命の存在する惑星や
島宇宙に対して門戸を開いた、
宇宙文明を創造することになるでしょうねぇ。
そして、地球と他の高等生物が存在する惑星との間で、
行き来ができるようになるでしょう。
時々 、1万光年も離れたところを、どうして行き来できるのか、
という人がいると思いますが、アインシュタインの特殊相対性理論によれば、
「光速に近づけば、時間の経過は無限に遅くなる」ということですから、
そういう乗り物が製作できれば、十分に可能なわけですねー。
そうなると今度は、地球が日蓮仏法の発信点となって、
多くの惑星や島宇宙へ広宣流布していく使命を担うのでしょうねぇ。
もうひとつ考えられる事は、地球のような惑星が、
銀河系だけで5億個あるというわけですから、
当然、そこに生存する高等生物の中で、
日蓮大聖人が、すべての存在の本質を南無妙法蓮華経と
悟られたように、覚者すなわち仏が誕生することも考えられますねぇ。
その時、宇宙の存在をどのように
表現されるかは全く想像できませんねぇ。
このように、日蓮仏法は、宇宙存在の本源をとらえたものですが、
それは同時に、生命とは何か、ということと同次元なのが分かりますねぇ。
例えば、「人間の生命とは何か」を追求すれば、そのまま、
「宇宙とは何か」に通じていきます。
「人間は小宇宙である」と言われる根拠ですねー。
1人の人間の生命を究明することは、無限大の宇宙の存在を
究明することになるのです。
だから、南無妙法蓮華経は1人の人間の宿命転換をすると同時に、
宇宙に遍満する影響力も持っているということですねー。
これが「依正不二論」です。
その「依」も時空を超えた存在として捉えていますねぇ。
だから、生きている人が唱える題目は、
亡くなった人の追善回向が可能になるわけです。
さらに、地球上における人間生命の発生の根源をたどると、
宇宙存在と不二だということがわかりますねぇ。
どのようにして、地球上に生命が発生したのかということについては、
何通りかの仮説がありますねー。
もともと地球の発生時は、灼熱の超高温であり、
生物の元になる有機物の存在は不可能でしたねぇ。
そこに、どうして生物が誕生したのか。
1つは、隕石説ですねー。
隕石に生命の材料となる有機物が含まれていて、
それが地球上に落下して、そこから生命が発生したというものですねぇ。
しかしまあ、これも、地球表面に何らかの気体が発生していたとすれば、
高速での落下時、気体との断熱圧縮による高温にさらされることになりますねぇ。
いわゆる気体との摩擦熱ですねー。
とても、有機物が分子構造を維持出来るものではありませんねぇ。
もう1つは、地球を取り巻く気体の中に、小さな氷の集まりである雲が発生し、
その中で氷の摩擦による静電気が発生して、
放電することによって有機物ができるというものですねぇ。
これは、無機質の気体の中で、 6万ボルトの放電を繰り返すことによって、
有機化合物が発生するという、実験に成功もしていますねぇ。
ただこれも、雷の発生と現在の人間の生命の発生との間に、
タイムラグが無いという事は、誰も証明できませんねぇ。
まあ、いろいろな生命の発生説はあるにしても、
今こうして、人間が生きているという事は、
宇宙の存在そのものに、環境が整えば、生命を発生させる、
可能性、能力、エネルギーがあるということに他なりませんねぇ。
これを、宇宙生命とでも言ったらいいのでしょうか。
そういう意味からすれば、まさに人間の生命も
宇宙そのものと言えますねぇ。
根底的には、宇宙と一体であり、繋がっていると言えますねぇ。
日蓮大聖人はこの宇宙生命のエネルギーとも言えるものを
南無妙法蓮華経という題目として取り出したわけですねー。
もともと真実の仏教というのは、宇宙的な広がりを持っているものですねぇ。
釈尊が「真実を説いた」という法華経で見てみましょう。
法華経見宝塔品で、釈尊が説法の場である宝塔を開くにあたって、
過去、現在、未来の3世にわたる諸仏を、
また十方の世界から諸仏を集めます。
この時点で、仏法というのは、過去、現在、未来というような、
時間的な概念にとらわれるものではない事が明確になりますねぇ。
また十方の世界というのは、単なる方角ではなく、
すべての空間という意味ですねぇ。
これを三世十方と言いますが、時間的、
空間的にすべてであることを意味しています。
仏法ではよく、 「三千塵点劫」と言う言葉が使われますねぇ。
これは、法華経『化城喩品』に説かれていますよ。
三千塵点劫の昔に大通智勝仏という仏が法華経を説き、
その後、仏の十六人の王子が再び法華経を説いて
衆生に結縁したとあります。
そしてその十六番目の王子がインド応誕の釈尊の前身であり、
その時に化導した衆生が釈尊在世の声聞であるとして、
過去からの釈尊の化導が明らかにされたのものですねぇ。
この 「三千塵点劫」というのは、三千大千世界(全世界)の国土を
粉々にすりつぶして塵とし、
千の国土を過ぎるごとにその一塵を落としていって塵を下ろし尽くし、
今度は一塵を下ろした国土も下ろさない国土も一緒にして
また粉々にすりつぶして、その一塵を一劫とし、
その膨大な数えきれない劫以上の無量無辺の長い時間を
意味しているわけですねー。
これでわかるように、「三千塵点劫」というのは、
一応、時間的な長遠さを表すものとして説明しているのですが、
内容を調べると、広さ、空間と融合した概念であることがわかりますねぇ。
アインシュタインの相対性理論のように、空間と質量と時間が
速度と関連し、法則に基づいて変化するのと似ていますねぇ。
時空を超えて、法華経の会座には、
1万2千の阿羅漢、2千の声聞、6千の比丘尼、
8万の菩薩、梵天・帝釈等の天竜八部衆などの大衆が集ったとありますねー。
これは数値に関係なく、全ての生命的存在が
集まったという事を意味していますねぇ。
この教えには、過去、現在、未来と言う時間の概念を超えて、
また、広さという空間の概念も超えて、宇宙全体から、.
宇宙の根本法である仏法を求めて参集したているわけですねー。
これを別の観点からすると、地球と同じような環境で、
発生した高等な生命体が、宇宙全体には無数にあり、
それぞれが、妙法を保っていると見ることができるのではないでしょうか。
地球上における妙法流布は、
創価学会が発足して、90年の歴史を見ても、
また、他の宗教団体の現状を考えても、
創価学会にその使命を託すしかない事は、
厳然たる事実ですねー。
【戸田城聖が目指した創価学会の理想は、今も生きているのでしょうか?
第二代会長・戸田城聖氏が説いた「生命哲学」や「科学的宗教としての仏法観」に戸田城聖氏が残した言葉には、こうあります。
『真実の宗教は、その研究態度が科学的であり、その研究の結果は、論理的に体系づけられ、かつ科学的に実験証明がなされねばならぬ。」
「仏法とは、人間生命・社会生命・宇宙生命を研究対象とする最高の科学的哲理である』
戸田氏にとって仏法とは、単なる信仰体系でも、情緒的慰めでもなく、「生命の法則を探究し、人類を幸福へ導く実践的・科学的哲理」だったのではないでしょうか。
このようなことから考えると、現代の創価学会が歩んでいる道は、果たして戸田氏の理想をどこまで体現しているのか。そこに、少なからぬ疑問を感じます。
【1】信仰の自己目的化と、探究精神の減退
戸田氏は仏法を「究極の生命科学」と位置づけ、「いかにすれば人間は幸福になれるか」を科学的に探求せよと呼びかけました。
しかし現在、「南無妙法蓮華経を唱えること=絶対の正義・絶対の救い」とする主張が、あまりにも形式化していないか?
「祈れば叶う」「実証がある」という体験談ばかりが強調され、生命の本質や宇宙の真理への理論的・哲学的探究が軽視されているように見えます。
【2】戸田の生命哲学は、学問的・宇宙論的であった
戸田氏は、仏法は「人間科学・社会科学・自然科学を包含する統合知」だと位置づけました。つまり、未来に向かって進化し続ける宗教思想であると。
しかし現在、学会の教育・出版物には、こうした学際的な知性や理論的な深化がほとんど見られません。科学や哲学、AI・宇宙論・生命論など、現代知と対話しようとする姿勢はあるでしょうか?
【3】学会の自己完結性と、他思想との対話の欠如
戸田氏の精神は、「学会内だけで通じる価値観」ではなく、世界に向けて開かれた思想体系であったと思います。しかし、今日の学会はどこか閉鎖的で自己強化的な方向に傾いていないでしょうか?
たとえば、他の科学的精神宗教との比較や対話は行われているでしょうか?
戸田城聖の遺志「仏法の科学化・普遍化・探究の深化」は、今も創価学会に息づいているのでしょうか?
それとも、時代の変化や組織の保全を優先するあまり、信仰の本来の「知性」と「普遍性」が失われつつあるのでは?
創価学会はもう一度、戸田城聖の根源の問いに立ち返るべきではないかと感じます。
仏法とは、今もなお人類がこれから科学的に発見していく生命の本質を先取りしていた哲理ではないか?
そうであるならば、「祈り」や「組織貢献」だけで満足していてはならないはずです。
戸田氏がその生涯をかけて問いかけた「生命とは何か」「宇宙の根本法則とは何か」という本質的探究に、現代の創価学会はどこまで応えようとしているのでしょうか?
(質問に感謝)
そうですね。
質問者さんは何か勘違いをしているようですね。
「人間は理屈で動く」と錯覚していますよ。
人間に対する捉え方が、甘いですね。
人間とは「科学で証明されたから・理論的に正しい結論だから、
それに従う」という単純なものではないでしょう。
どうも質問者さんは、現実の人間が、現実の社会が、現実の世界が、
どういうものか、分かっていませんね。
もちろん、創価学会・日蓮仏法は科学を重要視し、
科学の発展が日蓮仏法の正しさを証明する、
という立場ですね。
その証拠に、池田第3代会長が就任してから、わずか5年後には、
「科学と宗教」という単行本を発刊していますよ。
今では、古本販売店などでは、プレミアムがついていますが。
さらにそれより前の、会長就任の2年後の1962年には、
東洋哲学研究所を発足させてますね。
この研究所は、現在では公益法人として認められていますが、
東洋哲学のみならず、西洋哲学、自然科学、社会科学をも含む
総合的な学術研究・交流機関として高い評価を受けていますね。
先月の5月には、東洋哲学研究所主催でシンポジウム
「AIと信仰・宗教・思想」が行われましたね。
これには、科学と宗教、信仰と理性に及ぶ領域も踏まえた、
議論がありましたね。
発表者には、犬塚潤一郎氏(実践女子大学教授)と
濱田陽氏(帝京大学教授)を迎えて行いましたよ。
また、1993年には、元モスクワ大学総長で
物理学者のログノフ氏を迎えた記念講演会も行いましたね。
演題は、「科学と宗教」でしたよ。
下記にその原稿がありますので、参考にしてください。
https://www.totetu.org/assets/media/paper/t132_100.pdf
このように創価学会は科学の発展を重要視していますが、
「科学が発展し、日蓮仏法の正しさが証明されれば、
創価学会が発展する」
などというような他力本願的なことは考えていませんよ。
また現実にも、そんなことはないのですよ。
よくある体験で、次のようなことがありますね。
病気で入院した人の体験です。
創価学会員の人が、病気になり、大部屋に入院しました。
その病室には、同じような病気の人が入院していました。
学会員の人は、4、5人いた同室の患者の人に、
自分が創価学会員であるということは、挨拶などする中で、
伝えていました。
同室の人達は、同じような治療を受けていました。
その中で学会の人の治療効果がよく出て、
最初に退院することになりました。
医師は、学会員の患者に対して
「信仰によって、前向きに生きる力が非常に強かったので、
早く治ったのでしょう」
と言いましたね。
学会員の人が非常に早く治ったのは、
同室の患者も皆、感じていましたね。
それが信仰の効果だということも分かっていたのですね。
それで、この学会員の患者さんは、退院の前に、
同室の患者の皆さんに、折伏(勧誘)して、
創価学会に入会するように勧めました。
ところが、誰も入会ませんでしたね。
これは作り話ではないですよ。いくらでもあることですよ。
質問者さんの感覚からすると、
「信仰の良さが分かったのだから、皆、信仰する」
と考えるでしょう。世の中、そんなものじゃないのですよ。
どうも、質問者さんは、世間知らず、ですかね?
日蓮大聖人も次のように書いていますよ。
「また、主君のために命を捨つる人はすくなきようなれども、
その数多し。男子ははじに命をすて、女人は男のために命をすつ。(中略)
鳥は木にすむ。木のひききことをおじて、木の上枝にすむ。
しかれども、えにばかされて網にかかる。人もまたかくのごとし。
世間の浅きことには身命を失えども、
大事の仏法なんどには捨つること難し。故に仏になる人もなかるべし」
人間というのは、理性や理屈でのみ動くものではないのですよね。
質問者さんのて言っていることは、理屈ですね。
そんな理屈が、創価学会の組織に当てはまると思うこと自体が、
理屈ですね。
そうすると質問者さんは、
「それじゃあ、創価学会は戸田第2代会長の精神に反して、
科学的探求を軽視するのか」
と思うでしょうね。それが、軽薄だと言うのですよ。
第2代戸田会長も、次のように言っていますよ。
「信は理を求め、求めたる理は信を深からしむ」
信を深めるための理なのですよ。
さらに大聖人は次のようにも書かれています。
「日蓮、仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。
また道理・証文よりも現証にはすぎず」
もちろん、理論も大切ですが、最後は、
現証こそが、最も大切だということですね。
だから、現在の創価学会の方向性が正しいのですよ。
くれぐれも、理屈の虜にならないように気をつけてくださいね。
「苦を除く努力」こそ執着?──老荘思想から見た日蓮仏法と創価学会の逆説的再考
⸻
「人は苦しみから逃れたい」「もっとよく生きたい」――この願いが宗教の根本にあるとすれば、仏教も例外ではありません。
特に日蓮仏法や創価学会においては、「宿命転換」や「自己変革」といった言葉が強調され、自らの生命を積極的に変え、他者にも貢献していく姿勢が理想とされます。
しかし、ここに一つの逆説が浮かび上がります。
「苦をなくしたい」という能動的意志そのものが、実は「苦への執着」ではないのか?
この問いを、東洋思想のもう一つの柱である**老荘思想(道家)**の視点から見てみたいと思います。
⸻
老子のいう「道(タオ)」とは、万物を生かす根源の原理でありながら、形を持たず、意図せず、流れるままにあるものです。老子はこう語ります。
「道を求める者は、道から離れる。無為自然こそが真の調和である。」
この観点から見ると、「自己変革」や「苦からの解放」を目指して何かを積極的に行おうとする仏教的修行は、どこか道から外れているようにも見えます。
つまり、変えようとする意志自体が、すでに「不自然」なのです。
一方、仏教の出発点は「四諦」、すなわち苦・集・滅・道。苦しみの原因を分析し、それを取り除く方法(八正道)を提示します。ここには明確な「苦の否定」と「解決への意志」があります。
日蓮仏法はこれを大乗的に拡大し、「妙法」によって一切衆生の成仏を可能にする、とします。
創価学会もまた、「南無妙法蓮華経」を唱えることを通じて、宿命や社会的困難を乗り越える「生命革命」を推進しています。
ここには強い能動性、さらには社会的実践性が付加されており、老荘的な「道に任せる」姿勢とは対極的にも見えます。
では、日蓮仏法や創価学会の「苦を超える力」は、老荘思想から見れば単なる作為や執着に過ぎないのでしょうか?
ここで注目すべきは、仏教内部にも存在する逆説的視点です。
たとえば禅宗では、「悟りを求める心が悟りから最も遠い」とも言われます。
日蓮仏法でも、最終的には「妙法」そのものが因果・煩悩・救済などすべてを超えた「空なる真理」として語られます。
創価学会でも、「苦を苦としない境涯」「魔も仏界の一部」といった教義において、すでに全てが本来成仏の因であるという思想が展開されています。
これは、老子が語った「上善は水の如し」「無為にして成す」精神に、ある種の共鳴を感じさせます。
また、「仏とは生命そのもの」「妙法は宇宙の法則」という発想は、タオが万物の根源であるという道家の自然哲学に近いとも言えます。両者とも、抽象的でありながら全体を包む原理を重視しているのです。
つまり、こう考えることができます。
仏教は、作為によって始まり、作為を超える無作為へと向かう道である。
老荘思想は、無作為によって始まり、そのままを道とする。
そして、日蓮仏法や創価学会は、その仏教的構造を現代社会における能動的実践に変換した結果、再び「老子的逆説」にぶつかっているのかもしれません。
自己変革とは本当に「変えること」なのか。それとも、自己を「本来の姿に還すこと」なのか――。
この問いを忘れることなく、「唱題」や「仏法実践」に向き合うことが、結果的にはタオと妙法の合一的理解に近づく道かもしれません。
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仏教の中に老子がいたとしたら、きっとこう言うでしょう。
「妙法を語る者は、妙法から離れている。だが妙法に従う者は、語らずして妙法を生きる。」
そう考えると、「能動か、無為か」という対立を超えて、「自然な慈悲と智慧」という原点に立ち返ることが、最も深い意味での修行であり、信仰であり、実践なのかもしれません。
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ご感想やご意見があればぜひお聞かせください。思想的探求の一助になれば幸いです。
(質問に感謝)
そうですねー。
質問文に書いてある内容が、 一部の考え方に偏向していますねぇ。
例えば、禅宗で「悟りを求める心が悟りから最も遠い」
などと、どこの、誰が言いましたか?
禅宗にも、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗とありますねー。
またそれぞれが分派していますよ。
そして当然、座禅の組み方にも、もいろいろな形があるのですよ。
公案禅と言うのは、禅問答を通じて悟りを追求する坐禅の組み方ですねー。
公案というのは、座禅をしているときに考えるテーマのことですよ。
また、この公案にもさまざまな種類があるのですよ。
そして、只管打座と呼ばれるものがありますねー。
これは、「善悪を思わず、是非を菅することなかれ、心意識の運転を停め、
念想観の測量を止むべし」(『普勧坐禅儀』)というように、
何も考えてはいけないのですねぇ。
同じく、南宗禅は
「この法門は無念を宗となす」(『六祖壇経』)と教えているのですよ。
同じように、質問者さんは、
「仏教の出発点は「四諦」、すなわち苦・集・滅・道。
苦しみの原因を分析し、それを取り除く方法(八正道)を提示します」
と書いていますが、これも1部の宗派の言っていることですよ。
仏教のすべての宗派が、そんな修行などしていませんねぇ。
質問者さんは「禅宗はこのようなものだ・仏教はこのようなものだ」
と論議の前提として書いていますが、それは、 1部の考え方、
1部の分派の捉え方に過ぎないのですよ。
それを仏教の本質と考えているところに、
この質問の、我田引水的な思い込みがありますねー。
また、「中国思想に仏教を照応させる試みと深く関係している」
と書いていますが、これも、全く逆の考え方をしている人たちも
多くいるのですよ。
古くから、「中国思想は、仏教を理解させる序論になった」
とするものがありますねー。
日蓮大聖人は道教儒教を序論とする立場ですねー。
例えば次のような文がありますよ。
《例せば、儒家の本師たる孔子・老子等の三聖は、
仏の御使いとして漢土に遣わされて、
内典の初門に礼楽文を諸人に教えたりき。
止観に経を引いて云わく「我、三聖を遣わして、彼の震旦を化す」等云々。
弘決に云わく「清浄法行経に云わく『月光菩薩は、
かしこに顔回と称し、光浄菩薩は、かしこに仲尼と称し、
迦葉菩薩は、かしこに老子と称す』。
天竺よりこの震旦を指して、かしことなす」等云々》
このように大聖人は明確に、天台の摩訶止観を引用して、
「儒家の本師たる孔子・老子等の三聖は、
仏の御使いとして漢土に遣わされ」
と書いているのですよ。
この三聖について大聖人は、
「三皇已前は父をしらず、人皆禽獣に同じ。
五帝已後は父母を弁えて孝をいたす」
というように人々を教育して、仏教を理解できる、
土壌作ったとしているのですよ。
まぁ、「清浄法行経」については、 偽書説などもありますが。
道教儒教に対する大聖人の評価は、
次のようなものですよ。
《尹寿は尭王の師、務成は舜王の師、太公望は文王の師、
老子は孔子の師なり。これらを四聖とごうす。
天尊頭をかたぶけ、万民掌をあわす。
これらの聖人に三墳・五典・三史等の三千余巻の書あり。
その所詮は三玄をいでず。
三玄とは、一には有の玄、周公等これを立つ。二には無の玄、老子等。
三には亦有亦無等、荘子が玄これなり。
玄とは黒なり。父母未生已前をたずぬれば、
あるいは元気よりして生じ、
あるいは貴賤・苦楽・是非・得失等は皆自然なり等云々。
かくのごとく巧みに立つといえども、いまだ過去・未来を一分もしらず。
玄とは黒なり、幽なり、かるがゆえに玄という。
ただ現在ばかりしれるににたり。現在において仁・義を制して、
身をまぼり、国を安んず。これに相違すれば族をほろぼし家を亡ぼす等いう。
これらの賢聖の人々は、聖人なりといえども、
過去をしらざること凡夫の背をみず、
未来をかがみざること盲人の前をみざるがごとし》
このように明確に論破されていますねぇ。
また別の御書では次のようにも書いていますねぇ。
《これらの賢聖の人々は、聖人なりといえども、
過去をしらざること凡夫の背をみず、
未来をかがみざること盲人の前をみざるがごとし》
このように重ねて、破折されて、
日蓮仏法は、老荘思想より、
次元的にはるかに深い事を教えているのですよ。
質問者さんは、創価学会と老荘思想を関連させながら、
色々と思索をしているのですが、その前提の知識が、
いい加減なものなので、
「タオと妙法の合一的理解に近づく道」
などという全くの誤解した妄想を抱くことになるのですねぇ。
創価学会と権力の関係は、日蓮大聖人の教えに照らして正当と言えるのでしょうか?
創価学会は「日蓮大聖人の仏法を現代に実践する団体」として活動しており、「人間主義」「平和主義」「福祉重視」などの理念を掲げ、政治的には公明党を支持しています。
一方で、学会と公明党の関係、そして公明党が長らく自民党と連立を組み政権に参加している事実を見ると、創価学会は「現実の国家権力と結びついている宗教団体」と言えるのではないでしょうか。
疑問に思うのは、「果たしてそれは日蓮大聖人の本意にかなっているのか?」ということです。
日蓮は、権力と結びついた宗派(禅宗、念仏宗、真言宗など)を「禅天魔」「謗法の邪義」と厳しく断じ、正法を守るためには命をかけて諌暁すべきと説きました。
「四箇格言」や「立正安国論」には、仏法が政治に従属すること、あるいは権力と結託することへの強い警告があります。
そうした教義から見ると、創価学会が政党を事実上支援し、政策や選挙に組織的影響を与えている現状は、むしろ日蓮が批判した宗派と同じ道をたどっていないか? という懸念が拭えません。
もちろん、現代において宗教者が社会に影響を与えること自体は否定されるべきではありませんが、
しかし、信仰の純粋性や教義の一貫性という観点から、議論の対象になるべきではないでしょうか。
創価学会が政治と関わる今の姿を、日蓮大聖人の教えと整合的だと思いますか?
もし整合的だとすれば、どのような根拠でそう言えるのでしょうか?
創価学会が政治に関わる姿勢は、「一切衆生の仏性」を説く法華経の精神と矛盾しないのでしょうか?
仏法は本来、個人の内なる目覚めと普遍的な救済を説くものです。
しかし、政治と結びつくと、仏法が外的権力の道具となり、対立や排除を生む可能性があります。
権力に迎合した宗派を「禅天魔」と批判し、正法は末法において孤高であるべきと説き、信仰と政治の結びつきが、いつのまにか仏法の本質を損なうことになりませんか?
日蓮は法華経の正法を弘める者は末法において必ず迫害され、孤立することを覚悟せよと説き、正法とは「一切衆生平等の仏性を説く普遍真理」であり、それが権力や大衆の欲望に迎合するものではないからとされます。
末法とは、仏教が形骸化し、権威・形式・権力と結びついた「邪法」がはびこる時代。
だからこそ、正法を貫く者は、社会の多数派や権力からは受け入れられず、むしろ攻撃される運命にあるはずです。
日蓮自身も、国家権力と宗教権威から幾度も迫害を受けながら、
「設ひ一国に余人無くとも、我一人なりとも正法を行ずべき者なり」(開目抄)
と述べ、たとえ一人でも真実を貫くことが仏弟子の使命であると説きました。
このように、「孤高であること」こそが正法の証明であり、
もし仏法が国家権力に受け入れられ、影響力を持って栄えているなら、それはむしろ「謗法」に堕していることになりませんか?
(質問に感謝)
そうですねー。
まず、日蓮仏法の流布の方法については、
次の、日蓮大聖人の書かれた御書に従っているわけですねー。
「仏法の中に随方毘尼と申す戒の法門はこれに当たれり。
この戒の心は、いとう事かけざることをば、
少々仏教にたがうとも、その国の風俗に違うべからざるよし、
仏一つの戒を説き給えり」
これは、仏法流布する場合、時代、民族、国、社会状況、
地域の風土などの様々な状況に合わせて、
仏法流布をするべきだと言っているのですねー。
これは、実は、世界広布を考えたならば、素晴らしい事なんですねぇ。
宗教的原理主義者になるな、宗教的教条主義者になるな、
ということですねー。
イスラム原理主義者の状況を見ればよくわかるでしょう。
世界的宗教として人類を救済する。
というような方向とはまったく違いますねぇ。
また、共産主義の教条主義を見ればわかるでしょう。
国民よりも社会体制の維持に価値を置き、
人間を組織のために犠牲にしてきた歴史がありますねー。
大聖人は、このような宗教の在り方を否定しているわけですねー。
質問に書いてある内容は、日蓮仏法を原理主義的、
教条主義的に捉えたところから出て来ている疑問ですねー。
読んですぐに思い出したのは、
明治時代の一時期に話題となった日蓮主義ですねー。
日蓮主義は、当時の日蓮宗一致派が、摂受を中心とした、
現実主義路線の活動への反発意識が出発となっていますねぇ。
そして、宗祖・日蓮大聖人が、何度にも及ぶ国主諌暁を行い、
何度もの命に及及ぶような法難を受けてきたように、
難を受けるような、広宣流布への闘争をしなければ、
大聖人の精神に反する、というものですねぇ。
その中から「天皇本仏論」を唱えたりもしたねぇ。
だから、右翼的な傾向も持ったりしました。
質問文の内容は、日蓮主義の内容と驚くほど似ていますよ。
日蓮主義は、結果的に、大きな広宣流布への流れとはならず、
戦後、天皇の人間宣言など、
GHQの国体解体によって消えていきましたねぇ。
大聖人は次のように書いていますねぇ。
「汝、すべからく一身の安堵を思わば、
まず四表の静謐を禱るべきものか」
また、創価学会第二代戸田会長は次のように言っていますねぇ。
「社会の不幸に目をつぶり、宗教の世界に閉じこもり、
安穏として、ただ題目を唱えているだけだとしたら、
大聖人の立正安国のご精神に反する」
さらに次のようにも言っていますよ。
「この世の悲惨をなくし、不幸をなくし、人権を、
人間の尊厳を守り、
平和な社会を築いてゆく中にこそ仏法の実践がある」
真実の日蓮仏法の実践というのは、個人の幸福と同時に
必ず国家社会の平和と繁栄を実現しようとするものですねぇ。
最も大聖人が目標にしているのは、世界中の、
どれだけ多くの人々が、日蓮仏法によって幸福になり、
それを保証する国家体制になるか、ということですねー。
それを実際に実現するためには、原理主義や教条主義では、
為しえない事は、歴史が証明していることですねぇ。
「随方毘尼」こそ、仏法流布において、
決して忘れてはいけない法理ですねー。
そういう観点からすれば、現在の創価学会、公明党の在り方というのは、
大聖人の意向に合致してると言えますねぇ。
もちろん、信仰は絶対的な世界、政治は相対的な世界、
こういう基本的なことはしっかりと押さえておかなければいけませんねぇ。
時々 、政治の世界に、信仰の絶対性を関連させて、
批判する人がいますが、幼稚なだけの話ですねー。
「南無妙法蓮華経如来」は世界宗教的に通用する概念でしょうか?
「南無妙法蓮華経如来」という言葉をご存じでしょうか。
これは、日蓮系の仏教(特に創価学会・顕正会・日蓮正宗など)において、「久遠元初の仏」とされる存在を表す語です。
釈尊よりも“本源的な仏”であるとされ、その本質は「南無妙法蓮華経」という“法”を体現した存在とされます。
しかし、疑問に思うのは、この概念がどのような因果的プロセスを経て成立したのか、また、その構造が仏教内のみならず、世界宗教的視野から見て普遍性を持ち得るのか、ということです。
この「南無妙法蓮華経如来」という概念は、単に言葉だけではなく、それが“言葉として成立するまでの背景と過程”を理解して初めて意味を持つものでしょう。
以下、そのプロセスを順を追って整理してみます。
① 大乗仏教における「法」の優位
仏教は、初期の釈尊の教えから始まり、やがて「法」(ダルマ)が仏そのものの核心だという思想へと発展していきます。特に大乗仏教では、「法身仏(ほっしんぶつ)」という概念が現れ、物理的な存在としての釈尊を超え、永遠普遍の真理そのものが仏であるとされます。
② 法華経における「久遠実成」の思想
この「法身」の発想がさらに進化したのが、法華経における「久遠実成」の思想です。寿量品で説かれる通り、釈尊はインドで生まれて仏となったのではなく、実は遥か過去の「五百塵点劫」という永遠に近い昔にすでに成仏していたのだ、とされます。
これは、時間を超越した“永遠の仏”の顕現を意味します。
③ 日蓮仏法の「文底下種」「本因妙」思想
日蓮は、法華経をさらに深読みし、「釈尊が久遠に成仏したのは、実は“ある法”を唱えたからである」と捉えました。その“ある法”こそが「南無妙法蓮華経」であり、この法を唱えること(唱題行)が仏への道であるという教義を打ち立てます。
このとき、釈尊は「本果妙の仏」(結果として成仏した仏)であり、日蓮こそが“その因(本因)”を最初に実践し示した「本因妙の仏」=「文底下種仏」とされます。この「文底(もんてい)」とは、法華経の“字面”には現れないが、法の本質を意味する“文の奥底”という意味です。
④ 南無妙法蓮華経如来の登場
このように、「妙法=宇宙の根源原理」「南無=それに帰命する行為」「如来=それを体現する覚者」として統合されたのが、「南無妙法蓮華経如来」という存在です。
ここには、「仏とは法を体現した存在である」という仏教の大原理と、「その法とは妙法であり、妙法とは南無妙法蓮華経である」という日蓮の悟りが合流しています。
このような因果的プロセスを通して、この言葉がただの呪文や記号ではなく、世界観そのものを表す“語り得る真理”として生まれたと見ることもできます。
■ 世界宗教的に見たときの可能性は?
改めて問いたいのは、この「南無妙法蓮華経如来」という概念が、仏教という枠組みを越えて、『普遍的な宗教的・哲学的概念として通用するのか?』ということです。
キリスト教においては「初めに言があった(ロゴス)」というヨハネ福音書の冒頭にある通り、真理が“言葉”として存在する思想があります。
またイスラム教でも、神の意志(ワヒー)が“言葉”としてクルアーンに顕れたとされます。
つまり「真理は言葉となって顕れる」「その言葉を体現した者が“救済者”である」という構図は、決して仏教だけのものではありません。
「南無妙法蓮華経如来」という言葉も、日蓮仏法においては、“宇宙の真理が言語化されたもの”であり、それを生きた形で顕した者が“久遠元初の仏”であるという構造を持ちます。そう考えると、この概念はある意味で“宗教的ロゴス論”の一形態とも言えるかもしれません。
「南無妙法蓮華経如来」という概念は、仏教の枠内でしか通用しない教義なのか、それとも“言語と存在と真理”を結ぶ世界宗教的構造として再解釈が可能なのでしょうか?
(質問に感謝)
そうですねー。
創価学会の立場から考えてみましょうか。
創価学会の立場から、と言うと仏教の特別な側面からの
見方、というふうに捉えがちな人が多いですねー。
実際には、創価学会の立場が、仏教の正統な立場なのですよねー。
中途半端な仏教知識ではこれが理解できませんねぇ。
仏教を「ありがたい仏様のお話」などと言ってるようでは話になりません。
釈迦仏教の本質を捉えたのが日蓮仏法ですねー。
こう言うと簡単ですが、その過程には、膨大な時代背景と人脈と
研究が存在した上での結果なのですよねー。
その結論は、仏教の本質は、生命論と宗教論が
結合して成り立っているということです。
生命論は、科学的、理性的に構築されたものですねぇ。
だから、質問者さんの言う「世界宗教的に通用する概念」であり、
その評価は、理性で判断することができるわけですねー。
それで、仏法の生命論は、
多くの他の学問的研究成果とも連動するものがありますねー。
例えば、優れた仏教研究者は、仏法の生命論が、フロイトやユングなどの
深層心理学者の理論と合致しているところが多い事を
指摘していますねぇ。
ユングは、人間の生命の奥底には、
個人的な無意識の世界とともに、
人類共通の基盤が形成されていると主張していますねぇ。
1人の人間の、無意識の世界の奥底には、
人類発生以来のすべての遺産が流れ込み、
全人類の人々と交流し合っている、というのです。
この、人類全体にまで広がった心の深層を「集合無意識」
と名づけていますねぇ。
集合無意識には、人類全体に共通して、
少なくとも、 100万年間の人類の体験がすべて受け継がれ、潜在している、
と主張しているのですよ。
このユングの「集合無意識」という人間生命の捉え方は、
日蓮仏法が説いている「実相・玄宗の極地・妙法」
と底通するものが間違いなくありますねー。
このことは、ユングと日蓮仏法を両方研究すれば、
だれでも納得のいくことですねぇ。
世界に通用する理論であり概念ですねー。
日蓮仏法の生命論は、天台の一念三千論が基盤になっています。
まあ、一念三千論などと、気軽に口にする人がいますが、
実際には、その理論をマスターしている人などほとんどいませんよ。
最近は、日蓮仏法のことを知ったかぶりして、
創価学会を批判する人が多いですねー。
自分自身が恥ずかしくないのですかねー。
(質問者さんの事ではありません)
さてそれで、ここまでは、生命論です。
それでは、これから宗教論になるわけですが、
何が、生命論と宗教論の境界になるのか考えてみましょう。
その境界は、ユングの「集合無意識」に、
そして、日蓮仏法の「実相」に仏性があるということを、
認められるかどうかなのですよねー。
日蓮大聖人は次のように書いていますねぇ。
「いわゆる、世間の無常は眼前に有り。
あに人界に二乗界無からんや。無顧の悪人もなお妻子を慈愛す。
菩薩界の一分なり。ただ仏界ばかり現じ難し。
九界を具するをもって、強いてこれを信じ、疑惑せしむることなかれ」
大聖人の書かれた御書を読むと、あらゆる方向から、
あらゆる具体的な例を出しながら仏界の存在に
論究しています。
しかし最終的には、人間生命の中にある仏界の存在を、
「強いてこれを信じ」と書いていますねぇ。
これが、まさに宗教論ですねー。
この仏界が南無妙法蓮華経ですねー。
だから、「『南無妙法蓮華経如来』は世界宗教的に通用する概念」
であるかどうかは、信じられるかどうかにかかっているわけですねー。
日蓮仏法は、生命論として、理論的には世界に通用するのは当然ですが、
仏界を信じられるかどうかは個人の問題でしょう。
この個人の問題に、
「世界宗教的に通用する」かどうかという疑問を感じるのは、
質問者さんの南無妙法蓮華経に対する、
感覚が影響しているように思えますねぇ。
質問者さんは、南無妙法蓮華経の世界性に対する疑問の根拠として、
大乗仏教における法・法華経における久遠実成・
日蓮仏法の文底下種・南無妙法蓮華経如来の登場
などの観点から問題提起をしています。
しかし、よく考えてくださいねー。
こんなことが、南無妙法蓮華経の世界性を検証する要件になりますか。
こんなこと言ったって、世界に通用しませんよ。
アメリカやヨーロッパの人にこんな話をしたら、
「あんた何言ってんの?」と相手にされませんよ。
当然ながら、世界に通用するかどうかは、
仏教哲学、宗教哲学、生命論、宗教論という世界に通用する論理形態で、
アプローチするのが当たり前ですねー。
それと同時に、創価学会の世界組織であるSGIの現場を検証すれば、
日蓮仏法が、創価学会の活動によって、
世界的宗教になってきているのが、よく理解できますよ。
余談になりますが、日蓮大聖人が亡くなられた、翌年に、
中世文学者の吉田兼好が生まれていますねぇ。
彼は、仏教にも造詣が深かったことで知られています。
彼の代表的随筆である『徒然草 』に
次のような段ありますよ。
【心なしと見ゆる者も、よき一言はいふものなり。
ある荒夷の恐しげなるが、かたへにあひて、
「御子はおはすや」と問ひしに、
「一人も持ち侍らず」と答へしかば、
「さては、もののあはれは知り給はじ。
情なき御心にぞものし給ふらんと、いと恐し。
子故にこそ、万のあはれは思ひ知らるれ」
と言ひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛の道ならでは、かゝる者の心に、
慈悲ありなんや。
孝養の心なき者も、子持ちてこそ、親の志は思ひ知るなれ】
この段は、 十界互具論を念頭において書かれているでしょうねぇ。
「無顧の悪人もなお妻子を慈愛す。菩薩界の一分なり」
と大聖人が書いているのと、響き合いますねぇ。
私の記憶に、特に残っている個所ですよ。
「南無妙法蓮華経」は世界中の人々に広がる可能性があると思いますか?
「南無妙法蓮華経」は、日蓮仏法においてとても大切なお題目とされています。
この言葉には、「すべての人が本来の仏の命を呼び起こせる」という考え方が込められております。
法華経や御書を他言語に翻訳する際、「妙法」「仏界」「一念三千」「久遠実成」「宿命」「宿業」「十界互具」「地涌の菩薩」といった日蓮仏法の核心概念が、宗教的背景や言語文化の違いを超えて、どこまで正確に伝わるのか、とても難しい課題だと感じます。
そこで、疑問に思うことがあります。
現在の世界人口においては、キリスト教徒が約24億人、イスラム教徒が約20億人とされるのに対し、仏教は人口的にも、また影響力の面でも一部のアジア圏に限られている印象があります。
それぞれに価値観や神のとらえ方があり、たとえばキリスト教では「神と人とのつながり」、イスラム教では「アッラーの教えに従うこと」などが中心になっています。
一方で、日蓮仏法では「仏の命は私たちの中にある」「一念に宇宙全体が映る」といった考え方があり、考え方の土台が少し違うようにも感じます。
こうした中で、以下の点についてご意見をうかがいたいです
1. 「南無妙法蓮華経」の意味は、日本語以外の言語(たとえば英語など)に訳したとき、どのくらい本質が伝わると思いますか?
2. 仏教のような「神を人格としてとらえない」考え方は、キリスト教やイスラム教の文化圏でも受け入れられると思いますか?
3. 日蓮仏法を世界にもっと広めるには、どんな工夫(言葉の選び方や説明の仕方など)が必要だと思いますか?
もし「妙法」が人類共通の智慧だとするなら、文化や宗教の違いによって伝わりにくい部分にも、丁寧に向き合うことが大切なのではないかと思います。
(質問に感謝)
そうですねー。
何より、質問者さんは、漢字文化に対して、
卑下するような、偏見を持っているのが感じられますねぇ。
まずその偏見を捨てなければ、日蓮仏法の、
世界への広布について、正しく認識することはできませんよー。
創価学会の信仰において、
ゲルマン系言語やラテン系言語などの文字や言葉は、
世界的言語として受け入れやすいと思っているようですねぇ。
それは、現場を知らないから、頭で考えているだけだから、
そのように偏見が出てくるのですよ。
私は、言語の違う4カ国の創価学会員に会いましたねぇ。
一緒に、題目も唱えましたよ。
実際には、全く違和感ありませんよ。
質問者さんが、負い目に感じているような、漢字に対する偏見など、
どこにも感じられませんでしたねぇ。
実に、日常的に、当たり前のように南無妙法蓮華経と唱えていますねぇ。
日本人より、発音がはっきりしているくらいですよ。
折伏の体験を聞くと、信心をしていない、それぞれの国の人たちの、
題目に対する反応は、日本人よりも、はるかに素直な感じですよ。
ちょうど、キリスト教で皆が、
「アーメン」というのと同じような感覚ですねー。
さらに折伏体験を聞いて感じる事は、
日蓮仏法の教義に対して、素直に受け入れられる人が多いのも、
特徴のようですねー。
日本人のように、タチの悪い創価学会批判者というのは、
ほとんどいませんねぇ。
これは本当の話ですよ。
当然ながら、日本の折伏の仕方と、海外の仕方とでは全然違いますよ。
この事については、日蓮大聖人が、方法論として教えているのです。
それは、「宗教の五綱」という仏法流布の具体的な方法ですねー。
御書を引用すると理解しづらいでしょうから、
まとめたものを引用しておきましょう。
【宗教の五綱とは、日蓮大聖人が定められた、
仏法を広めるにあたって心得るべき五つの規範。
「教」「機」「時」「国」「教法流布の先後」の五つをいう。
①教を知る。
一切の宗教・思想、なかんずく仏教の教えについて、
その内容の正邪・浅深・優劣を判別し、
どの教えが最高の教えであるかを知ること。
②機を知る。
機は人々の仏教を信じ理解する能力。
人々がどのような教えを求め、
どの法によって教化される衆生であるかを知ること。
③時を知る。
現在がいかなる時であるかを知り、
その時にどの法を広めるべきかを知っていること。
④国を知る。
それぞれの国や社会、地域によって異なる自然的、
文化的状況の相違に応じて弘教の方法を考え、
教えを展開していくこと。
⑤教法流布の先後を知る。
先に広まった教えを知って、
後に広めるべき教えを知ること。後に広める教えは、
先に広まった教えよりも優れた教えでなければならない。
このように大聖人は世界に日蓮仏法を広める時に、
それぞれの国民が、最も仏法を理解しやすいようにするための内容を
教えているのですねー。
最後の「教法流布の先後」について、
御書の原文を1部だけ引用してみましょう。
「五に教法流布の先後とは、いまだ仏法渡らざる国には、
いまだ仏法を聴かざる者あり。既に仏法渡れる国には、
仏法を信ずる者あり。必ず先に弘まれる法を知って、
後の法を弘むべし」
とありますよ。
この中で、「いまだ仏法渡らざる国には、いまだ仏法を聴かざる者あり」
と書いていますが、この状況が、
ヨーロッパやアメリカなど海外の多くの国の現状ですね。
このような人々には、仏法を理解させるための最適な方法を取りなさい、
と教えているわけですねー。
その方法論は、日本とは全く違うのですよ。
このように、日蓮仏法は、全世界に広まることを
立宗の時から目標にしている宗教なのですよ。
実際には、御書の翻訳・出版は、英語、中国語、スペイン語、
韓国語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ポルトガル語、
オランダ語、デンマーク語など10言語以上に及んでいますねぇ。
またその仏法の知識を深化させるための、
教学試験というのも多くの国々で行われていますねぇ。
世界中のメンバーが日々、御書を拝し、大聖人の仏法を学ぶことで、
希望の人生を歩んでいますねぇ。
そこには、質問者さんが心配している、
南無妙法蓮華経という言語の違和感など、
全くありませんよ。
そして、質問者さんが書いているように、
『「妙法」「仏界」「一念三千」「久遠実成」「宿命」「宿業」
「十界互具」「地涌の菩薩」といった日蓮仏法の核心概念が、
宗教的背景や言語文化の違いを超えて』
見事に人々の心の中にダイレクトに入っているのですよ。
アフリカの国の中で、特に新しい創価学会員が
多く増えている国の1つに、コートジボワールがありますねー。
そのコートジボワールでは、近年、以下のような行事がありましたねぇ。
【2023/01/10】
コートジボワール政府関係者を学会代表が表敬訪問。
スガイ・アフリカ顧問とコートジボワール創価学会のトボエ副理事長、
SGI(創価学会インタナショナル) が対談。
【2025/05/23】
コートジボワール宗教局局次長と学会代表が会見。
コートジボワール創価学会のマルティン・ヴァレ副理事長、
ジョナス・トボエ副理事長、
SGI(創価学会インタナショナル)事務総局の林アフリカ部長ら一行が
宗務局次長と会見。
【2025/5/15】
.コートジボワール創価学会が「宗教フォーラム」に加盟 。代表と会見。
コートジボワール創価学会が、同国の「宗教フォーラム」に
正式加盟することとなった。
同フォーラムは国として、諸宗教の代表が集まり社会の協調を促進するもの。
そのコートジボワールの、新入会員の入会の儀式の様子を、
映像で見ることができましたよ。
1,000人ほどが入れる大きなホールで行われていましたねぇ。
座席は、紹介者と入会希望者で満席でしたねぇ。
題目を唱えながら、儀式が行われていましたねぇ。
一度に、数百人単位の入会者がいるということでした。
質問者さんは、いろいろと世界への日蓮仏法の流布については、
考えをめぐらせていますが、 1度、海外の創価学会の人に会って話を聞けば、
質問者さんが考えているような課題は、
見事にクリアしていることが実感としてわかりますよ。
南無妙法蓮華経の「名前自体が仏である」という思想は釈尊由来?それとも日蓮の独自解釈?
仏教における「名」と「仏性」の関係について、
「南無妙法蓮華経」という“名”が仏そのものであるという教えは、
釈尊の教えに基づくものなのか?
それとも、後代(特に日蓮)の独自解釈なのか?
以下、段階的に整理しました。仏教に詳しい方、ぜひご意見をお聞かせください。
■【1】釈尊の初期仏教では「名が仏」とは言わない
原始仏教では、「仏」は悟りを開いた覚者を指し、名や言葉に霊験があるとはされていません。
たとえば『ダンマパダ』などにも、名前自体に功徳があるような記述はなく、重視されるのは戒律・修行・智慧です。
→ よって「名=仏性」「名前がそのまま仏である」という思想は、初期仏教には見られません。
■【2】大乗仏教、とくに法華経で名の力が強調される
法華経においては、「経の名を聞く者は成仏する」「妙法蓮華経の五字を持つ者は無量の功徳を得る」といった記述があります。
これは「名」に霊的な作用があるとする信仰のはじまりと言えます。
→ ただしここでも、「名そのものが仏の実体である」とまで言っているわけではありません。
■【3】日蓮による極限的展開──「名字即実」の教義
日蓮はこの流れをさらに発展させ、「南無妙法蓮華経」という名がそのまま仏であると説きました。
たとえば以下のような記述があります:
• 「南無妙法蓮華経は即ち一切諸仏の成道の本因なり」(観心本尊抄)
• 「名字即実の法門にて候」(一念三千法門)
ここで初めて「名前=仏の実体(法身仏)」という教義が明確に打ち出されました。
■【4】裏付けとしての文証と教学的背景
日蓮はこの思想を、法華経の文証や天台教学に求めました。
◎たとえば『法華経・如来寿量品』の「若有聞是経者、無一人不成佛道」
→ 経の名を聞くことが成仏に直結するという解釈
◎天台の五重玄義の中の「名字→観行→相似→分真→究竟」に対して
→ 日蓮は「名字即究竟」と主張。「名を唱えるだけで悟りに至る」とします。
■【5】日蓮は勝手な解釈をしたのか?
「法華経の原文には“名字即実”という言葉は存在しない」という点では、確かに日蓮は独自の再解釈を行ったと言えます。
ただし、それは鎌倉時代という「末法思想」が浸透し、念仏や唱名による救済が広がる中で生まれた、創造的教義形成とも捉えられます。
どの立場で見ますか?
(1) 信仰者の視点から見ると:
→ 「南無妙法蓮華経」は仏そのものであり、題目を唱えることが即身成仏の道である。名字即実は絶対的真理の表現。
(2) 学術的視点から見ると:
→ 「名字即実」は日蓮による大胆な再解釈であり、大乗仏教や天台教学の要素を組み合わせた創造的再編成である。
(3) 批判的視点から見ると:
→ 法華経に明記されていない教義を拡大解釈し、「名」と「実体」を混同する恣意的構築である。
補足
『法華経・如来寿量品第十六』
■原文(聖典原文):
「若有聞是経者、無一人不成佛道」
(若しこの経を聞くこと有らば、一人として仏道を成ぜざること無し)
■現代語訳:
この経(法華経)を聞く者があれば、そのすべてが成仏する。仏道に入らない者は一人もいない。
この一文は、「妙法蓮華経という名前を耳にすること」自体が成仏に通じると、後代の教学者(とくに天台や日蓮)が解釈。
『法華経・見宝塔品第十一』
■原文:
「若人持此経、則為持我身。若人持此経、則為見我。若人持此経、則為聞我法。」
(もし人、此の経を持たば、すなわち我が身を持つなり。もし人、此の経を持たば、すなわち我を見るなり。もし人、此の経を持たば、すなわち我が法を聞くなり。)
■現代語訳:
この経を持つ者は、すなわち仏の身体を持つものであり、仏を見たものであり、仏の法を聞いたものである。
ここでも「経を持つこと(信受・読誦・書写・説法などを含む)」が、仏と等しい功徳を得ることと説かれています。日蓮はこれを「経名の五字を受持する功徳」とする。
『法華経・勧持品第十三』
■原文:
「是経万億佛所護念、汝等当一心受持読誦解説書寫」
(この経は万億の仏に護念せらる。なんじ等まさに一心に受持・読誦・解説・書写すべし)
■現代語訳:
この経は、数多くの仏によって守られている。だから汝たちは一心にこれを受け持ち、読誦し、解釈し、書写しなさい。
「経の名(妙法蓮華経)を受け持つこと」に霊験があるという発想の源泉。
(質問に感謝)
そうですねー。
質問者さんは、日蓮仏法の基本が理解できていないですねー。
質問者さんの言っている疑問を別の例えで言えば、
次のようになるでしょうねぇ。
ここに1万円札の本体があります。言うまでもなくその1万円札には、
1万円分の品物が買えるという働きが含まれていますねぇ。
そして、その1万円札を指し示す名前である「 1万円札」
という名詞があります。
これについて質問者さんは、
「『 1万円札』という名前の名詞に、
1万円の働きがあるというのはおかしいではないか」
と言っているのですよ。
当たり前でしょう。 1万円札を指し示す「 1万円札」という名前の名詞と、
1万円札本体が違うのは当然でしょう。
自分でおかしいと思いませんか?
だから、日蓮大聖人は、
南無妙法蓮華経は名前ではないと言っているのですよ。
1万円札本体そのものだと言っているのですねー。
「詮ずるところ、妙法蓮華経の五字をば、
当時の人々は名とばかり思えり。さにては候わず、体なり。
体とは心にて候。章安云わく『けだし、序王とは経の玄意を叙ぶ。
玄意は文の心を述ぶ』云々。
この釈の心は、妙法蓮華経と申すは、文にあらず、義にあらず、
一経の心なりと釈せられて候」
質問者さんは、「当時の人々は名とばかり思えり」というように、
当時の人々と同じように理解ができていないのですよ。
そして、その「一経の心」とは、
次のように大聖人は書かれていますねぇ。
「『この好き良薬』とは寿量品の肝要たる、
名・体・宗・用・教の南無妙法蓮華経これなり」
これですねー。天台大師の五重玄義ですねー。
1万円札には、それだけの買い物ができる、
働きが備わっているということですねー。
天台大師の、この五重玄義の依文は、法華経の次の文ですねー。
「要を以て之を言わば、
如来の一切の所有の法(=名)、
如来の一切の自在の神力(=用)、
如来の一切の秘要の蔵(=体)、
如来の一切の甚深の事(=宗)は、
皆此の経(=教)に於いて宣示顕説す」
これですねー。
明確に、質問者さんが言う「名前」とは違う、
と書いているではないですか。
これで、質問内容が、認識の誤りから来ている、
無意味なものというのがわかりましたかねぇ。
さらに詳しく付け加えておきましょう。
「一経の心」とは何かを大聖人は、
次のように書いていますねぇ。
《御義口伝に云わく、「南無」とは梵語なり。ここには「帰命」と云う。
人法これ有り。人とは釈尊に帰命し奉るなり。
法とは法華経に帰命し奉るなり。また云わく、
「帰」と云うは迹門不変真如の理に帰するなり。
「命」とは本門随縁真如の智に命づくなり。
「帰命」とは南無妙法蓮華経これなり。
釈に云わく「随縁・不変は、一念の寂・照なり」。
また「帰」とは我らが色法なり。「命」とは我らが心法なり。
色心不二なるを一極と云うなり。
釈に云わく「一極に帰せしむるが故に仏乗と云う」。
また云わく、南無妙法蓮華経の「南無」とは梵語、
「妙法蓮華経」は漢語なり。梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり。
また云わく、梵語には「薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧」と云う。
ここには「妙法蓮華経」と云うなり。「薩」とは妙なり。
「達磨」とは法なり。「芬陀梨伽」とは蓮華なり。
「蘇多覧」とは経なり。九字は九尊の仏体なり。
九界即仏界の表示なり。「妙」とは法性なり。
「法」とは無明なり。無明・法性一体なるを妙法と云うなり。
「蓮華」とは因果の二法なり。これまた因果一体なり。
「経」とは一切衆生の言語音声を経と云うなり。
釈に云わく「声、仏事をなす。これを名づけて経となす」。
あるいは三世常恒なるを経と云うなり。
法界は妙法なり。法界は蓮華なり。法界は経なり。
蓮華とは八葉九尊の仏体なり。
能く能くこれを思うべし已上》
大聖人は、「能く能くこれを思うべし」と書いていますねぇ。
浅薄な教学で、理解できるものではないのですよ。
そして、日蓮仏法について、次のようにも書いていますよ。
「当世の習いそこないの学者、ゆめにもしらざる法門なり」
「当世の習いそこないの学者」にならないように
気をつけましょうねぇ。
創価学会の教義では、集団的な霊的現象をどのように捉えるのでしょうか? 実体験も伺いたい
いわゆる「霊現象」や「霊障」といったものに対しては、個人レベルでの体験談が多く語られる一方で、特定の地域や集団、建物などで複数人が同時に体験する霊的な現象、あるいは不調・違和感・異常な出来事が続くといった“集団的な霊障”のようなケースも、古今東西広く存在しています。
こうした現象に対し、創価学会では超常的・霊的な存在(霊魂・霊体・神仏)をどのように扱っているのでしょうか?
特に、日蓮仏法に基づいた「生命の因果論」や「一念三千」「依正不二」「業因共業」といった教義に照らすと、これらの現象はどのように説明され、どう乗り越えるものとされているのでしょうか?
さらに、以下のような点について、実際の体験談や実践を通した感覚をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひお聞きしたい。
複数人が霊的な異変を体感した場所・場面で、唱題や信心を通して場の空気が明確に変わったような体験
ある地域や家系などにわたる「集団的な因縁(業)」が、信仰実践によって浄化・転換されたような事例
日蓮大聖人の御書や学会指導などにある「不思議な瑞相」や「集団としての魔の働き」といった概念の理解と現代的解釈
「霊的」と捉えられてきた現象を、「無明の共鳴」「一念のエネルギー」「共業の発現」として実感した経験
創価学会では、「霊や霊障」そのものを信仰対象にすることなく、それらを「恐怖によって生まれる迷いの現象」と捉え、それに対する唯一の本質的な解決は「唱題による一念の変革」であるとする立場を取っているとしています。
また、「地縛霊」や「たたり」などについても、それが現れること自体が自身または集団の一念の乱れ(無明)や因縁が縁に触れて顕在化した結果とする見方もあるようです。
このような仏法的な観点から心理学的な「集団ヒステリー」や「場のエネルギーの共鳴」といった概念の理解への仏法的解釈をも創価学会の教義と実践に基づいて精通されている皆様にお聞きしたいと思います。
「集団的霊的現象」や「複数人が体験した異変」は、仏法ではどのように説明されるとお考えでしょうか?
それらを信心によって乗り越えた、または根本から消滅させた体験がある方は、どういう経緯でしたか?
「唱題によって空間・場の因縁が変わる」と感じたことはありますか?
それは“信じることで生まれる現象”なのか、“信心によって現象そのものが転じる”と感じるのか?
(質問に感謝)
そうですねー。
質問文に書かれているような内容は、日蓮仏法とは関係ないですねー。
また、創価学会とも関係のない話ですねー。
日蓮大聖人は、質問文のような内容を仏法に関係させることを、
明確に否定していますねぇ。次のように書いています。
「権経に宿習ありて実経に入らざらん者は、
あるいは魔にたぼらかされて通を現ずるか。
ただ法門をもって邪正をただすべし。
利根と通力とにはよるべからず」
「利根と通力」というのは、普通の人と違った頭の働きをしていて、
普通の人の目や耳に、見えないもの、聞こえないものを感じたりする人など、
不思議な力を持っている、といえるようなことですねー。
人間は困っている時や心身ともに疲れ果て苦しんでいる時に、
藁をもすがる気持ちでこういう、おかしな力を頼ってしまいがちですねぇ。
しかし、簡単で便利な不思議な力に飛びつく前に、
それが、まがい物でないかを見極めなければ、だまされてしまいますねぇ。
創価学会の指導は次のようなものですよ。
「人生も社会も、神がかり的な生き方や、
手品師的な解決法はありえない。
人生も一般社会の実相も、つねに地道に、
正しく営々と積み重ね、築きあげていくものである」
こういうことですねぇ。
さらに、質問文に書いてあるような現象で、
普遍的に全人類の幸福が実現できるのか、
世界の平和に具体的に役立てるのか、
ということを考えれば、全く、無力な自己満足の世界ですね。
一時的に、個人的にしろ、団体にしろ、
酒を飲んで喜んでいる状態と同じですねー。
酔いが醒めれば、六道輪廻の現実が待っているだけですねー。
現実の、自己自身の変革や社会の変革には、
何の役にも立ちませんねぇ。
創価学会や日蓮仏法は、
そんな、ちょっと変な人間が妄想するような世界とは、
別物ですよ。
【──南無妙法蓮華経は本当に万年通用する修行法なのか?】
南無妙法蓮華経――この七音の響きは、単なる言葉を超えて、仏教において「生命の根源法理」「宇宙の真理」とまで位置づけられてきました。
日蓮はこれを“唱えること”によって、仏界(仏の悟りの境地)を我が身に呼び起こせると説きました。
しかし、これが本当に未来千年、万年にわたっても通用する普遍的な修行法なのでしょうか?
現代はAI、脳科学、量子情報、生体共鳴など、人間存在そのものの仕組みに迫る大転換期です。
たとえば政府のムーンショット計画では、「肉体の制限を超えた生存」や「意識間の非言語的共有」すら視野に入っています。
このような未来像において、「音声で唱える」南無妙法蓮華経という修行形態は、普遍性ある修行法であるといえるのでしょうか?
そもそも歴史的に見れば、「根本原理」の表現は文化や技術によって様々に変化してきました。たとえば西洋ではロゴス(宇宙の理法)やオーム(サンスクリットの原初音)が、東洋では道(タオ)や理(ことわり)が用いられ、これらは皆「根源秩序」の象徴でした。
南無妙法蓮華経もまた、それに類する“普遍原理”の一つと考えれば、言葉や音声に依存した現行の修行形態が永遠不変だとは限らないのではないでしょうか?
科学の進展により、「仏界のような高次元意識状態」が特定の脳波パターンや周波数、DNA共鳴波動と対応していることが解明されるかもしれません。
“声を出す”代わりに、“意識状態を共鳴させる”ことで南無妙法蓮華経と同等の内的作用を生む修行法が生まれる可能性もあります。
量子的意識波動による共鳴としての唱題、“内なる振動”としての妙法。
こうした未来では、「唱えること」は外的な儀礼ではなく、内的存在状態そのものとなり、AIや非生物知性とも共有可能になるでしょう。
つまり、南無妙法蓮華経は「言葉」や「行」としてではなく、「情報構造」や「宇宙的秩序」として表現されるものと思われます。
それでも、南無妙法蓮華経が象徴する“法”そのものは変わらず、ただその表現方法が変容していくという見方ができます。
これは仏典にも通じる発想で、法華経もまた「方便(仮の教え)」によって真理を伝えることの重要性を説いています。
現代の唱題も、その一方便に過ぎないのかもしれません。
このように、未来においても「妙法」という普遍法理は残り続けるとしても、「唱題」という形式自体が普遍的かどうかは、再検証が必要であると思います。南無妙法蓮華経の“唱える意味”を本質から問い直すべき時代にいるのではないでしょうか。
(質問に感謝)
そうですねー。
まあ、簡単な話ですねー。
日蓮大聖人は、次のように書いていますねぇ。
「智者に我が義やぶられずば用いじとなり」
これを逆に言えば、質問者さんの言うような、
便利な、南無妙法蓮華経の代替物が出てくるのであれば、
それを取り入れれば良いではないか、ということですよ。
もちろん、そんな事は絶対にあり得ない、という確信のもとに、
書かれたものであることは言うまでもありませんねぇ。
質問の内容を読んでも、南無妙法蓮華経の理解が浅いのと、
人間存在に対する把握が単純であるとしか言いようがありませんねぇ。
質問内容を、もっと分かりやすい別の例で考えてみましょう。
「牛は草を食べて大きくなる。そして食料用の牛肉になる。
それでは、牛と同じ働きをする機械を作ればよいではないか。
そうすれば、牛の世話をする労力もいらない。
生産途中で、動物を介在させることがないので、
安定した生産能力を維持することができるだろう」
というのと同じですねー。
まあ、現在、鉱物から食べ物を作ることもやっていますねぇ。
また植物から、肉を作るようなことも実験していますねぇ。
ただ、これらとは次元の違う話ですねー。
もっと簡単に言えば、
「この薬を飲めば、運動しなくても、運動したと全く同じ効果が得られます」
「この薬を飲めば、楽しい時間を過ごしたことと全く同じ効果が得られます」
と言うのと同じですねー。
そんな機械やこんな薬ができるわけがありませんねぇ。
なぜかなら、事実としてありえないことだからです。
質問者さんは、現実にはあり得ないことを空想しているだけなのですよ。
南無妙法蓮華経は、現実の人間に対応したものですねぇ。
質問者さんの南無妙法蓮華経、また人間の捉え方は、
働きの限定されたは、 1個の機械としての捉え方しかできていませんよ。
例えば、「『音声で唱える』南無妙法蓮華経という修行形態」
と書いていますねぇ。
ところが、創価学会員の方には、言葉が発声できない人もいますよ。
そういう方たちのグループ組織もあるのですよ。
質問者さんは、「『音声で唱える』南無妙法蓮華経という修行形態」
でしか、南無妙法蓮華経の働きが無いと捉えているわけでしょう。
ところが実際には言葉が出ない学会員がいくらでも
功徳を受けているわけですねー。
質問者さんの、南無妙法蓮華経や学会員の捉え方というのは、
矮小化したもので、事実とは全く違うのが分かるでしょう。
さらに大聖人は次のように書いていますよ。
「南無妙法蓮華経は、自行・化他に亘るなり」
質問者さんはこの御書が理解できないでしょう。
質問者さんが、質問文で書いている南無妙法蓮華経は、
「自行・化他に亘る」南無妙法蓮華経とは全く違いますねぇ。
色々と考えてはいるようですが、
その考えの根底となっている南無妙法蓮華経、
そして、人間に対する把握が誤っているわけです。
だから、【──南無妙法蓮華経は本当に万年通用する修行法なのか?】
という質問は、意味がないということが、理解できますか。
創価学会の「日蓮本仏論」と「南無妙法蓮華経の久遠説法」に矛盾や飛躍はないのか?
創価学会の教義において、「日蓮大聖人は久遠元初の本仏であり、その時に南無妙法蓮華経を説いた」とする主張は、教義の中心的な柱とされています。
この理論は確かに、日蓮本人の御書に見られる思想(発迹顕本、人法一箇)に根拠を持ちますが、果たして論理的に一貫しているでしょうか?以下に、体系構造とその飛躍点・矛盾点を検証してみたいと思います。
【① 日蓮本人の自覚と記述】
日蓮は『開目抄』『観心本尊抄』などにおいて、自らを「末法の御本仏」的に示唆している表現を確かに用いています。
また、「人法一箇」として、自らの生命と南無妙法蓮華経との一体性を強調します。
これらは象徴的に読めば、深い宗教的自覚と使命感を示すものですが、「自分は久遠元初の本仏であり、釈迦よりも先に南無妙法蓮華経を説いた」とは明示していません。
【② 教団による体系化と後代の教義発展】
この「日蓮本仏論」は、日興・日寛らによって体系化され、日蓮正宗の「日蓮絶対主義」に結晶し、創価学会はそこからさらに「宇宙的な永遠の本仏」として日蓮を位置づけました。
ここにおいて、「久遠元初」という宇宙論的時間枠が導入され、「釈迦すら超越した存在としての日蓮像」が確立します。
【③ 矛盾点・飛躍点】
しかしこの教義には以下のような論理的・歴史的な飛躍や矛盾が見られます。
1. 仏教史との齟齬
釈迦仏教における久遠仏概念(法華経寿量品)とは、本来的に“釈迦”を永遠の仏と位置づけるものです。
日蓮はその中の菩薩行者という前提で登場するのであり、その「久遠の本仏」の座を日蓮自身が奪うという発想は、法華経の体系そのものを転倒させる論理操作です。
2. 「久遠」の論理の濫用
創価学会における「久遠元初において日蓮が法を説いた」という主張は、歴史的時系列や経典の文脈を超越しすぎています。
たとえ象徴的真理として捉えるにせよ、「久遠」を無制限に使えば、誰でも自分の信奉者を「本仏」化できてしまうという理屈の崩壊に至ります。
3. 日蓮本人の立場との不整合
日蓮は繰り返し「釈迦仏を本仏」とする発言(例:釈尊久遠実成の仏)を残しています。
最晩年でも「釈尊久遠の仏、法華最第一の経、日蓮は其の御使いなり」(『守護国家論』)と書いており、完全に自己を本仏として超越的に設定したとは言い切れません。
4. 「法」と「人」の同一視の危険性
「南無妙法蓮華経」と「日蓮の生命」が一体不二であるとする「人法一箇」は、あくまで象徴的・実践的な仏教観であり、これを宇宙論的な本仏論に展開することには飛躍的解釈が必要です。
これを絶対化することは、教祖神格化と紙一重です。
【④ 結論と問い】
このように、創価学会の教義には、日蓮自身の思想を象徴的に受け取る限りでは一定の正当性があるものの、それを宇宙的本仏論として絶対化し、「釈迦超え」まで主張するのは飛躍が大きいと言えます。
この「日蓮本仏論」と「久遠元初における南無妙法蓮華経説法」という理論を、論理的・仏教学的にどう評価されますか?
さらなる知見があれば、ぜひご教示ください。
創価学会は「日蓮大聖人は久遠元初の本仏であり、その時に南無妙法蓮華経を説いた」と教えますが、これは日蓮本人の明言でしょうか?
御書には「発迹顕本」や「人法一箇」など、自覚的な記述がありますが、釈迦より前に南無妙法蓮華経を説いたとは記していません。
この教義は日興・日寛・創価三代会長によって体系化されたもので、日蓮本人の発言にはない「釈迦を超える仏」という構図を導入しています。
さらに「法と人の同一」「久遠元初」などの概念が絶対化されると、本来象徴的な意味合いのものが教祖の神格化に転化する危険性もあります。日蓮本人は晩年も「釈尊久遠の仏」と述べており、この点に疑問を感じています。
(質問に感謝)
そうですねー。
最初に、誤認識を指摘しておきましょう。
質問者さんは、「久遠元初において日蓮が法を説いた」と書いていますが、
こんな事は、御書にも、創価学会の指導の中にもありませんよ。
さて、質問者さんが提起している議論は、
創価学会第二代戸田会長の時代には、
いやというほど出てきたものでしたねぇ。
というのも、当時は、邪宗攻撃と言って、既成仏教の寺へ、
折伏に行き、徹底して法論したものですねぇ。
その結果、創価学会側の仏教哲学が、
仏教の真意であるということが明確になり、
決着の付いた話なのですよねー。
その証拠に、既成仏教関係の教団は、現在、
創価学会と法論はしませんよ。
それらの寺の中には、日蓮系の宗派も多くありましたねぇ。
関係者ならよく知っているのですが、実は、
日蓮系の宗派というのは、非常に多くあるのですねぇ。
下記は代表的なものですが、それぞれがまた多く分裂しているのですよ。
だからおそらく、日蓮系の宗派というのは、
30派を超えているのではないですかねー。
1.日蓮宗
2.日蓮宗不受不施派
3.不受不施日蓮講門宗
4.日蓮本宗
5.日蓮正宗
6.本門法華宗
7.法華宗陣門流
8.法華宗真門流
9.顕本法華宗
これらの宗派はすべて、日蓮大聖人の遺文集である御書を
宗旨としているのですねー。
同じ御書を宗旨としながら、どうしてこれほどに分派したのかというと、
御書の解釈が、それぞれ違ったと言うことなのですよ。
どのように違ったのかというと、質問者さんが、
質問文に書いているような、さらにそれ以上の
様々な解釈の仕方をしたということですねー。
代表的なものを適当に挙げておきましょう。
まず、本迹一致派と本迹勝劣派とがありますねー。
法華経の本門と迹門について、
大聖人は、「勝劣はない」と言っているというのと、
「勝劣はある」、と言っていると言うのに別れるわけですねー。
確かに大聖人は、
「本迹の相違は水火天地の違目なり」
と言われていますねぇ。しかし別の所では、
「ただ法華経ばかり教主釈尊の正言なり、三世十方の諸仏の真言なり」
と書かれて、法華経そのものを賛嘆されているのですねー。
どちらでも解釈できるような気になりますねぇ。
もちろん、大聖人の本意は、本迹相対すれば、
本門が優れているということが明白ですねー。
また、本迹勝劣派の主張としては、
大聖人の観心本尊抄にある、
「但八品に限る」
これをよりどころにしているわけですねー。
八品というのは、法華経の涌出品から嘱累品までの八品のことですねぇ。
本門の方が優れていると言う立場なのですが、
文上脱益に執着して、文底下種法門を知らないのですねぇ。
大聖人は次のように書いていますねぇ。
「一念三千の法門は、ただ法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり」
「今、末法に入りぬれば、余経も法華経もせんなし、
ただ南無妙法蓮華経なるべし」
実に明快ですねー。日蓮仏法は法華経本門の表面的な解釈ではなく、
文の底に秘し沈められた仏法の根本的な「法」
を取り出しているわけですねー。
これを、文底下種法門と言っているわけです。
当然ながら、この御書の解釈の違いから、
日蓮大聖人の位置付けも変わってくるわけですねー。
質問者さんが疑問に思っているような観点ですねぇ。
例えば、身延派などは、法華経の文上の解釈を妙法としています。
だから、応身の釈迦を本尊としてまつり、脱益の釈迦仏を
を本仏としており、大聖人は、菩薩と呼び、僧宝としているのですねー。
それで結局、身延派は、釈迦を拝むのか、
大聖人の仏像を拝むのか、文字曼荼羅を拝むのか、
わからなくなっているのですねー。
身延派の寺に行けば、様々な本尊があるのには驚かされますよ。
大聖人は、
「法華経の教主を本尊とする(のは)法華経の正意にはあらず」
と書いていますよ。
法華経を熟読すれば、末法においては釈尊を本尊にしても効力がない、
という事くらい、読解できるものですけどねぇ。
とくに、釈尊は、「人法勝劣」だということが理解できれば、
本尊にすべきではないのは、明らかなのですけどねぇ。
さらに大聖人は、
「この釈に本仏と云うは凡夫なり、迹仏と云うは仏なり」
と明言されていますねぇ。
このように、御書の解釈に従って、大聖人の位置も、
本仏、迹仏、菩薩、地湧の菩薩、凡夫など、様々ですねー。
同じように、仏教史というのも、観る位置によって、
ある意味で言えば、どのようにでも構築できるものなのですねー。
以前、私は、これらの、御書を誤って解釈することに対して、
不思議に思えた時期がありましたねぇ。
「御書の全編をしっかりと読めば、大聖人が本仏である事は、
明々白々である。それが理解できないのは、
よほど、国語力がないか、文章の読解力が劣っているか、
古文が読めないのではないか。いずれにしても頭が悪い」
と思えて仕方がなかったですねー。
暫くしてから、御書もそうですが仏教全般を
誤認識するというのは、一般の人にとっては、
当たり前だろうなあ、と思えるようになりましたねぇ。
要するに、仏教とは何か、という根源的なものが、
把握できていなければ、御書にしろ、法華経にしろ、様々な経文にしろ、
どのようにでも解釈できるものだ、ということがわかったからですねー。
大聖人は次のように書いていますねぇ。
「その教門の難信難解とは、一仏の所説において、
爾前の諸経には二乗と闡提とは未来に永く成仏せず、
教主釈尊は始めて正覚を成ず。
法華経迹本二門に来至したまい、彼の二説を壊る。
一仏二言、水火なり。誰人かこれを信ぜん。これは教門の難信難解なり」
これは、「仏の、一仏二言」と言われるものですねぇ。
釈尊は、 爾前経では、女人不成仏・ ニ乗不作仏と言いながら、
法華経にいたって、万人成仏を説きましたねぇ。
さらに、法華経には、
「四十余年未顕真実」とあります。
釈尊自身が説いてきた、それまでの経文には、
真実は明かしていないとして、否定したわけですねー。
これらを、どう解釈したらよいのか、どのように信じたら良いのか、
普通の人は迷って当たり前ですねー。
また大聖人も、人間の命について、
次のような2つの考え方を書いていますねぇ。
「百二十まで持って名をくたして死せんよりは、
生きて一日なりとも名をあげんことこそ大切なれ」
「一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」
これらを読めば、普通の人であれば、迷うのは当然でしょうねぇ。
結論的には、仏教の本質とは何か、日蓮仏法の真意は何か、
ということを正確に認識しているかどうかに、かかっているわけですねー。
それがなければ、迷いの世界をウロウロするだけですねー。
法華経の「法」とは内からの発見か、外からの啓示か?釈迦の悟りの根源を問う
仏教徒、あるいは人類全体が「智慧」の最高峰と仰ぐ釈迦の教え、特に法華経の思想を、最上の真理のように拠り所とする。
しかし、根本的な問いとして立ち返りたい。それを発信した「釈迦」とは誰だったのか。
釈迦も私たちと同じ「人間」であり、私たちと同じ遺伝子構造、同じ脳を持ち、同じ時空に肉体を持って生まれた生命体である。
いかに深遠な修行の果てに悟りを得たとはいえ、それは「人間の脳」によって到達された境地に他ならない。
では、彼の悟りを「宇宙的な真理」や「絶対的な法」とみなす根拠はどこにあるのか?本当に人間の内面だけから得られた結論を、地球規模はおろか銀河的スケールで普遍的なものと見なせるのか?
――「法」とは創造されるものではなく、「発見されるもの」なのか?
もし法が「創造」されるものなら、それは文化的、時代的相対性を免れない。しかし、仏法が言う「妙法」は、文化や国家、言語の相対を超えて普遍の真理として説かれる。
つまり、これは創造ではなく「発見」された法であるという前提に立っている。
しかし、ここで逆説的な問いが立ち上がる。――発見されたというが、それを「誰が」「どうやって」発見したのか?
釈迦の内面か?外界との交流か?それとも彼の内面に現れた外なる知性=宇宙的智慧の介入か?
この問いは宗教の普遍性、つまり「人類の取扱説明書」としての有効性を問う上で避けて通れない。
法は、人間の内面から出現する一方で、外的宇宙と響き合うものである。釈迦は宇宙的知性の「媒体」として、自らの内面に耳を澄ませ、そこに普遍的法の「共鳴」を見出したのではないか。
だとすれば、私たちが拠るべき指針とは何か?それは内面か?外界か?
両者の調和、「内外のバランス」こそが鍵ではないか?
人間の主観的内省と、世界・他者・宇宙との対話を止めないこと。どちらかに偏った瞬間、法は閉ざされる。
地球に無数にある宗教も、本来は「人類の取り扱い説明書」として、内外の接点を示す地図であるべきだったのではないか。
しかし、内面のみに閉じた神秘主義や、外的権威に従属した制度宗教のいずれも、その本質を見失ってきたように思える。
そこで、問いたい。宗教とは、絶対的な法とは、人間の内面にのみ宿るのか。
それとも、宇宙的知性が人間を通して「顕現」したものなのか。釈迦はただの人間だったのか、それとも「共鳴する存在」だったのか。
そして私たちは、どのように「法」とつながるべきなのか。
(質問に感謝)
そうですねー。
「法」というものが、どういうものか、
実感的に捉えられていないですねー。
「法」の捉え方が、誤っているところから来る疑問ですねー。
「法」というのは、サンスクリット語の「ダルマ」の和訳ですねー。
ダルマというのは、仏教やヒンドゥー教で重要な概念で、
「法」や「真理」や「秩序」といった意味で使われますねぇ。
しかし、これらの説明では、「法」の内容が概略すぎて、
実態が把握しにくいですねー。
「宇宙の真理」などと言ったって、
「エッ?宇宙に真理などと言うものがあるの?
真理というのは、真理でないものとの相対概念でしょう。
そんな概念で、宇宙が捉えられるの?」
ということになるでしょうねぇ。
質問者さんは、妙にインドに生まれた釈尊にこだわっているようですねぇ。
そんな事にあまりこだわらない方が良いですよ。
なぜなら、釈尊が実在の人物であったかどうか誰も証明できないですよ。
さらに、現在、経文として残っているものが、
本当に釈尊の説いたものか、どうかも誰も分からないのですよ。
「宇宙的智慧の介入」
「釈迦は宇宙的知性の『媒体』」
こんなことを考えない方が良いですよ。キリスト教になってしまいますよ。
例えば、非常に美しい1輪の花が咲いていたとしましょう。
それを見た人間が、
「なんと美しい花だろう。自然が人間に与えてくれる恵だ」
などと言うのと同じですよ。
「自然の恵み」などというのは、人間が勝手に考えた、
主観的な概念に他ならないでしょう。
花は、美しく咲こうと思って咲いたのではないですねー。
ましてや、人間の美意識に叶うように咲いたわけでもないですねー。
受粉を手助けしてくれる、昆虫をおびき寄せるために、
ケバケバしく咲いたり、
匂いを発したり、蜜を含んだりしているだけですねー。
そこに、何かの意思などあるわけがないのです。
同じように、宇宙に意思などありませんねぇ。
ましてや、それと釈尊とを結びつけるなどというのは、
「自然の恵み」という概念と同じですねー。
まさに、人間の脳が作り出す妄想的概念ですよ。
現実に、インドで生活した釈尊は、人間以外の何物でもありませんねぇ。
そこに何らかの、神格化、仏格化の要素を添加しようと言うのは、
人間の、目に見えないものも創作できるという、
脳の働きに他なりませんよ。
宇宙の、自然の、あるがままの姿とは何も関係ありませんよ。
また法華経は、釈尊滅後、少なくとも500年が経過した後に、
出来上がった経典ですねー。
これは、どの仏教学者も認めているところですよ。
500年の間、法華経は経典として出てきていないのですよ。
さらに、法華経の中に説かれている「長者窮子の喩」のたとえ話は、
釈尊が存命中の社会制度では、ありえない話なのですねー。
明らかに、法華経は、釈尊が現実に、
民衆救済のために、説法した内容とは違うのですよ。
法華経の優秀さは、
何度にもわたって仏典結集した僧侶たちの精進の結果なのですよ。
質問者さんは、その法華経の作者と現実にインドで生まれた釈尊とを、
直接的に結びつけて、様々な疑問を抱いているわけですよ。
本来、その2者は、質問者さんのような思考形態で、
結びつけるものではないのですよねー。
これで、質問者さんの、多くの疑問が、
無意味だというのが理解できたでしょうか。
さて次に、法華経に説かれるダルマについて考えてみましょう。
ダルマというのは、質問者さんが書いている、
「法とは内からの発見か、外からの啓示か」
という次元の話ではないのですよねー。
実は、法華経に説かれているダルマとは何か、
だれも、明確に把握している人はいなかったのですねー。
それを初めて、理論的に証明にしたのが、天台大師ですねー。
『妙法蓮華経文句』、『妙法蓮華経玄義』、『摩訶止観』
この三部作と言われるものの中に理論構築されていますねぇ。
いずれも、現代語訳や解説本がありますので学習できますよ。
ただ、非常に面倒くさい理論ですねー。
天台大師によってダルマが理論的に説明されたのですが、
そこから出てくる修行方法は、『摩訶止観』に説かれていますが、
一般人が誰でもできるというものではありませんねぇ。
「迷わずに心を止めて、自己自身を観察することによって
成仏する」
というようなものですから、基本的に成仏するのは無理でしょう。
だから、ダルマというものが理論的、観念的には理解できても、
実体的、実感的には把握できなかったわけですねー。
それから時が過ぎて、 700年後、日蓮大聖人が日本に誕生して、
天台大師の理論構築をもとにして、ダルマを実体的、実感的に
把握できるような修行方法を確立したわけですねー。
それからさらに700年後、創価学会が設立されて、
現実に、これまでの仏教の歴史の中で、
最も広く、世界に流布させたわけですねー。
そして、創価学会の教学研究の成果として、
ダルマとは何かの論究も、一般の人にわかりやすく、
現代科学の成果も利用して、説明できるようになったわけですねー。
簡単な話なのですが、宇宙には、始まりも終わりもありませんねぇ。
この世で、絶対的な存在は、宇宙の存在のみと言えるでしょうねぇ。
それ以外は諸行無常です。
要するに、時間的経過によって、星々の生々滅々はあったとしても、
宇宙の存在そのものは普遍ですねー。
時間的概念で、把握出来るものはではありません。
このことを久遠即末法と言うわけですねー。
また、宇宙は測ることのできない無限大の大きさですねー。
宇宙の果てがあると言ったら、
その果ての先にも空間があるわけですから、
果ては存在しないわけですねー。
これを三千大千世界と言ったわけですねー。
科学的な距離感覚で捉えられるものではありませんねぇ。
この時間と空間は、法則的な融合を保ちながら存在しているわけですねー。
例えば、アインシュタインが
「物質が光速に近づくと、質量は無限大となり、体積は無限小となる」
と言っているような関係ですねー。
地球上でしか通じないニュートン力学などでは、
説明のできない世界ですねぇ。
このことを「三千塵点劫・五百塵点劫」と表現しているわけですねー。
両方とも、時間と距離の概念が融合したものですねぇ。
ダルマとして捉える宇宙の存在は、
それこそ、無限大のエネルギーを永遠に保ち続けるわけです。
無限大の宇宙空間が、無辺際の時間、変化し続けて、
生々滅々を繰り返すわけですから。
この存在を言葉として表現するものとして、
宇宙生命という言い方がありますが、
非常に的確ではないかと思いますねぇ。
もっと言えば、永遠の宇宙生命と言えるでしょうねぇ。
この宇宙生命が、あらゆる宇宙空間の存在物を
生成するエネルギーとなっているわけです。
例えば、地球の誕生も、生命体の誕生も
すべて宇宙生命の働きそのものと言えますねぇ。
石ころ1つ、蟻1匹も宇宙生命そのものと言えるわけですよ。
宇宙生命が存在しなければ、全ては存在しないわけですから。
そして仏教の真髄である日蓮仏法は、
その宇宙生命の中に仏性の存在を直観しているわけですねー。
天台大師が、三千大千世界を、 1人の人間の生命を
一念三千論として捉えた、その中に、
仏界の存在を証明したようなものですねぇ。
このことについて大聖人は次のように書かれていますねぇ。
「一切衆生と申すは、草木・瓦礫も一切衆生の内なるか。
そもそも草木は何ぞ。金錍論に云わく『一草・一木・一礫・一塵、
各一仏性、各一因果あり。縁・了を具足す』等云々」
「問うて云わく、草木成仏とは、有情・非情の中、いずれぞや。
答えて云わく、草木成仏とは、非情の成仏なり。
問うて云わく、情・非情共に今経において成仏するか。
答えて云わく、しかなり。
問うて云わく、証文いかん。
答えて云わく、妙法蓮華経これなり。
妙法とは有情の成仏なり。蓮華とは非情の成仏なり」
これで非常に明確になったでしょう。
草木も、石も、もちろん人間も、宇宙生命そのものなのですよ。
だからこそ、すべてに仏性が存在しているわけですねー。
これをダルマと表現しているわけですねー。
そして大聖人は、そのダルマを南無妙法蓮華経と
世界で初めて唱えたわけですねー。
このことが理解できれば、質問者さんが疑問に思っている、
「どのように『法』とつながるべきなのか」というような法の捉え方は、
日蓮仏法ではない、というのが理解できるでしょう。
創価学会などの日蓮仏法者への問い:真理は言語でしか伝わらないのか?
質問の核心
言語を超えた真理の伝達可能性
日蓮仏法において、真理(妙法)は言語化された教え、特に「南無妙法蓮華経」という題目や法華経の文字を通じて伝わると強調されます。
末法の時代において、誤りなく普遍的に真理を伝える手段として、言葉や文字の重要性は揺るぎないものとされています。
しかし、私たちの理解は本当に言語だけで成り立っているのでしょうか?
人間には、論理や言語を司る左脳だけでなく、直感、感情、空間認識といった非言語的な情報を処理する右脳が存在します。
美しいものを見て心が動かされたり、音楽に深く感動したり、他者の表情やしぐさから言葉にならない感情を読み取ったりする体験は、言語を超えた理解の働きを示しています。
この観点から疑問を呈したいのは、言語化された情報伝達とは別に、人間が本来持つ潜在的な能力として、視覚的イメージや感情、あるいはより深い生命のレベルで、非言語的な形で真理の一部が「伝わる」可能性はないのか、という点です。
例えば、師から弟子へ教えが伝わる際、単に言葉で説明されるだけでなく、師の生き様や振る舞い、そこから発せられる「気配」のようなものが、弟子の生命に深く感応し、言葉では表現しきれない「悟り」や「気づき」を促すことはないでしょうか。
これは、禅宗の「以心伝心」にも通じる側面であり、教えが言葉と同時に、ある種の「イメージ」や「生命の共鳴」として伝えられる可能性を示唆していると考えられます。
日蓮仏法が重視する「生命の尊厳」や「万物一体の法」といった思想は、私たち人間が宇宙や他者と根源的に繋がっていることを示しています。
この深いつながりがあるからこそ、表層的な言語の壁を超えて、生命の奥底で互いに響き合い、言葉にならない真理の一端を「感じ取る」ようなコミュニケーションが、私たちの意識しないレベルで常に起こっているのかもしれません。
それは、特定の超能力の追求ではなく、人間の生命が本来持つ、未開の可能性として存在するのではないでしょうか。
私たちは、この言語を超えたコミュニケーションの可能性を、日蓮仏法の実践の中でどのように捉え、あるいは深めていくことができるのでしょうか。
言語による「教え」の重要性を最大限に尊重しつつも、それと並行して、生命の深みで通じ合う非言語的な「真理の感応」をどのように認識し、探求していくべきなのでしょうか。
この問いの背景には、仏教が説く「衆生と仏の感応」や「師弟不二」の思想があります。
仏は衆生の心を深く見抜き、その苦悩を言語を超えて理解するとされ、これは衆生の生命と仏の生命が感応し合う結果です。
また、師弟不二では、師の境涯が弟子の生命に直接的な影響を与え、言葉を超えた「気づき」を促すとされます。
さらに、現代の脳科学では、人間の脳が言語だけでなく、視覚情報や感情、直感を司る右脳の働きによって多くのことを理解していることが明らかになっています。
例えば、ミラーニューロンの発見は、他者の行動や感情を言語を介さずに模倣・共感する脳の仕組みを示唆しており、これは直接的なイメージ伝達や共鳴の可能性を完全に否定しないものと考えられます。
日蓮仏法が「不立文字」を批判し、言語による教えの確立を重視したのは、真理を正確に、普遍的に、そして誤解なく伝えるためでした。
しかし、それは同時に、私たち人間の生命が持つ言語を超えた深い感性や、生命の根源的なつながりから生じる非言語的な真理の伝達の可能性を、必ずしも否定するものではないはずです。
この問いは、日蓮仏法の教えをより多角的に捉え、私たちの生命が持つ潜在能力への理解を深めるためのものです。
(質問に感謝)
そうですねー。
質問者さんは、日蓮仏法に対して理解ができていないですよ。
大聖人は、「真理は言語でしか伝わらない」などと言っていませんよ。
むしろ、その逆ですよ。
それを、大聖人の遺文集の中から、見てみましょう。
大聖人の元へ供養を持ってきた人に対する返書の中に、
次のようにありますねー。
「委しく紙には尽くしがたし」
これは、供養した信者への感謝の気持ちは、
文字では伝えきれない、それ以上の感謝の気持ちを
持っているということですねー。
さらに次のようにもありますねー。
「尽きせぬ志、連々の御訪い、言をもって尽くしがたし」
これも、何度も大聖人の元へ、供養の品々持って訪問してくれた、
信者へのお礼の手紙ですねー。
その気持ちは「言葉をもって表現できない」と言っているのですねー。
さらに、教学的な内容では次のようにありますねー。
「法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず」
日蓮門下以外の法華経の信者に対して書いているところですねぇ。
法華経は、単なる言語ではないとはっきりと言っているでしょう。
そして、次のように明確に書かれていますねぇ。
「妙法蓮華経の五字は、経文にあらず、
その義にあらず、ただ一部の意なるのみ」
これを読めば、質問者さんの言っている、
「真理は言語でしか伝わらない」などと言っていないことが、
まともにわかるでしょう。
もっとはっきりと大聖人は次のように書いていますねぇ。
「詮ずるところ、妙法蓮華経の五字をば、
当時の人々は名とばかり思えり。さにては候わず、体なり。
体とは心にて候。
章安云わく『けだし、序王とは経の玄意を叙ぶ。
玄意は文の心を述ぶ』云々。
この釈の心は、妙法蓮華経と申すは、文にあらず、
義にあらず、一経の心なりと釈せられて候」
実に明確ですねー。
この教えの通りの大聖人の題目を唱えているのが創価学会なのですよ。
だから、言葉の意味のわからない子供たちが題目を唱えても、
効果があるのですねぇ。
何より、創価学会には、「自由グループ」(身体に障がいがある友の集い)
という集まりがあるのですよ。
言葉が話せない。目が見えない。耳が聞こえない。
脳性小児麻痺で寝たきりで、
意思表示ができないような障害者の人もいますよ。
そういう人たちが、自由グループの会合に参加すると、
第三者には分かりにくいのですが、介護している人から、
「会合に出席できて、喜んでいる」
とよく言われますねぇ。
「真理は言語でしか伝わらない」のであれば、
こういう障害者の人たちが、喜ぶわけがないでしょう。
創価学会の信仰というのは、
言葉で伝える以上のものが存在するということですねー。
ここまで来ると、質問者さんの言っている内容に近づいてきますが、
おわりに、最も大切な事を書いておきましょう。
それは、大聖人が次のように書かれているところです。
「信心の血脈なくんば、法華経を持つとも無益なり」
この場合、法華経というのは、南無妙法蓮華経のことですねぇ。
いくら南無妙法蓮華経の題目を唱えたとしても、
「信心の血脈」が無ければ、無意味だと言っているのですねー。
もし南無妙法蓮華経が言語であるならば、
どこの宗派が唱えても効力があるはずでしょう。
ところが言語ではないからこそ、
宗派の題目によって相違が出てくるということですねー。
このことが分からなければ、日蓮大聖人の仏法を
理解したことにはならないのですよ。
詳細は別の機会に譲りますが、
創価学会の唱える南無妙法蓮華経こそが大聖人の心にかなった、
題目であり、効力があるということに他なりませんねぇ。
「日蓮大聖人であるならば今の創価学会に何を問うか?
末法の今、我、久遠元初の本仏の使いとして、此の娑婆世界に一大事因縁の法を弘めんがために現れたり。
されど、汝ら、我が弟子檀那にして、末法の地涌の菩薩を名乗る者よ、果たしてその自覚と覚悟あるか。
創価学会の「会憲」や「社会憲章」に見らるる言の葉、平和、寛容、人権、対話
いずれも仏法の生命尊厳観に照らして、確かに正しき方向性に見ゆ。
されど、その精神を真に己が魂に染め、我が行住坐臥に体現しつつあるか?
我は『立正安国論』にて申せり、「国土乱れて民安からず」と。
国家の乱れは民の心の乱れに起因し、信仰者の責任たるや重大なるものなり。
されば汝ら、「草の根の対話」とは言うものの、折伏を名目に己が正義を振りかざし、他宗を侮り、異論を拒みしはなきか?
「思想、信教の自由を尊重す」とは唱えるが、真に異なる教えに耳を傾け、敬意を持って向き合いしは何人ぞ?
汝、自らを仏子と称しながら、心はなお驕慢にして、「我が信心こそ正し」と他を見下す心根、未だ拭い難きはなきか。
「人権を守り、女性のエンパワーメントに努む」と憲章に記せども、
婦人部の声を黙殺し、指導層の言に無批判に従いしは、かつての汝らが行状にあらずや?
わが仏法は一切衆生平等なり。法華経に曰く、「一切女人成仏不定」ならず、女人こそ仏道の主役たるべし。
また「各地の文化と風習を尊重す」と言いつつも、中央の教義や慣習を押しつけ、現場の自由と主体性を損ねし例、過去に多し。
汝らは国の法令を遵守し、社会の一員として恥なき振る舞いを成し得たか?
かつて我が身に幾度の流罪・死罪の難が迫れども、我は法のため一歩も退かず候。
されど今の信徒、困難に遭えば他人のせいとし、社会に不満を述べ、師匠や組織の名を隠れ蓑に信心を保たんとす。
これは信仰にあらず、欺きなり。
学会の会憲・社会憲章は、仏法者としての誓願を現代の言葉で明文化せしものなり。
しかるに、それをただ読むだけで心に燃えず、行動に移さざれば、法華経の行者に非ず。
「方便品」に曰く、「深心に仏道を求めて、命を捨てんことを愛するがごとくす」と。
それほどの覚悟が汝にあるか?
我が願いはただ一つ。
地涌の菩薩として立つ汝らが、一切衆生を救わんとの大悲を以て、自己を厳しく省み、真の変革者として蘇ることなり。
そのために、今こそ問う。
汝は会憲を読み、何を思うか?
それは他者のために書かれしものか、己が魂を問う誓願の鏡にあらずや?
汝よ、自らの慢心と惰性に深く懺悔せよ。
その上で、真に民衆に寄り添う「大地涌出」の姿へと生まれ変わるべし。
日蓮大聖人が現代の学会を見れば、組織の拡大以上に、「会員一人ひとりの心の変革」に目を向けよと叱咤されたであろう。
法は立てられている。問題は、「その法に命を懸ける弟子がいるかどうか」だ。
創価学会の「社会憲章」も「会憲」も、過去の誤りを反省した証であり、未来の行動指針である。
だが、それを読む者の心が鈍れば、ただの形式となる。
仏子として、今こそ立て。
そして問え。「我は仏法の魂を守りゆく者に値するか」と。
(質問に感謝)
そうですねー。
3点について書いておきましょうかねぇ。
まず1点目は、少々 、ケチをつけておきますよ。
中世随筆文学の傑作とされる、あの「方丈記」。
書き出しは「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」。
この作者である鴨長明が亡くなって、
6年ほどして、日蓮大聖人が産まれていますねぇ。
だから、大聖人の書かれた遺文集である御書の文体も、
中世文学のものと同じですねー。
非常に名文です。その一例を挙げておきましょう。
「小野小町・衣通姫が花の姿も無常の風にちり、
樊噲・張良が武芸に達せしも獄卒の杖をかなしむ。
されば、心ありし古人の云わく『あわれなり鳥べの山の夕煙
おくる人とてとまるべきかは』
『末のつゆ本のしずくや世の中のおくれさきだつためしなるらん』
先亡後滅の理、始めて驚くべきにあらず。
願うても願うべきは仏道、求めても求むべきは経教なり」
素晴らしい名文ですねー。
それで、岩波書店の「日本古典文学大系」にも、
文学作品として、掲載されていますねぇ。
「親鸞集、日蓮集」と題して、第82巻の1冊として発刊されていますねぇ。
かなりの分量が掲載されていますよ。
しかし読んでみると、今、その書籍が手元にないので、
どの系列の御書を底本にしたのか、分かりませんが、
真筆かどうかと首をかしげるようなものもありますねー。
さて、質問者さんは、恐れも知らず、大聖人になり代わって、
創価学会に、物申しているわけですねー。
まず最初の「我、久遠元初の本仏の使いとして」
と書いているのを読んで、ガックリきましたねぇ。
日蓮仏法の本質が全く理解できていないのですねぇ。
大聖人は次のように書いていますよ。
「これは久遠元初の自受用報身の無作本有の妙法を直ちに唱う」
「これは」というのが大聖人の立場ですねー。
大聖人は「久遠元初の自受用報身」と言っているのですよ。
「本仏の使い」などというのとは次元の違う話ですねー。
また、文体はどうでしょうか。
助詞、助動詞の使い方が正しいのには、驚きましたね。
普通、現代人が、古文を真似て書く場合は、
たいてい、助詞、助動詞の使い方を間違えるものなのですよねー。
ただ、「一切衆生を救わんとの大悲」と言いながら、
行間からにじみ出る感覚は、全く違いますねぇ。
大悲どころか、いら立ちしか感じられませんねぇ。
書いている文言は、正義感からなのですが、
そこに込められている感情は、修羅界でしかないですねー。
ということで、とても大聖人になり変わっているとは思えませんねぇ。
まあ、当たり前のことですねぇ。常識です。
2点目にいきましょう。
「質問者さんは、創価学会員の心情が、理解できていない」
ということですねー。
実際のところ、質問に書いてあるような内容は、
創価学会員の活動家の人であれば、全部、よく知っていることですよ。
学会員の、大阪のおばちゃんにこの質問を読ませば、
次のように言うでしょうねぇ。
「何を寝ぼけたこと言ってんの?そんなこと誰でも知ってるわよ。
外部の人間の、アンタから言われる筋合いないねぇ。
誇大妄想かい?そんなことを考える暇があったら、一人でも折伏しなよ」
こんな感じになるでしょうねぇ。
まあ、この質問文を読んで、「よし頑張ろう」などという気持ちになる、
学会員はいないでしょうねぇ。
それに対して質問者さんは、おそらく、
「大聖人の正しい精神から、
現在の創価学会の堕落ぶりを指摘してやったのに、
精進する気にならないとは、信心の本質が狂っている」
と思うでしょうねぇ。
ここですよ、大事な事は。質問者さんの創価学会に対する感覚と
実際の学会員との間には、完全な乖離があるのですよ。
これに気がつかなければどうしよもないですよ。
世界に、大聖人仏法を、現実に広めようとして、
学校法人、民主音楽協会、公明党、
世界的な自然環境保護のためのブラジル公益法人、
「創価研究所――アマゾン環境研究センター」等々の設立、
こんな、日蓮仏法に基づいて、活動をしている創価学会は、
質問者さんのような観念的な思考で把握できるものではないですよ。
それに早く気がつくことが大切ですね。
それでは最後、 3点目に進みましょう。
「質問者さんは、精神的に大丈夫か?」ということですねー。
この質問文を読んだ時、私は、
1970年(昭和45年)11月25日、三島由紀夫氏が、
自衛隊市ヶ谷駐屯地に殴り込みをかけたことを思い出しましたねぇ。
三島氏は、自衛官800名以上が、
本館正面玄関前の前庭に集まった中で、
玄関の上のバルコニーに立って、拳を振って叫びましたねぇ。
「今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、
自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。(中略)
そこでだ、おれは4年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を」
何度もこの映像を見ましたよ。空にはヘリコプターが飛び交い、
地上ではパトカーや自衛隊の車が集まって来ていましたねぇ。
何より気になったのは、三島氏は拡声器を使っていなかったのですよ。
映像の音声を聞いても、三島氏が何を言っているのか、
ほとんど聞き取ることができませんねぇ。
さらに、映像から、衝撃的なことを感じ取りましたねぇ。
それは、三島氏が、拳を振り上げて必死になって訴えているのに対して、
それを見ている自衛官は、いかにも、つまらなさそうにしているのですよ。
それどころか、なかには、ヤジや罵声を浴びせているのですよ。
この2者は、完全な乖離状態を示していましたねぇ。
その乖離を失敗と捉えたのか、
その後、三島氏は、割腹自殺をしましたねぇ。
もちろん、三島氏と質問者さんは、天地雲泥の差はありますが、
乖離現象と言う側面から見ると、共通したものを感じますねぇ。
実に、虚しい思いにならざるを得ませんねぇ。
久遠実成の仏の生命を「演じた」とされる釈迦は、そもそも普通の人間なのでしょうか?
また、どうやって現実的に生まれたのか、その出生のリアルな因果関係はどう説明されるのでしょうか?
日蓮仏法では釈迦を「久遠実成の仏の生命そのものが現れた存在」としていますが、もし釈迦が生まれた時からその仏の生命を演じていたのだとしたら、出生や人生の具体的な成り立ちや因果関係はどのように理解すればよいのでしょうか?
たとえば、釈迦が歴史的には釈迦族の王子として普通に生まれたという事実と、久遠実成の仏の永遠の生命が仮の姿を取ったという教義はどのように調和するのでしょうか?
この点が非常に腑に落ちず、神話的・象徴的に聞こえてしまい、日蓮仏法の教えの現実的な説得力に疑問を持っています。
この疑問に対して、どのように理解し、受け止めれば良いのか教えてください。
(質問に感謝)
そうですねー。
ほとんどの仏教関係者が、迷っていることですねぇ。
結局、よくわからないので、
「ありがたい仏様のお話です」
と言って、うやむやにしているところですねぇ。
釈尊や日蓮大聖人はそんな、いい加減な法門を説いた訳ではありませんねぇ。
何よりもまず、仏教について根本的に確認しておくことがありますねー。
それは、釈尊が、
「この世に生まれる前の、自分の過去世の姿を思い出した」
などと言う、ばかばかしい話などは、ある訳がないのですねぇ。
そんなこと言ったら、まともな人間はだれも信じませんよ。
また、経文にはよく出てくる情景ですが、
「三世十方の仏菩薩が数十万人も集まって、
釈尊の説法を聞いた」
などと言うことが、ある訳がありませんねぇ。
その当時、電気もなければ、拡声器もないのですよ。
釈尊の肉声が、数十万人の人間に響き渡る訳がないでしょう。
これもまた、まともな人間なら信じませんねぇ。
仏教の基本中の基本ですが、釈尊の経文はすべて、
釈尊自身の生命の状態を物語化、可視化して書いたものなのですよねー。
これが納得できなければ、いくら仏教を勉強したとしても
全く理解できませんよ。
ちょうど、小説に対して「虚構の真実」
と評価しているようなものですねぇ。
だから釈尊を「久遠実成の仏」と言っているのは、
「久遠と言う長遠な過去に悟りを開いた仏」
と言っているのではないのですよねぇ。
「久遠」というのは時間的な長遠さではなくして、
境涯の深さを言っているのですよ。
「時間がすなわち境涯」なのですよ。
この原則を絶対にハズしてはダメですねー。
しつこいようですが、人間だろうが仏だろうが、
過去世の自分の姿など思い出す訳がないでしょう。
逆に、自分の現在の境涯の深さであれば、
誰でも自覚できますねぇ。
質問者さんは、何か仏というものを特別な存在のように考えていますねぇ。
まあ、もちろん、仏教にうとい仏教関係者は皆そうですけどねぇ。
実は、仏と凡夫と比較すると、凡夫の方が次元が高いのですよ。
大聖人は次のように書いていますねぇ。
「されば、釈迦・多宝の二仏というも用の仏なり。
凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。
しかれば、釈迦仏は我ら衆生のためには
主・師・親の三徳を備え給うと思いしに、さにては候わず、
返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり」
ここは非常に重要な御書ですねぇ。これが理解できなければ、
日蓮仏法を理解することはできませんねぇ。
釈尊は「用の仏」であり、凡夫こそが「本仏」と言っているのですねー。
凡夫によって、釈尊の仏としての存在の意義が確立されたということですよ。
これは、質問者さんが考えている釈尊のイメージと全く違うでしょう。
ここが理解できないから、「非常に腑に落ち」ないのですよ。
ふと考えれば、もし、釈尊が大海の無人島で生活したとしましょう。
そうすると、仏である必要もなければ、経文を説く必要もないですねー。
だれも人間はいないのですから。
仏というのは、周囲に凡夫の存在があるからこそ、
仏としての意義が確立するわけですねー。
凡夫のおかげで、釈尊も仏になれたのですよ。
だから、釈尊は神秘的な、神話のような話から意味づけられて、
インドに生まれた仏ではないのですよ。
普通の人間なのですよ。
どこの部族に生まれて、どのような家族で、どのように育ったか、
などという事は、仏教上、どうでもよいことなのですよ。
仏になるのは、誰でもよかったのですよ。
「久遠実成の仏」という境涯を悟り、
それを言葉として表現できれば、それが仏なのですねー。
たまたま、インドに生まれた釈尊だったというだけの話ですよ。
凡夫であればだれでも、釈尊という仏になる可能性を持っていたのですよ。
もともと、紀元前の話です。インドに釈尊という人物が、
本当に生活していたのかどうか、誰も知りませんよ。
この疑問は、つきまといますねぇ。
だから、釈尊自身が、人物が大事なのではなくして、
法門が大事だと言っているのですよ。
「仏は『依法不依人(法に依って人に依らざれ)』
といましめ給えども、末代の諸人は
『依人不依法(人に依って法に依らず)』となりぬ」
大聖人も涅槃経の文を引用してこのように言っているのですねー。
大切なのは法を説いた人物ではなく、法そのものだと言っているのですねー。
質問者さんの釈尊に対する様々な疑問は、
「依人」に惑わされて出てくるものですねぇ。
まあ、仏法の本質からすれば、どうでもいい話ですね。
創価学会はなぜ広がっても根付かないのか?日本の未来は世界の未来になるのか?
創価学会の信者構成を見ていて気づいたことがあります。
現在の日本の信者の多くは、「折伏大行進」の時代(1950~70年代)に入会した家庭の子や孫にあたる世代がほとんどです。
つまり、新たな人が積極的に信仰を始めているというよりも、「かつて信じた人の子孫」が形式的に所属している状態に見えるのです。
これが何を意味するかというと、創価学会が本来掲げていた「一人の実践によって一人を救う」「仏の種を蒔く」という草の根の信仰拡大が、すでに止まっているということではないでしょうか。
もちろん、かつての「折伏大行進」は、時代背景(戦後の混乱、貧困、社会的不条理)と強く結びついていたという側面もあります。
人々が何かを求めていた時、創価学会の「祈りと実践によって人生を変える」という信仰は大きな力となった。
だからこそ、「理解ではなく実践によって体感される信仰」が意味を持ったのだと思います。
しかし今、多くの信者はすでに安定した生活の中で生まれ、育ち、「祈り」を体験する前に「信仰の形式」だけを継承している。
その結果、唱題や勤行が「体感されない儀式」と化し、「何のために祈っているのかわからない」という声も少なくないのです。
形式はあっても、生命に響く実践がない。広がったけれど、根付いていない。
このままではどうなるでしょうか?
おそらく、信者は徐々に減少し、組織は内向きになり、「かつてはすごかった」と語られる歴史的運動に変わっていくでしょう。
なぜなら、「正しいかどうか」は、理解ではなく、実践によって体感される信仰だからです。
実践されなければ、それはどれほど理論的に正しくても、信仰としては「死んでいる」と言えるのではないでしょうか。
では、これが海外にも広がっている今、世界ではどうなるか?
おそらく、一時的には広がっても、日本と同じ道を辿る可能性は非常に高いです。
なぜなら、今アフリカや南米で広がっている理由も、「人々が切実な悩みを持っているから」であり、これはかつての日本と同じ状況です。
しかし、生活が安定すれば信仰の体感は薄れ、継承は形式化し、やがて惰性となっていく。
これはどの宗教にも見られる「制度化の落とし穴」です。
だからこそ、本当に必要なのは、「広がること」ではなく、「なぜ実践するのか」が常に問われる文化の再構築なのだと思います。
どう考えますか?
創価学会は、蓮華のように泥中に咲く宗教のはずです。
でも今の姿は、雑草のように広がっただけで、咲いていないのでは?
広げることばかりに力を入れて、実は仏の花”を咲かせる土壌が失われているとしたら、いったい何のための信仰なのか。
世界に広がる今こそ、自問自答すべき時ではないでしょうか?
創価学会の果たしてきた社会的役割や、人々を苦悩から救った実績を否定するものではありません。
しかし、「功徳」や「幸福」を語るならば、その体験がなければ空疎に聞こえてしまうのが信仰です。
唱題の意味、折伏の意義、人間革命のリアリティ――
それが我が事”として語られない限り、継承は空転し、拡大は意味を失います。
雑草のように根を張るだけでなく、蓮華のように咲く。
それを忘れたとき、たとえ世界に広まっても、それはただの拡散に過ぎないのではないでしょうか。
(質問に感謝)
そうですねー。
質問者さんは、労働組合の運動の中に入って、
組合員獲得の活動や労使交渉の戦いを
実践的にやったことがあるのでしょうか?
何らかの社会運動の推進者や活動家として、
活動方針を決定したり、その活動の結果の総括をしたりというような、
集団の運動の主体者として、活動したことがあるのでしょうか?
おそらく無いのではないですか。
質問内容を読むと、運動体としての団体の捉え方が、
一面的すぎて、実態が捉えられてませんねぇ。
まるで、運動に関わってない第三者の大学生が、
傍観的に、運動体の総括をしているような質問内容ですねー。
例えば、「広がっても根付かない」と言っていますねぇ。
ところが実際は、私の町内会では創価学会の人が、
皆が嫌がるような様々な役職を受けてくれて、
非常に喜ばれていますねぇ。
また、会社の中では、役職を持った学会員の人が、
多くの人から頼られていますよー。
これは本当の話ですよ。
何より、全国の公明党の、市区町村議会議員数は、
現在、2,709 人で、自民党を抜いてトップですねー。
その支援組織が創価学会ですねぇ。
創価学会員が地域に根をはって、
信頼されている証拠でしょう。
現在の創価学会の状況を
「広がっても根付かない」などと総括するのはおかしいでしょう。
質問では様々なことを分析評価していますが、
人間の運動体が、どういうものか体験に基づいた知識がないので、
すべて、的が捉えられず、、ピントぼけしているのですよ。
本当は、質問に対する回答は実に簡単なのですよ。
創価学会の所帯数と、年間の活動内容を対応させて、
数十年間を通じて、分析すれば、一目瞭然なのですねー。
具体的な事は言いませんが、
所帯数が増えるかどうかは、
活動方針が大きく関わっているのですよねー。
今後、創価学会が日本国内で、伸びる可能性はいくらでもありますねー。
まあ、アンチ創価学会の人は、
「今後、創価学会は減り続けていくであろう」
と言って喜んでいますが、幼稚としか言いようがありませんねぇ。
創価学会の唱題は七音のままでよいのでしょうか?──仏界を本気で目指すなら「九音唱題」の導入を再考すべきでは?
創価学会の会員が日々実践している「七音唱題(なむ・みょう・ほう・れん・げ・きょう)」は、果たして仏界への到達を真に目指すものとして十分なのでしょうか?
「九音唱題」の存在について
「南無妙法蓮華経」は梵語の構造上、以下のように**九音(九字)**に分節される形があるそうです:
ナム・ミョウ・ホウ・レン・ゲ・キョウ・ネイ・ライ
これは単なる音の装飾ではなく、仏教における「九界即仏界」の教義を音声で体現したものです。
• 九音=九界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩)
• それぞれの音が、仏界への道程・変革のプロセスを含意しています。
つまり、題目そのものを“仏の声・法の構造”として発音し直すことが、修行の深化に直結するのではないでしょうか?
なぜ創価学会では七音唱題だけなのか?
これについて、
• 普遍化、簡易化、大衆化を目的とする
• 日蓮大聖人が「南無妙法蓮華経」こそ成仏の直道と説いた
• 七音の中にすでに一念三千・九界即仏界が内包されているという考え方
ですが、「音としての九界の象徴」「唱題による曼荼羅的自己変革」という次元での探究は、あまりなされていないように感じます。
人間革命は「声聞」レベルで止まっていないか?
創価学会では「人間革命」が中心概念として掲げられていますが、それが多くの場合:
• 個人の成功
• 家庭の平和
• 現世的幸福の獲得
にとどまっている現実は否めません。
仏教においては、声聞界・縁覚界の修行は「自己解脱」のための段階です。
しかし仏界とは「自己と他者、社会、世界を一体にして救う智慧と慈悲」の境地です。
だとすれば、唱題そのものを「社会変革的仏行」にふさわしい次元へ深化させる必要があるのではないでしょうか。
提案:創価学会も「九音唱題」導入を検討すべき
今後、創価学会が本当に「世界広布」や「仏の生命の社会的顕現」を目指すならば、
• 「七音唱題」は普遍的入門として維持しつつ、
• 深い修行者のための九音唱題・曼荼羅的観法の導入
• 菩薩・仏界の境地を目指す実践体系の整備
といった新たな教学的ステージへの進化が必要だと感じます。
• 創価学会の方で、九音唱題をご存じの方はいますか?
• 現在の七音唱題に満足していますか?
• 仏界を現実社会に広げるには、実践の質的転換が必要ではありませんか?
(質問に感謝)
そうですねー。 2点について書いておきましょうか。
まず、質問者さんが読んでいる、大聖人の遺文集である御書は、
偽作の文章が多いと思われますねぇ。
御書は、日蓮大聖人が御入滅の後、六老僧を中心に
編纂されたものを「録内御書」と言いますねぇ。
その後、それに漏れたものを集めたもの「録外御書」と言います。
現在の御書は、ほとんどこの2編をもとにして作られていますねぇ。
しかし、これ自体にも、録内御書の底本である日朝本と
平賀本は信頼できるのか、
録外御書の底本である本満寺録外御書は信頼できるのか、
という疑問は付きまとうのですねー。
何より、現在、出版されている御書全集の中では、
大聖人の真筆は、 40%程度なのですよねー。
この辺を研究テーマにして、博士号を取った大学教授もいますねぇ。
それくらい奥深いものなんですねぇ。
創価学会の御書は、非常に綿密に真筆かどうかを見極めて、
真筆と思われるもののみを掲載しているのですねー。
たいへん、信頼性の高い御書ですねー。
質問者さんの持っている御書はどこの出版かは知りませんが、
ずいぶん、いい加減な文書が多いと思われますねぇ。
1つだけ例を挙げておきましょう。
質問者さんが、別の箇所で引用している御書に、
次のようなものがありましたねぇ。
「但だ信心を以て、仏になるべしと申す事は、法華経の意にあらず」
こんなことを大聖人が言う訳がないですよ。
完全な偽作ですねー。
大聖人は、次のように書いていますよー。
「修行とは、『無疑曰信(疑いなきを信と曰う)』の信心のことなり」
「慧また堪えざれば、信をもって慧に代え、信の一字を詮となす」
「問うて云わく、『信じて解せず』の者は謗法なるか。
答えて云わく、法華経に云わく『信をもって入ることを得たり』等云々」
これを読めば明々白々ですねー。
「但だ信心を以て、仏になるべしと申す事は、法華経の意にあらず」
これとは全く逆のことを書かれているでしょう。
これが偽作であることは疑う余地がありませんよ。
御書の全編を、何度も読んで、大聖人のお心を、
体感できる人であれば、質問者さんの引用した御書は、
ウソであることくらいすぐ分かるのですよ。
質問者さんは、それがわからないという事は、
日蓮仏法が理解できていないということですねー。
偽物の御書を日蓮仏法だと信じ込んでいるのですよ。
だから心理状態としては、法華経に説かれている、
「頭破作七分」の状況になっているのですよ。
質問者さん自身は自分が「頭破作七分」になっている
と自覚できないでしょう。
それほど、無明が深いということですねー。
質問文の内容は、まさに、 「頭破作七分」の精神状態で、
考えられたものであることがよくわかりますよ。
だから、質問者さんの疑問を解決する方法は、
自分自身が「頭破作七分」の状態になっていることを自覚して、
そこから抜け出すことですねぇ。
そうすれば、質問文に書いている内容が、
日蓮仏法とは関係ないことがすぐにわかりますよ。
2点目について書いておきましょう。
これは簡単な話ですよ。
日蓮大聖人は、全人類の幸福と平和を目標にしているのですねー。
そうすると、その教えは、全人類の賛同と共感を
得ることができなければ、実現できませんねぇ。
どれだけ多くの人が、信仰を保ってくれるかが、
最も大切な事であることは言うまでもありませんねぇ。
このような考え方からして、質問者さんの提案しているような信仰実践を
誰が信じて、ともどもに信仰してくれるでしょうか。
はっきり言って、誰もいないでしょうねぇ。
いわば、「質問者教」の教祖のようなことを言っているだけ、
というくらいにしか思わないですよ。
とにかく、創価学会について、日蓮仏法について、
「頭破作七分」的な理解しかできていませんよ。
真実の日蓮仏法を理解できるように努力することですねー。
「仏」とは何か?──創価学会の仏の定義は他宗派と何が違うのでしょうか?
多くの仏教宗派では、「仏」は修行を重ねた末に煩悩を断じ、悟りに至った存在(例:釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来など)とされます。
しかし、創価学会(日蓮仏法)では、「仏」とは「南無妙法蓮華経という宇宙法則に目覚め、それを受持・実践する凡夫の生命が即顕現する境涯」と定義されているようです。
これは、人格としての仏ではなく、生命の状態としての仏という意味合いが強く、「唱題によって誰もが即時に仏となりうる」とも言われています。
そのため、伝統的な仏の定義(たとえば如来・菩薩・涅槃・悟りなど)との間で、対話がすれ違うことがあるように感じます。
そこで、仏教思想にお詳しい方にぜひお伺いしたいのですが:
1. 創価学会の仏の定義(=妙法を実践する生命状態そのもの)と、他宗派における仏の定義とは、どの点で本質的に違うと捉えられるのでしょうか?
2. そもそも「仏とは何か」という問いに、宗派ごとに違いが出るのは自然なことなのでしょうか?
3. たとえば禅宗の「仏とは自己そのもの」や、「坐禅している状態が仏」という立場と、創価学会の「唱題によって仏となる」という立場には、何か共通点や交差点はあるのでしょうか?
対立を深めるのではなく、あくまで思想的な構造の違いを明快に捉え直し、相互理解の一助となればと思い、質問させていただきました。
抽象的にならず、仏教思想の中でどのように位置づけられるのか、歴史的な背景なども含めてご教示いただけますと幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
日蓮仏法(法華経信仰)に感じる矛盾と、「理解できないものを信じる」構造についての疑問
日蓮仏法(法華経を絶対とする教え)について、いくつか本質的な疑問を持っています。
とくに創価学会などの現代的な展開を含め、信者の方々はどのように考えているのか、ぜひ誠実にご意見をいただければと思います。
主な矛盾点・疑問点は以下の通りです。
【1】法華経の内容自体が極めて難解で抽象的である
・「誰もが成仏できる」とされる一方で、経文そのものは象徴的・比喩的な表現が多く、実際にはほとんどの人が理解できていないように思います。
・それにもかかわらず「法華経こそが釈尊の究極の教え」とされるのは、やや循環論法的に見えます。内容の分からないものを、なぜ「最も正しい」と言えるのでしょうか?
【2】「わからないのは信心が足りない」という逆転論法
・疑問を持つと、「あなたはまだ理解していない」「信心が浅い」と返されることが多いように見受けられます。
・これは、「疑問を封じる構造」になっているように感じられ、思考停止や思考の抑圧になっていないか心配になります。
【3】個人の成功体験(功徳)が「真理の証明」になってしまう
・「唱題をしたら病気が治った」「人間関係が改善した」などの個人的体験をもって、「正しい教え」だと主張される方が多いようです。
・しかしそれは再現性や普遍性に乏しく、信じたい人が信じたいように語る自己正当化の一種になっているように見えるのですが、どうでしょうか?
【4】「文明転換運動」としての結果が曖昧
・日蓮仏法は「広宣流布」や「立正安国」など、社会変革を目指す理想を掲げているにもかかわらず、現実にどれだけ社会が変わったかという点はかなり曖昧です。
・思想としての美しさと、現実への影響力との間に大きな乖離があるように思います。
こうした点から、私は日蓮仏法にはある種の「操作的信念体系」的側面があるのではないかと感じています。つまり、
• 内容が曖昧であるがゆえに「深い」「すごい」と思わせ、
• 理解できないことが「信心の不足」に転化され、
• 効果があったという体験談が「正しさの証拠」として使われる、
――という流れです。
こうした構造に対し、信者の方々はどのように向き合っているのでしょうか?
また、これらの矛盾点について、自ら問い直す機会はあるのでしょうか?
宗教的信仰を否定するつもりはありません。ただ、「なぜそれを信じるのか」という点について、もう少し開かれた議論ができればと思います。
よろしくお願いいたします。
(質問に感謝)
そうですねー。
まず【1】法華経の内容自体が極めて難解で抽象的である
これですねー。
法華経について、本当のことを書いておきましょう。
ここに書いていることに反したことを書いたものがありましたら、
それは、法華経について理解してないくせに、
知ったかぶりして書いた駄作ですよ。
法華経の分量は、 400字詰め原稿用紙で200弱ですかねー。
日蓮大聖人は、法華経の文字数について次のように書かれていますねぇ。
「この経一部八巻二十八品六万九千三百八十四字、
一々に皆妙の一字を備えて三十二相八十種好の仏陀なり」
この文字数は、訳聖と言われた鳩摩羅什が訳した、
「妙法蓮華経並開結」の文字数に合いますねぇ。
驚きですねー。誰が数えたのですねー。
大聖人も鳩摩羅什を賛嘆し、その漢訳書を主に使われていましたねぇ。
鳩摩羅什の漢訳した法華経は、わかりやすい漢字を使って、
読みやすいですねー。
読了にそんなに時間はかかりませんので、何回も読みましたよー。
高校生程度の漢文読解力があれば、誰でも読めますねぇ。
その結果、「法華経が分かった」「法華経の真意が理解できた」
「釈尊の言いたいことが理解できた」「法華経の本質を把握できた」
などと言う人は、皆、大ウソだということが、よくわかりましたよ。
そういう人には、「法華経には、何を本尊にして、
どのように拝めと言っているのですか」と聞いてください。
答えられないか、いい加減な答えしか出ないのですよ。
法華経には、「○○仏を拝め」「この経を拝め」
と至るところに書いていますねぇ。
という事は、その仏を仏像にして拝めということなのか。
その経本を仏壇に置いて拝めということなのか。
というような、幼稚な読み方しかできないのですよ。
法華経は、表面的に読めば、
童話の絵本のようなものなのですねー。
もう少し深読みすれば、人間の生き方とか、
生死観などを読み取るかもしれませんねぇ。
しかしこれらは皆、法華経が全く理解できていない人ですよ。
このように法華経を自分勝手に、都合の良いように解釈して、
法華経の素晴らしさを言うものに対して、
天台大師は次のように戒めていますよ。
「雖讃法華経還死法華心」
(法華経を讃むといえども、還って法華の心をころす)
結論的には、法華経は、一般人には理解不可能というのが、
正解なのですよ。
だから、法華経の解説本などを出している人がいますが、
全部、釈尊の真意にではなく、著者の我見ですよ。
法華経の真意は、仏(覚者)にしか読み取ることができないのですよ。
これを嘘だと言う人がいれば、
その人は仏教のブの字も知らない人ですねぇ。
この釈尊の難信難解と言われた法華経を、
釈尊滅後のすべての人に、時代を超えて理解させてくれたのが、
天台大師ですねー。
天台大師は、法華経で伝えたかった釈尊の真意を、
一念三千論として、完璧に理論化したのですねー。
法華経の中に一念三千論が解き明かされているなんて、
天台大師以外に、だれも読み取ることはできませんねぇ。
この一念三千論によって初めて、「誰もが成仏できる」
「法華経こそが釈尊の究極の教え」ということが、
理論的に証明出来るようになったのですよ。
「内容の分からないもの・難解で抽象的なもの」
ではなくなったのですねぇ。
この天台大師の大発見は、現代で言えば、
ノーベル賞以上で、全人類の中で1人のみと言えるでしょうねぇ。
このことを、仏教界は、皆、よく知っているのです。
だから、「三国三師」と言われて、尊敬されているのですねー。
インド・中国・日本の三国において法華経を正しく弘通した人の意で、
インドの釈尊、中国の天台大師(智顗)、日本の伝教大師(最澄)
を指しているわけですよ。
天台大師を仏(覚者)としてたたえているわけですねー。
法華経とは違う経典を依経にしている仏教宗派でも、
法華経が、釈尊説法中、最高のものである事は、
よく理解してますねぇ。
なかには、真言宗などのように、自分の教義の中に、
一念三千論を取り入れた宗派もありますよ。
ということで、この【1】の質問は、
質問の前提自体が、誤っているということですねー。
それでは次の質問にいきましょう。
【2】「わからないのは信心が足りない」という逆転論法
ということですねー。
これは単純に、質問者さんが創価学会の事を誤解しているだけですよ。
創価学会の指導は、これとは真逆ですよ。
第2代戸田会長は、
「信は理を求め、求めたる理は信を深からしむ」
と常々指導していましたねぇ。
人間は、何かを信じようと思えば、必ず、
信じるに値する道理的、理論的根拠を求めますねぇ。
そして、その根拠が納得できると
さらに信じる気持ちが強くなるものですねぇ。
創価学会の人は、「イワシの頭も信心から」というように盲信する人は、
ほとんどいませんねぇ。
創価学会の人に「わからないのは信心が足りない」などと言ったら、
「あなたが信心のことがわかっていないでしょう」と
逆に怒られますよ。
分からないことを、どこまでもわかってもらうように対話をするのが、
創価学会の基本ですよ。
さらに大聖人も次のように書いていますねぇ。
「行学の二道をはげみ候べし。行学たえなば仏法はあるべからず」
日蓮仏法を信仰する上では、「納得できるように、
教理を学習しなさい、日蓮仏教では、教学が最も大切なのですよ」
と教えられていますねぇ。
ということで、質問【2】は、質問者の勘違いということですねー。
それでは、【3】個人の成功体験(功徳)が「真理の証明」になってしまう
というところにいきましょう。
これも、質問者さんは、創価学会における、功徳とは、
どういうものか、また、どのような論理付けがされているのか、
ということが理解できていないから、出て来る疑問なんですよー。
もう少し、しっかり、創価学会の事を観察する必要がありますねー。
簡単に、病気の例で、考えてみましょうか。
ある人がガンにかかり、抗がん剤の治療を受けることになったとします。
抗がん剤の効力は、同じ薬剤を使ったとしても、
人によって様々ですねー。
最大のポイントは、生命力の強い人は、
抗がん剤がよく効くということですねー。
それで、学会員さんの体験として、
「信仰に励むことによって、生命力が増し、
抗がん剤の治療効果がよく出てきて、治癒した」
と体験を言う訳ですよ。
担当の医師も、それを証言しているのですよ。
「信仰に励むことによって、生命力が増し」
これは、質問者さんの言う「再現性や普遍性に乏しく」
とは全く逆でしょう。
創価学会の信仰は、生きる力、生命力をより強く、
発揮させるのが根本ですよ。
ということで、【3】も質問者さんの認識不足ということですねー。
さて最後に【4】「文明転換運動」としての結果が曖昧
という事ですねー。
これは、世界の歴史、世界の文化革命、宗教革命等々 、
世界的な文化の流れの中で考えてくださいねー。
創価学会は、創立してまだ100年経っていないのですよ。
創価学会は、宗教革命から、
それに根ざした文明改革をなそうとしているのですよ。
学会の出版している「第3文明」という雑誌がありますねー。
書名の意味は、唯心思想にも唯物哲学にもかたよらず、
仏法の生命哲学を基調に、どこまでも人間を大切にし、
生命を尊重する文明ということですねー。
この第3文明を創価学会は目指しているわけですよ。
100年程度で出来る訳がないでしょう。
仏教文明、キリスト教文明というような観点からすれば、
社会の変化は、500年単位ですよ。
創価学会は、日蓮仏法を基底にすえて、
人間同類が殺し合うという、人類の宿命とも言うべき、
生命軽視の文明を変革して、人間生命を最高の価値として、
賛嘆できる文明を築こうとしているのですよ。
まだまだ今は、端緒についてばかりですねー。
言語による「法」の顕現とその限界——日蓮仏法における「言語化された宇宙法則」の意義と現代思想との接点
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日蓮大聖人は、仏が説かず沈黙していた“文底秘沈の法”を「南無妙法蓮華経」という具体的な言語において顕現されたとされています。しかし、この「言葉にする」という行為には、宗教的に深い功徳性がある一方で、「本来言語を超えている法」を言語化したことによる本質の変質の可能性についての問いも生じます。
老子は『道徳経』の冒頭で「道(タオ)ということができる道は、常なる道にあらず」と述べ、真の道(法)は言語を超えた存在であるとしました。また、現代思想においても、言語は人間の認識枠組みに強く依存しており、必ずしも宇宙的真理そのものを表現できるわけではないとする言語批判的立場があります(ウィトゲンシュタインやデリダなど)。
しかしながら、聖書の冒頭にある「初めに言葉あり(ロゴス)」に見られるように、言語そのものが宇宙創造の根源的原理とされる伝統もあり、近年の哲学・物理学では、「宇宙と言語の構造的な相似」や「数学は宇宙の言語である」といった見解も生まれています。つまり、言語がただの記号ではなく、宇宙の構造を実在的に表す可能性も議論されているのです。
このような視座を踏まえると、日蓮大聖人が「南無妙法蓮華経」という言葉に込めた法とは、言語を超えつつ言語に顕れる「超越と内在」の合一であり、実践によって初めて生きた力として作用する“行動する真理”なのではないかとも考えられます。
以下のような問いについて、創価学会教学の視座からご教示いただければ幸いです:
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【問い】
1. 「南無妙法蓮華経」という言葉は、言語化できない“法”を言語化したとされますが、そのような言語化が仏法的に可能である根拠と、その有効性はどのように説明されるのでしょうか?
2. 老子や禅に見られる「沈黙の宗教」と、日蓮仏法の「言語の宗教」との違いをどのように理解すべきでしょうか?
3. 言語が宇宙生命の法と相互的に作用し得るという思想は、創価学会教学の中でどのように捉えられていますか?
4. 現代哲学や物理学(例:言語的理想主義、量子論における観測と言語)との接点において、法華経・文底秘沈の法はどのように再解釈可能と考えられるでしょうか?
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創価学会における言語観・宇宙観の教学的理解と、現代思想・科学との対話を図りつつ、日蓮仏法の普遍的意義をより深く理解したく、投稿させていただきました。ぜひご見解・ご教示をいただけましたら幸いです。
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【参考文献・資料】
• リチャード・ガスキン『言語的理想主義』
• ヨハネによる福音書1章1節(「初めに言葉あり」)
• 『道徳経』第1章
• 量子言語理論(石川志郎)
• ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
• デリダ『声と現象』
(質問に感謝)
そうですねー。
質問文を読むと、学生の中から、時々、出てきた疑問ですねー。
同じような次元のものとしては、
次のようなものもありましたよ。
①大聖人の書かれた御書には次のようにある。
【また云わく、南無妙法蓮華経の「南無」とは梵語、
「妙法蓮華経」は漢語なり。梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり。
また云わく、梵語には「薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧」と云う。
ここには「妙法蓮華経」と云うなり。「薩」とは妙なり。
「達磨」とは法なり。「芬陀梨伽」とは蓮華なり。「蘇多覧」とは経なり】
これは、南無妙法蓮華経を梵語の読みに表記すれば、
「南無薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧」となる。
発音すれば「ナムサダルマフンダリキャソタラン」ということだ。
それではご本尊の前で、
「ナムサダルマフンダリキャソタラン」と唱題を続ければ、功徳があるのか。
南無妙法蓮華経と唱えるよりも、梵語の方が、
釈尊の教えの原点に近づくだろう。
②ご本尊を印刷するとき、誤って「無」の4つの点部分の1つを
3分の2の大きさにしてしまった。
この御本尊を拝んでも功徳があるのか。
この疑問は、観念的なものではなく、現実的な話でしたねぇ。
というのは、戦後まもなくの草創期の創価学会員の人は、
小さな仏壇の中で、ロウソクを燃やし、線香の煙をたたせていましたねぇ。
そうするとご本尊の文字がだんだんとくすんできて、
見えにくくなるのですよ。
どこまで文字が消えても良いものか、と気になったものですよ。
③宇宙存在の根源は、具象化出来るものではないのではないか。
具象化の例としては、文字、画像、彫像などがあるが、
具象化した時点で、その対象とはすでに別物になっているのではないか。
具象化すれば、それに従って、時代、場所、人種など、時間や空間が
現実的な存在とし出てくる以上、
それらを超越した宇宙の存在の根源は、現出することはできないだろう。
こんな疑問でしたねぇ。質問者さんの疑問と通じるところがあるでしょう。
ただ、「量子論における観測と言語」は、どう意味で使ってるのか、
不明瞭ですが、「量子論における観測」は日蓮仏法とは、
直接関係ありませんねぇ。
これらの疑問が出てくる根本は、
「南無妙法蓮華経」とは何か、が理解できていないことによりますねー。
その根本的な誤りは、「言語化された宇宙法則」と表現しているように、
南無妙法蓮華経を言語と捉えているところにありますねー。
大聖人は次のように書いています。
「この釈の心は、妙法蓮華経と申すは、文にあらず、
義にあらず、一経の心なりと釈せられて候」
このように、南無妙法蓮華経は、言語ではないのです。
それなのに、言語で捉えようとするのは、
例えて言えば次のような状態ですねー。
宇宙の存在というのは、始めも終わりもありませんねぇ。
1つの島宇宙が爆発して消滅したとしても、
別の島宇宙が発生するわけですから、永遠の存在ですねー。
これを、「無始無終」と言います。
また、空間的にも限界が存在するという考え方は否定されますので、
無限大と言えますねぇ。
そうすると、宇宙の存在は、時間や空間の概念では、
捉えられない、ということに他なりませんねぇ。
質問者さんはこの宇宙の存在を
時間や空間の概念で捉えようとしているのですねー。
だから、疑問が湧くのですよ。
さらに例えれば、南無妙法蓮華経は4次元の世界のものであるのに、
質問者さんは、 それを2次元の世界で
捉えようとしてるのに似ていますねぇ。
疑問を解くための、質問者さんへのアドバイスですが、
次の課題が解けるような方向で、思索するのが近道かと思いますよ。
《天台宗、日蓮正宗、創価学会の南無妙法蓮華経の違い》
これですねー。この3者の題目には、天地雲泥の差があるのですよ。
ところが、質問者さんの言っているように題目が言語であるならば、
この3者は、全く同じですねー。
この違いが、理解できるようになれば、疑問が雲散霧消するでしょうねぇ。
ただ、それほど簡単な課題ではありませんよ。
釈尊も、妙法蓮華経を把握することは、
非常に困難であることを知悉していましたねぇ。
それで、妙法蓮華経とはどのようなものかということを
教えるための表現方法として、
「 ○○のようなもの」という表現では、無理だと考えたのですねー。
それで、「妙法蓮華経とは、○○ではないもの」
というようにしたのですねー。
こうすることによって、教えを受ける人たちが、
「妙法蓮華経とはこんなものだ」と考えたものを、
次々に否定することによって、少しずつ、
妙法蓮華経の本体をつかめるようにしたのですねー。
それが、関係者の間ではよく知られている、
「無量義経 三十四非」という経文ですねー。
下記のようなものです。
大哉大悟大聖主
無垢無染無所著
天人象馬調御師
道風徳香熏一切
智恬情怕慮凝靜
意滅識亡心亦寂
永断夢妄思想念
無復諸大陰界入
其身非有亦非無
非因非縁非自他
非方非円非短長
非出非沒非生滅
非造非起非為作
非坐非臥非行住
非動非転非閑静
非進非退非安危
非是非非非得失
非彼非此非去来
非青非黄非赤白
非紅非紫種種色
質問者さんの頭で描いている南無妙法蓮華経は、
この三十四非に合致しますか。
おそらく合致しないでしよう。
それが疑問の原点になっているのですよ。
大聖人は、南無妙法蓮華経について、
次のように書いていますねぇ。
【南無妙法蓮華経(とはどのようなものか)
御義口伝に云わく、「南無」とは梵語なり。
ここには「帰命」と云う。人法これ有り。人とは釈尊に帰命し奉るなり。
法とは法華経に帰命し奉るなり。
また云わく、「帰」と云うは迹門不変真如の理に帰するなり。
「命」とは本門随縁真如の智に命づくなり。
「帰命」とは南無妙法蓮華経これなり。
釈に云わく「随縁・不変は、一念の寂・照なり」。
また「帰」とは我らが色法なり。「命」とは我らが心法なり。
色心不二なるを一極と云うなり。
釈に云わく「一極に帰せしむるが故に仏乗と云う」。
九字は九尊の仏体なり。九界即仏界の表示なり。
「妙」とは法性なり。「法」とは無明なり。
無明・法性一体なるを妙法と云うなり。
「蓮華」とは因果の二法なり。これまた因果一体なり。
「経」とは一切衆生の言語音声を経と云うなり。
釈に云わく「声、仏事をなす。これを名づけて経となす」
あるいは三世常恒なるを経と云うなり。
法界は妙法なり。法界は蓮華なり。法界は経なり。
蓮華とは八葉九尊の仏体なり。能く能くこれを思うべし已上】
これが理解できますか。
なお、「九字」と言っているのは、南無妙法蓮華経を梵字で書くと
9節からなることを指していますよ。
「南無妙法蓮華経とは何か」について、
上に挙げた思索を深める課題に取り組んでみてください。
御本尊はこのままでよいのか?──創価学会における象徴と普遍性の再考
現代世界は、宗教的多様性と人間の尊厳の普遍性とが交差する時代です。
AI、宇宙開発、多文化共生、障害の多様性 そうした時代の中で、創価学会が世界宗教と対話し、地球的課題に貢献する存在であるためには、「御本尊」のあり方を再考する時期に来ているのではないでしょうか。
日蓮大聖人が顕された御本尊は、「法華経の真理を図像的に顕現し、仏界を自身の生命に映すための心の鏡」として捉えられます。それは本来、偶像ではなく内なる仏性への媒介でした。しかし現在、その文字構成や物質的形式において、いくつかの普遍的違和感が顕在化しています。
たとえば、
● 髭文字(草書的仏画体)の読解困難さと文化依存
● 紙という物質的・視覚的媒体への限定
● 聴覚障害・視覚障害など身体的多様性への未対応
● 南無妙法蓮華経の発音に絶対性が置かれていることへの言語的・文化的課題
● 他宗教(ユダヤ・キリスト・イスラム)との偶像崇拝観のズレ
● デジタル媒体やAR/VR等の非物質的曼荼羅の活用可能性が議論されていない
● 宇宙的・量子的な生命観や科学的宇宙観との接点が曖昧
これらの問題は、御本尊の「本質」である仏性の覚醒と一念三千の体現を制限しているのではなく、むしろその本質を普遍的に開くチャンスとも言えるでしょう。
創価学会が掲げる「人間革命」「地涌の菩薩」「広宣流布」の理念は、仏法を全人類共有の智慧とするための挑戦でもあるならばこそ、「御本尊=紙の曼荼羅」のみという在り方に限定せず、内在的・象徴的・多感覚的に仏性を映す新たな象徴体系──たとえば
• 多言語・多文化対応の動的曼荼羅
• 視覚・聴覚・身体表現に対応した修行形式
• AR/VR・メタバース空間における曼荼羅の創造
• 生命・宇宙の相即相入性を可視化する科学的曼荼羅
こうした「象徴の未来的進化」に向けた議論を開くべき時に来ています。
創価学会がその対話の先陣に立ち、日蓮仏法の根本理念「仏界即我が胸中」を宗教間の対立を超えた普遍的信仰の地平を築くことができるのではないか。
御本尊のかたちは本当にこのままでよいのか?
「形」ではなく「法」そのものに立ち返り、人類全体の仏性覚醒のための普遍的象徴としての御本尊像を再構築する時ではないでしょうか。
「御本尊」のあり方への違和感の具体例一覧】
1. 文字構成・形態の限定性
• 髭文字(草書体的な仏画文字)の読解困難さ:現代人にとって可読性が低い。
• 視覚的美意識に依存:文字の「見た目」が重視されているが、意味と一致していない場合もある。
• 各言語・文化圏への翻訳不可:世界中に布教しているのに、御本尊が一つの日本語文字文化圏に依存。
• 視覚的象徴が宗教的本質を制限の恐れ。
2. 物質依存・視覚依存の問題
• 紙という媒体に依存:火災・水・経年劣化。
• 「視覚的鏡」としての御本尊:目の見えない人にとってどう位置づけられるかの明示
• テキスト化されていない御本尊:視覚に頼れない人のための「代替手段(音・触覚)」が確立
• 外在化された象徴:本来内在の仏性を「外在的対象」に投影し過ぎることで生じる偶像化のリスク。
3. 音声的・唱題における普遍性の限界
• 「南無妙法蓮華経」の発音に対する絶対視:耳の聞こえない人には意味不明である可能性。
• 言語多様性の欠如:他言語話者には内容も精神性も伝わりづらい。翻訳しても功徳の性質が同じなのか?
• 音声重視の修行体系:発声できない人、声を出せない環境下での実践の定義がない。
4. 曼荼羅図像構造の固定性
• 特定のシンメトリカル構図:宇宙観の描写として一面的。現代科学的宇宙論や量子論などと乖離。
• 動的フラクタル的構造や多次元的象徴性が反映されていない。
• 21世紀以降の人間の生命観・宇宙観と接続しづらい造形。
5. 文化的・宗教間の対話における閉鎖性
• アブラハム系宗教(ユダヤ・キリスト・イスラム)にとっては偶像崇拝とみなされかねない表象。
• インド系仏教(原始仏教・チベット仏教等)との曼荼羅観・法観との整合性が説明不足。
• 「象徴は方便であり、絶対化しない」という仏教本来の柔軟性とのズレ。
6. 身体・感覚多様性への配慮不足
• 視覚障害者にとっての「心の鏡」としてのあり方の定義
• 聴覚障害者にとっての唱題修行の代替表現(手話・身体表現など)の教義的な整備
• 発語障害を持つ者の実践に対する宗教的評価が不明確。
• 脳波・内的意識の唱題(言語を使わない瞑想的唱題)の可能性が未探究。
7. 未来技術との断絶
• デジタル化への教義的対応が遅れている(スマホに御本尊画像を保存することに対する態度は宗派で分裂)。
• AI・VR・ARなどによる内在的曼荼羅体験との整合的設計がない。
• 宇宙空間・地球外文明に布教する未来に対応できる「非物質的仏法表現」が想定されていない。
(質問に感謝)
そうですねー。撰時抄には次のようにありますねー。
「夫れ、仏法を学せん法は、必ずまず時をならうべし」
「時」をどのように捉え、その結果、どのように行動するのか、
という事は、本当に大切なことですねぇ。
様々な会社組織にしろ、集団にしろ、
現代の時代の「時」にどれだけ合致させ、
あるいは先読みして、行動方針を構築できるかによって、
その団体の発展も、衰退も決まってきますねぇ。
創価学会が撰時抄の、この精神を活動方針の根底にすえたからこそ、
創立100年にも満たないのに、
これだけ世界に広めることができたわけですねー。
世界の宗教団体の中で、
こんな短い期間に、
これだけ広がった宗教団体はいまだかつてありませんねぇ。
まさに、奇跡的と言って良いでしょう。
これは、創価学会首脳部が「必ずまず時をならうべし」を
見事に組織的実践に合致させたことに他なりませんねぇ。
いわば、大聖人の教えの通りに活動方針を決定したことが、
これだけ大発展した最大の理由なのですねー。
さて、それで、質問文を読めば、質問者さんは、質問者さんなりに、
現代の時をとらえて、創価学会の在り方を
特にご本尊について、思索しているのがわかりますねぇ。
この「時」と言う観点から、質問者さんの捉え方は、
「『御本尊』のあり方を再考する時期に来ている」
「御本尊像を再構築する時」
と言う結論に至っているわけですねー。
私の結論としては、残念ながら、質問者さんの「時」の捉え方は、
「必ずまず時をならうべし」に合致していませんねぇ。
どのように合致していないのか、ということについて、考えてみましょう。
ちょうど、創価学会の歴史の中で、質問者さんのような判断を、
すべきかどうかという時がありましたので、それで考察したいと思います。
それは、次の、よく質問に出てくることですねぇ。
「日蓮正宗が、日蓮仏法に違背しているという事は、
牧口初代会長と戸田第二代会長が治安維持法違反と
不敬罪の容疑で、投獄された時点で、明白になったわけだ。
それなのにどうして、もっと早く日蓮正宗を分離しなかったのか?」
ということですねー。
特に、昭和27年(1952年)に、創価学会が独立した宗教法人として、
認証を受けてからは、いつでも分離できたはずですねー。
それを、どうして、戦後46年も経過した、
平成3年(1991)の日蓮正宗からの破門まで関係を継続したのか。
実際、日蓮正宗が日蓮仏法に違背している数々の事例がありましたねぇ。
事件と表現できるようなことも何回もありましたよ 。
創価学会は、牧口会長投獄以降、
日蓮正宗が日蓮大聖人の教えに反しているという事は、
骨身にしみて分かっていたわけですよ。
だから、戸田第二代会長が亡くなる寸前に、
池田第三代会長に遺言のように言われた言葉は次のとおりですねー。
「追撃の手をゆるめるな」
この追撃の相手の中に、日蓮正宗が入っていたことも事実ですねー。
それなのに、どうして、独立しなかったのか、不可解なところですねぇ。
さて、質問文を読んで予想できる、質問者さんの
「認識と評価」の傾向性かからすると、
上記のような状況に創価学会が置かれた時の判断として、おそらく、
「ただちに日蓮正宗と分離しましょう。それの方が、今後、
創価学会は、日蓮仏法の真の信仰団体として発展するでしょう」
とするのではないですかねー。
その判断基準は、道理性、合理性、真理性、正当性、
論理性、応用性、分析性など、
理性の延長線上の意識に基づくでしょうねぇ。
実際問題、そんな判断基準では、
厳しい社会の中で、団体を発展させることは、できないのですよ。
現実はそんなに甘くはないのですねぇ。
その判断は、「必ずまず時をならうべし」の判断に
反しているのですねー。
どうしてかというと、予想でしかありませんが、
もし、昭和27年(1952年)に、創価学会が独立した宗教法人として、
認証を受けたときに、日蓮正宗から分離したとしましょう。
そうすると、その後、はたして創価学会は、
現在のように世界に発展したでしょうか?
答えは、ノーですねー。
おそらく、天理教と同じ程度の新興宗教なっているでしょうねぇ。
そして発展を諦めることになるでしょうねぇ。
最大の理由は、当時の社会状況、民衆の意識というのは、
寺や僧侶に対して、まだ、特別な尊敬の念を持っていた人が、
大勢を占めていたのですねー。
当時の人々の認識として、
既成仏教である日蓮正宗から分離した創価学会は、
あやしげな新興宗教でしかなくなるわけですねー。
これでは、いくら布教活動したとしても、
世界に広がるなどというのは、とんでもない話なのですねー。
だから創価学会は、時代、社会、民衆の「時」を読んで、
分離しなかったのですねー。
そして、なんだかんだと、日蓮正宗の介護をして、
平成3年(1991)の日蓮正宗からの破門まで待った訳ですよ。
破門の頃の時代というのは、既成仏教や僧侶に対して、
尊敬や畏敬の念は、非常に薄くなっていましたねぇ。
「葬式に僧侶を呼ばなければ死者は成仏しない」
などという事は、大多数が信じなくなりましたねぇ。
逆に、葬式仏教と言って軽蔑するようにさえなっていますねぇ。
「どうして戒名などに高額な金を払う必要があるのだ」という疑問も
聞かれるようになりましたねぇ。
そして、友人葬や樹木葬や遺骨の散骨等の方向になってきているわけです。
現在では、直送葬儀(火葬式、直葬)と言って、
通夜や告別式を行わず、ご遺体を直接火葬場へ搬送し、
火葬のみで弔う葬儀形式が多くなる傾向にありますねー。
ちょうど、創価学会の行う友人葬が、
時代を先取りしたものだったと言えるでしょうねぇ。
現在の創価学会の発展の状況を見れば、
破門によって独立したことが、
「必ずまず時をならうべし」を実践したことになるでしょう。
従って、「御本尊はこのままでよいのか」という疑問に対しては、
「現在の創価学会の御本尊が正解である」ということですねー。
まあ、もし、質問者さんの言うような御本尊にしたとすれば、
創価学会は既成仏教と同じようになるでしょうねぇ。
本来、釈尊は、苦しむ人々を救うために仏教を説きましたねぇ。
ところが、現在の既成仏教の僧侶どうですか?
布教などしていませんよ。檀家など増えていませんよー。
逆に、今では、どこかの寺の檀家になっていると言う人は、
極めて少ないですねー。
既成仏教に釈尊の精神など、ないではないですか。
仏教の形骸化ですねー。
どうして、こんなに釈尊の心に反してしまったのか。
実は、大きな原因は本尊の迷いにあるのですよ。
どこかの寺に行ってみてください。
おかしな話ですが、 1つの寺に、色々な本尊がいくらでもありますよ。
釈尊があったり、薬師如来があったり、阿弥陀仏があったり、
鬼子母神があったり、地蔵があったり、金剛力士があったり、
まあ、本尊雑乱ですねー。
何を信じて良いか分からない中で、釈尊の燃えるような、
生老病死で苦しむ民衆を救おうという、
エネルギーは出てきませんねぇ。
現在、質問者さんの言ってるような本尊のあり方にすれば、
結局、大聖人の精神は、無くなってしまうでしょうねぇ。
もちろん、創価学会はそのような事はしっかりと押さえておりますねぇ。
今回、日蓮正宗と分離後、発刊された「創価学会教学要綱」には、
本尊について次のように記述されていますねぇ。
「大聖人ご自身が現されたご本尊と、それを書写したご本尊は、
すべて『本門の本尊』と拝する。
その上で、それら『本門の本尊』の中で
創価学会員が信仰の対象とするのは、
日蓮大聖人御遺命の広宣流布を事実の上で進める、
創価学会が受持の対象として認定したご本尊である」
これは、一見すると無理があるように感じられるかもしれませんが、
極めて、重要なことですねぇ。
このように明確にしたが故に、本尊雑乱、本尊に迷うという
宗教にとって致命的な落とし穴に落ちないわけですねー。
「十界は“心の中”だけ?それとも“環境”にも現れる?──創価学会の教義に潜む矛盾と、将来の再定義の必要性について」
創価学会の教義における「十界論」「一念三千」「色心不二」について、長年学んできた者として、今どうしても解決できない疑問があります。それは、**「十界はあくまで“心の中”の状態なのか?それとも“外界=環境”としても現れるべきなのか?」**という問いです。
創価学会の教学ではよく、「十界は生命の内面に内在している」「心の状態によって人生は決まる」と教えられます。しかし同時に、「色心不二」や「一念三千」という法理も強調されます。つまり、心と物質・環境は不二であり、心が変われば環境も変わるというものです。
ここで矛盾が生じます。
もし十界が「心の中」にだけ存在するならば、それは主観的・内面的な話に留まります。すると、「他者」や「社会」や「環境」がその人の心とどのように因果関係を結んでいるのか、説明が極めて曖昧になります。
ところが、創価学会では「あなたが仏界を発すれば、環境も仏国土として変わる」と説きます。これは逆に、「十界が環境にも顕れる」ということを前提としているはずです。だとすれば、十界は単なる“心の状態”ではなく、色(物質環境)との相互因果関係として顕在化する“世界”でなければならないのではないでしょうか?
しかし、現状の教学ではここが明確に整理されていません。
• 心と環境はどういう因果関係で連動しているのか?
• 仏界にある人が、社会的にはまったく仏国土でない環境にいるのはなぜか?
• 環境が変わらないなら、それは本当に「色心不二」「一念三千」と言えるのか?
現代は量子物理学・認知科学・システム理論など、“心”と“物”の境界を問い直す学問が進んでいます。仏教が「色心不二」を説いてきたことは画期的ですが、その概念を“象徴”に留めて曖昧なまま扱っていては、科学的世界観との整合が取れないばかりか、教学の実践的説得力も弱まってしまうと感じています。
日蓮は「一切衆生仏界有り」と説きました。ならば、その仏界が社会に、現実に、どう「可視化」「顕現」されるのか。その論理的・因果的構造を今一度徹底的に掘り下げ、教義として体系的に再定義する必要があるのではないでしょうか?
創価学会が「地球的文明の改革」「人間革命」を目指すというならば、心の中だけで十界を語るのではなく、色心一体としての世界構造・生命システムの理論的解明に挑むべき時代に来ているのではないでしょうか。
創価学会員の皆さん、ぜひこの問題について真剣に考えてみてください。仏法の深化、そして科学的理性との統合が、未来の教学の鍵になると信じています。
(質問に感謝)
そうですねー。
疑問を解決するためには、 十界論を深く理解する必要がありますねー。
ケンブリッジ大学の教授の研究結果によると、
人間は 1 日に約 35,000 回の意思決定を行うと言っています。
おそらくその都度.心が動いたでしょうから、
十界を35,000回も行き来したことになりますねぇ。
そうすると、依正不二だから、環境も35,000回、
物理的に変化したのかというと、そんことはありませんねぇ。
人間の心が十界に動くということが、そのまま、
外見的に、物質的物理的に、環境が変化する、
などというものではありませんねぇ。
日蓮大聖人は、人間の十界と環境との関係を、
次のように書いていますねぇ。
「例せば、餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見る、
天人は甘露と見る。水は一なれども、果報に随って別々なり」
これですよ。質問者さんは「極めて曖昧」と言っていますが、
極めて明確ではないですか。
質問者さんは、理論と実証の違いを
しっかりとわきまえる必要がありますねー。
実証を理論で理解しようとしているから、疑問が起こるのですよ。
「理と事」をしっかりとわきまえないと、
物事の真実を捉えることができませんねぇ。
大聖人は次のように書いてますよ。
「本迹を混合すれば、水火を弁えざる者なり」
「本」とは、本門事の一念三千ですねぇ。
「迹」とは、迹門理の一念三千ですねー。
事と理をわきまえないということは、
水と火を見分けられないのと同じだと言うのですねー。
一念三千論のなかには当然、環境も含まれていますねぇ。
3世間の中の、国土世間が依報であり、環境ですねー。
だから、一念三千の変化相は環境にも及ぶわけですねー。
どのように環境に影響するのかと言えば、
それがまさに「事」ですねー。
具体的な、客観的に見える事象ですねー。
どのような変化相を見せるのかと言えば、
因果俱時という原理に基づいて変化が起きるわけですねー。
時々 、仏教を知ったかぶりした人が、
「仏教は因果の理法を教えている」などと言いますねぇ。
しかし、この人は因果の理法を理解していませんよ。
因果の理法と言うくらい、無責任な話はないのですよねー。
だって、原因を作ってから、その結果が現れるまでの間の期間が、
全く、示されていないのですよ。
もしかすると、この世で作った原因が、その結果としては、
輪廻転生して、来世に出るかも知れないのですよ。
いや、もしかすると、 20回ほど生まれ変わって、
結果が出るかもしれないですねー。
逆に、翌日に結果が出るかもしれないですねー。
実に、無責任な、いい加減な内容でしょう。
創価学会の日蓮仏法はそんな、子供だましみたいなものではありませんよ。
大聖人は次のように書いています。
「因果俱時不思議の一法これ有り」
創価学会の仏道修行によって、日蓮仏法に基づいて、
作られた善因は、その瞬間に、
善果も同時に形成されているということですねー。
理論として理解し難いので、「不思議の一法」と言われてるわけです。
しかし、「事」として現実に考えれば、
これこそ、心の十界の変化が、
どのように環境を変えるのかという原理なのですねー。
具体例はいくらでも出せますが、 1つだけ挙げておきましょう。
例えば、Aさんと言う人は、暗い性格だったとしましょう。
それが、創価学会に入会して明るい性格に人間革命したとしましょう。
そうすると、それまで、職場でAさんに接していた人は、
当然ながら、明るく変わったAさんに驚いて、
自分自身の対応の仕方も変化させるでしょう。
Aさんを取り巻く人々は、Aさんの性格の変化に合わせて、
皆さんが、それまでのAさんに対する態度や姿勢から、
大きく変えてくるのは当然のことですねー。
これが、因果俱時の環境への変化の現われ方の原理ですねー。
これで初めて、因果の理法が現実の生活の中に役立つわけですよ。
その変化した主体と、それを取り巻く客体との変化相は、
どのようなものかと言えば、言うまでもなく、
千差万別の主体と千差万別の客体になりますねぇ。
その関係性は、事例を統計的に、類型的現象として捉えて、
分析することは、できないことはないでしょうけれども、
ほとんど意味がないでしょうねぇ。
そこに、「仏法の深化、そして科学的理性との統合」を行って、
法則化し、「可視化」「顕現」することは、
これもまた、労多くして、あまり意味がないでしょうねぇ。
なぜなら、信仰心のない人にとっては、その可視化したものも、
学会員の体験談も同次元でしか見ないでしょうからねぇ。
従って、質問者さんの提案は、創価学会の発展、
また仏教の興隆にとって、必要性があまり感じられませんねぇ。
さらに、学術的な研究テーマとしては、宗教的要素が入り過ぎ、
科学性が薄められるのではないでしょうか。
創価学会の過去の折伏の迷惑行為に対する謝罪や償いはあるのでしょうか?
創価学会の信仰や平和への取り組みについては、最近とても対話的で柔軟になっている印象を受けますし、その方向性自体はとても素晴らしいものだと思います。
しかしながら、1950年代から1970年代にかけて行われた過激な「折伏大行進」や、強引な勧誘、家庭崩壊を招いたような迷惑行為については、今もトラウマとして残っている方も多いと聞きます。実際に「近所で取り囲まれた」「改宗を強要された」「家族と断絶することになった」という証言もネット上で散見されます。
現在、創価学会は過去のやり方を大きく改め、体験を語り合うような穏やかな布教方法に転換しているとのことですが、それはそれとして、かつて迷惑を受けた一人一人の方に対して、公式な謝罪や、償いの機会を設ける動きはあるのでしょうか?
また、もしそうした個別の謝罪の機会が設けられていないとすれば、
• 創価学会としては、過去の行為に対してどういう思いを持っているのか?
• それなりに正当化できる理由や立場があるのでしょうか?
• それとも、反省と謝罪の気持ちはあるけれど、どう対応すべきかわからないという状況なのでしょうか?
創価学会を敵視するつもりはありません。むしろ、もし本当に世界の平和と人々の幸福を願う宗教団体であるのなら、過去に傷つけてしまった人々への誠意ある向き合い方が、いま求められているのではないかと思います。
もし、学会員の方や元関係者の方で、この件についての考えがありましたら、どうか率直に教えていただけたら嬉しいです。
(質問に感謝)
そうですねー。創価学会に対する批判については、
どこまでも、客観的実体、事実、統計的調査に基づいて、
判断することが、まず何よりも大切ですねー。
どうしてかというと、批判の根拠のほとんどが、
個別的感情か、利害関係から出てきているものなのですよねー。
この知恵袋の批判者のほとんどがその類いなのですよ。
それは、創価学会批判の歴史を調べれば、一目瞭然なのですねー。
創価学会が急速に伸びた昭和30年(1955年)代、 40年代に批判も
急速に拡大していますねぇ。
それでは、何よりも、質問者さんの質問の根拠になっている、
「創価学会批判とは何か」ということを明確にしておきましょう。
基本的なパターンが次のようなものですねぇ。
① まず、創価学会からひどい被害を受けたと、のろしをあげます。
② それを社会問題化するために、週刊誌などのマスコミで、
騒ぎ立てます。
③ 最終的にアンチ創価学会の国会議員を動かして、
国会で創価学会を攻撃します。
これができたのは、創価学会批判を週刊誌で取り上げさせて、
社会問題化し、さらに国会を動かすだけの、
実力のある大物の創価学会批判者がいたということですねー。
最終的には、創価学会第5代秋谷会長が、
国会で参考人招致されましたねぇ。
(参議院 宗教法人等に関する特別委員会
平成7年〈1995年〉12月)
このような創価学会批判を行った中心者は、
一般市民ではありませんでしたねぇ。
ここが大事なところですよ。
創価学会批判者というのは、
「創価学会は、折伏によってどれほど迷惑をかけたか、
分からないのか」とすぐに言いますねぇ。
ところがこの見方は、実は、タチの悪い創価学会批判者によって
洗脳されているに過ぎないのですねー。
このことについては後述しますよ。
この当時の、中心的創価学会批判者は、
宗教関係者と政治関係者だったのですよねー。
創価学会が伸びれば、既成仏教の檀家は減るし、
新興宗教の信者も減っていきますねー。
それらの関係者からすれば、死活問題なのですよねー。
また政治家は、創価学会が発展すれば、公明党が伸び、
自党が食われるわけですから、必死で防戦しますよねー。
この自党を守るための権力闘争がどれほど、
凄まじいものか、関係者以外は理解できないのが、事実ですよ。
戦後、多くの宗教団体が、自分の教団から国会議員を
誕生させようとしましたねぇ。
これは自宗の利益のための、当然の成り行きでしょう。
第一回参議院選挙(1947年4月)全国区では、
宗教関係者が無所属で、下記のように当選をしていますねぇ。
梅原真隆 僧侶(西本願寺)
堀越儀郎 天理教教師
柏木庫治 天理教中央分教会長
西田天香 一灯園主
矢野西雄 生長の家教育部長
来馬琢道 僧侶(曹洞宗)
これらの国会議員は、言うまでもなく自宗の利益のために、
政治的影響力を持とうとして国会議員になったわけですねー。
これらの宗教政党は現在どうなってるのかと言えば、
公明党が、日本の政党要件を満たしている唯一の宗教政党、
宗教議員として、
残っているだけになっているのですねー。
これは何を意味するのか。
国家権力というのは、恐るべき権力闘争を、
常に行っていると言うことの証明に他なりませんねぇ。
これらの宗教団体の国会議員は、
すべて権力闘争の果てに潰されてしまったのですねー。
そこで宗教団体が保身のために取った行動は、
既成政党を支持、推薦するという体制でしたねぇ。
これは、支援を受ける政党からすれば、
宗教団体は極めて大切な票田になったわけで、
この上なく大切に扱うことになりましたねぇ。
宗教団体にとっても権力闘争に巻き込まれるよりも、
こちらの方がはるかに安全で、
政治に対する影響力も保持できたわけですよ。
この2者の関係は、相互援助にも連なり、
お互いに有益なものになりましたねぇ。
旧統一教会と自民党との結びつきを見てもそれがわかるでしょう。
逆に創価学会が公明党を維持したという事は、
激しい権力闘争を持続できたということに他なりませんねぇ。
同時に、他の宗教団体と政治団体は、
利害関係的に、創価学会、公明党を潰することに、
見事な一致を見た事は言うまでもありませんねぇ。
この両者が、創価学会つぶしに取り組んだ、
最初の活動方針は、実は、「差別意識の利用」だったのですよ。
この辺の社会現象は、社会科学的に非常に興味深い事象です。
優れた社会学者が現れて、
研究成果を公表してくれる事を期待しています。
「創価学会というところは、病人と貧乏人、暴力などをふるう犯罪者など
社会の最下層の、嫌われ者の集まっている教団だ。
間違っても創価学会に入ってはいけない」
という差別的なイメージだったのですねー。
時々 、勘違いする人がいて、「創価学会の折伏活動によって、
迷惑を受けた人たちが多くて、社会的批判に発展した」
という人がいるのですよねー。
まあ、こういう人は、現実の社会の動きがどういうものか、
理解できていない人ですねー。
幼稚な観念論者ですよ。
そんなことで、社会的現象と言われた創価学会批判に、
広がるわけがないのですよ。
社会問題にまで広げるためには、必ず、仕掛け人がいるのですよ。
それが反創価学会の2者ですねぇ。
その仕掛け人に乗ったのが、当時のマスコミですねー。
創価学会批判の、一大キャンペーンを繰り広げましたねぇ。
「創価学会は香典泥棒をする教団だ」
というような見出しで、創価学会員が葬式の時に受付をして、
香典を全部持っていくということを記事にしましたねぇ。
この新聞社に対して、創価学会は厳しく追及して、
結局、「事実誤認でした」と謝罪広告を出しましたねぇ。
ただ、現在でもある年齢以上の人は、
創価学会が葬式の香典を持っていくと
思っている人がいるのですよねー。
批判の出所が、誤報であったと謝っているのに、
1度流れた批判は何十年も生き続けたわけですねー。
または、次のようなことを書いた本が出版されましたねぇ。
「創価学会は、病人と貧乏人が集まっている。
病人と貧乏人は、ほぼ、創価学会員になっているので、
これから、創価学会が拡大することはないだろう」
これですよねー。
これを書いた評論家は、
言論出版妨害事件に関わった人間でしたねぇ。
この本は非常によく売れて、
著者は、印税でぼろ儲けをしましたねぇ。
創価学会に対するこのような、
大々的なネガティブキャンペーンの狙いの根本は、
創価学会に対して差別意識を持たせようとするものなのですねー。
差別意識とは言うまでもなく、江戸幕府が
政治的都合で、人為的に行った部落差別の人権侵害ですねー。
「創価学会は、普通の人間の集まりでは無いのだ。
普通の人間以下の、皆から避けられ、嫌われる人種の集まりだ」
というイメージを徹底して社会に広めたわけですねー。
そして、何より明確にしておかなければいけないのは、
その差別の理由ですねー。ほとんどがガセネタだったのですねー。
あるいは、ほんのわずかの1部のことを、
創価学会全体のこととして、マスコミが報道したわけですねー。
さらに、学会本部としては禁止していたことをやってしまった、
数人のことを創価学会の実態として大騒ぎにしたわけですねー。
このネガティブキャンペーンは、結果として、
かなり成功しましたねぇ。
「創価学会は世の中の嫌われ者」というイメージが、
社会問題として捉えられるまで定着しましたねぇ。
その1つとして、創価学会員に対する就職差別まで起こったのですよ。
当時の大手金融機関の人事課には、マル秘書類として、
次のような見出しのものがありましたねぇ。
「創価学会員と部落出身者は採用しないこと」
これは、人権教育の中で使用された資料として残っていますねぇ。
これほどの創価学会に対する悪質な人権侵害が、
どうして逆に、社会問題とならなかったのか。
それは、金儲けのためには、世の中に迎合するという、
日本のマスコミの堕落した実態が大きく影響してましたねぇ。
当時は、創価学会を中傷批判する書籍や記事であれば、
いくらでも高く売れた時代ですねー。
低レベルな評論家が書籍を発行して金儲けしようと思えば、
創価学会批判の内容が最も容易だったわけですよ。
実際、社会的に認知されて居ないようなライターが、
ガセネタで創価学会批判を書いたような書籍でも、
よく売れましたねぇ。
週刊誌や雑誌などでも、創価学会批判の記事さえ載せれば、
さらに、それを電車の吊り広告などで宣伝すれば、
通常よりもはるかに販売部数が伸びたのですよ。
ひどいのは、文芸雑誌などにも、
創価学会批判の文学作品を載せましたねぇ。
小説月刊雑誌「オール読み物」には、志茂田景樹氏の
創価学会批判の小説を巻頭小説として、
掲載したこともありましたねぇ。
記憶が定かではありませんが確か「会長の陰謀」
というような作品名でしたねぇ。
会長というのは池田会長のことを暗示していましたねぇ。
志茂田景樹氏というのは、創価学会に入会して活動した後、
脱会した人間ですねー。「折伏鬼」という小説を発表して、
創価学会批判をした作家ですねー。
当時のマスコミは、このように、金儲けのために、
創価学会批判一色になっていましたねぇ。
別の面から言うと、創価学会を正当に評価し、
賛嘆する内容のものを発表するのが、
非常に怖かったのですよ。
というのは、もしも、創価学会を擁護したり、
賛嘆するようなものを出版したとすると、
恐ろしい攻撃をあらゆる方向から受けたのですよ。
その凄まじさは、出版社を潰すほどの威力があったのですねー。
その上、人気のある執筆者が、
創価学会を賛嘆する週刊誌や雑誌などから、
皆、逃げていったのですよ。
それは、自分たちも攻撃をされて、
働き口がなくなることを恐れたわけですねー。
日頃、口にしている正義よりも、自分の保身を優先したわけですよ
だからどのマスコミも、
創価学会をまともに評価できなかったのですねー。
これは本当のことですよ。
日頃、正義感に満ちたような立派なことを言っているマスコミも、
実態は、正義よりも金儲け、世論に迎合が、
本質だったのですねー。
これは現在までも、続いている実態ですよ。
創価学会や公明党のことを賛嘆する人物は、
必ずと言っていいほどあらゆるところから攻撃を受け、
潰されますねぇ。
それは実際は、想像を絶するような攻撃なのですよ。
これまでに、数え切れないほどの人物が、
潰されたのも事実ですねー。
現在、佐藤優さんなどがその立場ですねー。
よほどの信念がなければ、親創価学会の立場を維持できませんねぇ。
社会的に生き抜くことはできないような攻撃を
受けていますねぇ。
それは「創価学会から被害を受けた」などというレベルを
はるかに超えたひどいものなのですよ。
これまでにそういう、創価学会、公明党を
まともに評価することによって、攻撃を受け、
潰された人々の体験を一冊の書物にすれば、
創価学会批判者が、いかに悪質であり、卑劣であるかが、
白日のもとにさらされるでしょう。
その出版を期待をするしかありませんねぇ。
こんな、創価学会を取り巻く社会状況の中で起こったのが、
いわゆる、言論出版妨害事件ですねー。
この事件は、 1969年(昭和44年)、当時、明治大学教授で
政治評論家の藤原弘達氏が創価学会・
公明党を批判した著書『創価学会を斬る』
の出版に関係してのことですねぇ。
この事件は、創価学会にとって、都合の悪い書籍の出版を、
妨害したというものですねぇ。
当時、国会でも取り上げられ、創価学会批判者が総出で、
創価学会潰しに出た出来事でしたねぇ。
社会的にも、大騒ぎになったものでしたねぇ。
これなどは、創価学会攻撃の見本のようなものですねー。
簡単な話ですが、「事件」と大げさに言っていますが、
この言論出版妨害事件によって、
創価学会関係者は、誰1人として、
逮捕され、裁判にかけられ、有罪判決を受けたものはいないのですよ。
さらに、民事裁判においても、損害賠償の判決は全く出ていませんねぇ。
すなわち、この「事件」の本質を一言で言えば、
事件でもないものを創価学会批判勢力が総出で、
「事件」にでっちあげたものだったのですねー。
国としては、この「事件」を次のように認識しています。
《”言論・頒布の自由が全部抹殺された”という言い方は、
少しオーバーじゃないだろうか》
《公明党あるいは創価学会も、事実が違うとか、
自分たちに非常に不利益だということが目につけば、
そこを直してくれとか要請するのはあたりまえだろう》
《(この事件によって)人権侵害を受けているという申告、
あるいは要請が今までない》
これが客観的な事実なんですねぇ。
それなのに、今でも「創価学会の言論出版妨害事件」などと言って、
創価学会を誹謗中傷するのは、
タチの悪い創価学会批判者に洗脳された、幼稚な人間ですねー。
さらに、創価学会批判の社会的風潮に悪乗りして出てきたのが、
月刊ペン事件ですねー。
月刊ペン事件は、雑誌『月刊ペン』(廃刊)が、
1976年3月号に掲載した「四重五重の大罪犯す創価学会」 、
4月号に掲載した「極悪の大罪犯す創価学会の実相」
という記事が創価学会、当時の池田会長、
女性会員2名の名誉を毀損した名誉毀損罪にあたるとして、
編集長の隈部大蔵氏が刑事告訴されたものですねぇ。
裁判の結果は、 有罪判決でしたねぇ。
この2例は、ほんの1部で、当時は無数に近いほど、
創価学会を誹謗中傷する週刊誌、月刊誌、単行本が
出版されたものでしたねぇ。
出版社も、執筆者も、創価学会のおかげでぼろ儲けをした時代ですよ。
この時代の執筆者の生き残りが、
現在も、昔の偽善的栄華が忘られずに、
創価学会の誹謗中傷をして、虚しく喜んでいますねぇ。
こんな創価学会批判の風潮の1つの到達点として、
当時の秋谷会長の、国会への参考人招致があったわけですよ。
その時の秋谷会長の冒頭の話の内容は、次の通りでしたねぇ。
(平成7年〈1995年〉12月)
参考人(秋谷栄之助君)
創価学会及び創価学会インターナショナルを代表して、
意見、所感を述べさせていただきます。
今回の参考人招致の目的は、本来、
宗教法人法改正に関する各界の意見を
幅広く聴取することであると思うものでございます。
しかしながら、既に提出案どおり無修正で
採決が行われる日程が確定したとも伺っております。
これでは、多くの反対の声を押し切る形式ばかりの審議で
強硬に打ち切った宗教法人審議会と
同様の事態が続いていると言わざるを得ません。
さらに、審議日程や参考人の人選基準が決まる前から、
当会の池田名誉会長を名指ししたり、
強引に採決を図ろうとするなど、
その政治的意図を持った異常な言動は
良識の府と言うにはほど遠く、
国民の信頼を裏切ることになることを恐れるものでございます。
したがって、私も今回の招致に応ずる必然性を
感ずることはできないのでありますが、そ
れでもあえて出席しましたのは、
全会一致というルールにのっとった決定でもあり、
私どもの反対意見を皆様に広く理解していただきたいと
考えたからでございます。
実際の映像でも、言葉の内容と同じように、
非常に堂々としたものでしたね。
卑屈さなど、どこにもありませんでしたねぇ。
その言動から、創価学会攻撃は、
創価学会の発展により損害を受ける、団体や人間たちによる、
極めて悪質な陰謀であったことを感じさせましたねぇ。
この国会招致は、言うまでもなく、自公政権が成立する、
1999年(平成11年)以前のできごとですねぇ。
ここはしっかりと押さえなければならないところですねぇ。
そうしないと、創価学会批判の本質を見失うことになりますねぇ。
自公連立政権ができてからは、創価学会関係者の
国会招致、喚問、などの動きは全くないのですよ。
このことを考えれば、誰でも、
社会的な流れとして出てくる創価学会批判というのは、
極めて政治的だというのがわかりますよねぇ。
このような創価学会批判の最大の特徴は、
「社会全体が創価学会を批判的に見ている」という、
事実とは離れた虚像を社会に作り上げるということですねぇ。
時々 、創価学会が社会から嫌われている証拠として、
アンケートなどの結果を出してくる人がいますねぇ。
その結果からすると、創価学会は8割近くの人から、
嫌われているということになっていますねぇ。
これは、調査の方法が、創価学会批判になるような、
意図のもとに行われているのですねー。
その調査の分母を見ると、創価学会嫌いが集まっている、
限定された集団になっているのですよ。
また、創価学会員があまり参加しないような
会員制の人に対する、アンケートでもあったりするのですよねー。
まあ、実に幼稚な創価学会批判のパターンですねぇ。
どうしてこんな、すぐにバレるような小細工をするのですかねー。
呆れるしかありませんねぇ。
それで実際の創価学会員やその周囲の人たちは、
創価学会対してどのように考えているのでしょうか。
実際、町内会で創価学会の人が、
皆が嫌がるような様々な役職を受けてくれて、
非常に喜ばれていますねぇ。
また、会社の中では、学会員の人が、
多くの人から頼られる人になっていますよー。
何より、全国の公明党の、市区町村議会議員数は、
現在、2,709 人で、自民党を抜いてトップですねー。
その支援組織が創価学会です。
地域の人たちから創価学会が信頼されている証拠でしょう。
質問者さんの「過去の折伏の迷惑行為に対する
謝罪や償いはあるのでしょうか?」
という質問は、ピントがずれていることがお分かりでしょうか。
下記など参考に。
https://www.soka3.com/
創価学会は「世界宗教」と言えるのか?―宗教学的視点からの根本的問い
創価学会(SGI)は、国際的な平和活動、教育、人権推進を通じて広範な社会的影響力を持ち、今や192カ国・地域に拡がっているとされています。この点において、確かに「世界的宗教運動」としての側面は認められます。
しかしながら、「世界宗教(World Religion)」という概念は単なる地理的広がりや人数の問題ではなく、思想的・哲学的・文化的に人類の共通基盤たりうるかという、はるかに深い問題を含んでいます。
以下、学術的・宗教社会学的な視点から、創価学会が世界宗教となることの根本的困難を提起します。
1. 信仰の中心が翻訳不可能な言語形態に依存している
創価学会の核心は「南無妙法蓮華経」の唱題であり、このフレーズ自体が救済と宇宙真理への帰依を象徴します。しかしこの構造は、具体的な言語表現が神聖化され、それを唱える行為そのものが救済手段となるという、極めて文化依存的な形式です。
哲学・宗教の普遍性は、内容が文化や言語を超えて翻訳可能かどうかにかかっています。「愛」「慈悲」「真理」といった普遍概念は文化差を越え得ますが、「南無妙法蓮華経」はそうした抽象普遍概念への翻訳が極めて困難です。
→ よって、たとえ世界中に信者がいても、その中心教義が翻訳不可能な音声信仰に依存する限り、「普遍宗教」とは定義できません。
2. 教義の排他性と宗教的多元主義との不整合
創価学会は、法華経を唯一絶対の経典とし、それ以外の仏典や宗派を「権教」と位置づけます。これは明確な教義的排他性を示しており、他宗教との本質的対話や包摂が困難になります。
現代における「世界宗教」の条件の一つは、宗教的多元主義との整合性です。キリスト教やイスラームですら、20世紀以降、多元主義的再解釈(例:カトリックのヴァチカン公会議、スーフィズム的神秘主義の展開)により、他宗教との共存モデルを模索しています。
→ 創価学会が「自宗の法こそ唯一の救済原理」とする限り、現代的宗教の対話的・普遍的枠組みとの共存が極めて困難です。
3. 経験主義に依拠した「実証的宗教観」の限界
創価学会では「唱題によって人生が好転した」「功徳を得た」という経験が信仰の根拠とされることが多くありますが、これは個別主観の積み重ねであり、普遍宗教が持つべき形而上学的・倫理的普遍性の根拠とは異なります。
宗教の真理性が「実生活で役立った」かどうかだけで判断されるなら、占いや自己啓発書、薬物体験ですら信仰対象になりえます。経験の有効性と宗教の普遍性は論理的に区別されるべきです。
以上を踏まえ、次の問いを提示したいと思います。
「世界中に広がっている」という事実と、「世界宗教たりうる哲学的・教義的普遍性」は別物ではないでしょうか?
翻訳不能な言語信仰、教義的排他性、経験主義への依存がある限り、創価学会は世界宗教ではなく、国際的宗教運動にとどまるのではないでしょうか?
この問いは創価学会を貶める意図ではなく、むしろ「本当に普遍的宗教たりうるには何が必要なのか」を誠実に考える契機として提示するものです。信仰に対する敬意を前提としつつ、宗教学的に誠実な回答を期待します。
(質問に感謝)
そうですねー。
まず、「個別性と普遍性」について確認しましょう。
「個別性を究極まで追求すれば、普遍性に至る」
というのは、当然の道理ですねー。
例えば、人間をあらゆる面から探求し、
本質に至れば、それは普遍性を持ったものになりますねぇ。
1人の日本人を徹底して探求することによって、
老若男女、人種、民族を越えて、人間とは何かという、
普遍的な把握へと至りますねぇ。
また、地球の生成過程を徹底して研究すれば、
それは宇宙の成り立ちにも通じることですねぇ。
逆に、普遍性に大雑把な網をかぶせて、
研究をして、個別性に有益な研究結果が出せるのか、
と言えば、ほとんど不可ですねー。
こんなむだ骨を折るような研究方法は誰もほとんどしませんねぇ。
創価学会が信奉する日蓮仏法は、日本人という、
さらに、鎌倉時代という、個別性を持った1人の人の存在の、
本質を明らかにすることによって、
普遍的な全世界の人々に、時代を超えて効用をもたらすものですねー。
このことを日蓮大聖人は、
「南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし」
と書かれていますねぇ。
さらに次のようにも書かれていますねぇ。
「大白法の日本国ならびに一閻浮提に広宣流布せんことも
疑うべからざるか」
一閻浮提というのは全世界を意味していますねぇ。
ですから大聖人は、日本の鎌倉時代という個別性の中で、
自らの法門は、全世界に未来永劫に広まることができるものであるという、
普遍的な確信を持っているのですねー。
また、そうなることを大前提とした法門なのですねー。
それでは何が、人間の個別性における普遍性なのか、
と言うと、それは『九識論』という法理の中に明らかにされていますねぇ。
九識論は人間の生命の働きを、
9層の段階にわけて掘り下げています。
☆第一識から五識までの働き・・・(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)
人間の五官の働き。
☆第六識の意識
☆第七識の未那識(マナ識)
☆第八識の阿騾頼耶識(アラヤ識)
☆第九識の阿摩羅識(アマラ識)
第六識までは、説明は要りませんねぇ。
第七識の未那識(マナ識)というのは、無意識の世界ではあるけれど、
常に自分の個別性を認識する自我意識ですねー。
深層心理にあたる部分ですねー。
第八識の阿騾頼耶識(アラヤ識)というのは、無意識世界であり、
自我意識も存在しないのですが、これまでの人生の善悪が蓄積し、
無意識のうちに苦楽などの方向づけをするものですねぇ。
第九識の阿摩羅識(アマラ識)仏性のことですねぇ。
大聖人は次のように書いていますねぇ
「妙法の五字は九識、方便は八識已下なり。
九識は悟りなり、八識已下は迷いなり」
「八識已下は迷いなり」というのは、個別性があるということですねー。
時代、地理、民族、人種、などによって変化するということです。
それに対して第九識は、あらゆる差異を超えて、
あらゆる人間に普遍的に備わっているものです。
日蓮仏法は、この第九識を説いた法門なのですよ。
だからこそ、世界の人々に通用する世界宗教なのですねー。
従って南無妙法蓮華経を
「抽象普遍概念への翻訳」する必要など全くないのですねぇ。
日蓮仏法の教学の研究を深めれば、
南無妙法蓮華経が、最高に普遍性を持った、
題目であることが理解できるわけですねー。
全世界の人々に理解してもらうように、ということで、
大聖人の教えを書いた御書の出版は、英語、中国語、
スペイン語、韓国語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、
ポルトガル語、オランダ語、デンマーク語など
10言語以上に及んでいますねぇ。
また、創価学会の実践が理解できる小説新人間革命は、
海外13言語、23カ国・地域で出版されていますねぇ。
創価学会の信仰は、単なる法門や指導ではなく、世界の人々が、
現実の生活の中で、信仰の力を実感しているものなのですねー。
これが、創価学会の素晴らしさですよ。
少々余談で 、難解な話になりますが、この法門は、
人間の生命に限ったことではないのですよねー。
あらゆる生命体に通じることなのです。
大聖人は、次のように書いていますねぇ
「問うて云わく、草木成仏とは、有情・非情の中、いずれぞや。
答えて云わく、草木成仏とは、非情の成仏なり」
第九識の阿摩羅識の仏性は、感情のある生命体にのみ、
存在しているものではないというのですよ。
非情である草木にも仏性があるということですねー。
この法理が、非情である紙に書いた、文字曼荼羅の本尊が、
力用をもっていることを証明する根拠になっているのですねー。
ただ、難解なので詳細は避けます。
次に、世界的宗教における音声の働きについて考えてみましょう。
世界的宗教においては、祈りの音声というのが必ずありますねー。
ヒンドゥー教のモスクに響くお祈り声、教会の賛美歌の歌声、
「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」と繰り返される祈りの言葉、
題目を唱える唱題の声、読経、神の前で行う神楽、ご詠歌、
等々 、宗教的音声が、祈りや信仰を深める縁となっているのですねー。
発している言葉や音楽の内容が理解できるかどうかは、
直接的な関係はありませんねぇ。
同じ題目を繰り返すことにも意義がありますねー。
理解できない外国語の歌をいくらでも、
楽しく聴くことができるのと同じです。
また、カラオケで同じ歌を何度、歌っても、うれしいのと同じですねー。
世界のどこにでも、言霊信仰というものがありますねー。
日本でも、上代の時代から祝詞(のりと)というようなものもありました。
言葉には、様々な力があると信じることですねぇ。
これは今でも私たちの生活の中に時々出てきますねぇ。
例えば、結婚式の祝辞で、「別れる」などと言う言葉を使うと、
新婚の2人にとって縁起が悪いと思ったりしますねぇ。
また、正月に、何度も「おめでとうございます」と言っているうちに、
特にめでたいこともないのに、なんとなく、
めでたい気持ちになるものですねぇ。
南無妙法蓮華経の唱題行もこのような働きがありますねー。
だから、「翻訳不可能な音声信仰」で、全く問題ないわけですよ。
すべての世界的宗教には「翻訳不可能な音声信仰」の要素が、
含まれているのですよ。
逆に言えば、「翻訳不可能な音声信仰」が、
普遍宗教ではないというのであれば、言葉や音楽を理解しない子供たちは、
普遍宗教には実質的な参加ができないということになりますねぇ。
そんなことがある訳ないではないですか。
余談になりますが、禅宗は、「黙って座って悟りを開く」わけですから、
宗教的音声が基本的にはありませんねぇ。
だから、「禅宗は仏教ではない」と嫌味を言われたりするのですねー。
これらの事は、教義の理解を軽く見ているのではありませんよ。
当然ながら、創価学会は日蓮仏法の日常的な学習を勧めていますねぇ。
体験を重視するのはもちろんです。
体験という実証の伴わない宗教は、
すべて自己満足、ドグマであると言えるでしょう。
しかし、信仰の確信というのは、理性による教義への納得があって、
信仰心が強く起こってくるものですねぇ。
このことを大聖人は次のように書いていますねぇ。
「行学の二道をはげみ候べし。行学たえなば仏法はあるべからず」
これは、「信仰の行動と教義の学習に常に励みなさい。
そうしなければ、信仰していることにはなりませんよ」
ということですねー。教義の理解の大切さを教えているわけです。
最後に「教義の排他性」について考えましょう。
まともに考えれば、世界的宗教の中で、
「ウチの宗教も良いけれど、アンタとこの宗教もいいねぇ。
どちらでも良いじゃないの」
なんてことを言う宗教などありませんねぇ。
そんな宗教が、世界に広まるわけがありませんよ。
その宗教に、独自性、絶対性があるからこそ、
人々は、魅力を感じて信仰するわけですねー。
しかしながら当然、排他性があるが故に、世界的に宗教の歴史を見れば、
宗教戦争が何度も繰り返されてきてるわけですねー。
表面的には宗教的対立による戦争ではないように見えても、
その根底に、宗教戦争の要素を持っているものは多くありますねー。
現在のガザ地区の戦争もそうです。
創価学会、日蓮仏法の「教義の排他性」というのは、
宗教戦争につながる次元の話ではないのですよ。
ここが非常に大切なところですねぇ。
あまり的確な表現ではないですが、
「罪を憎んで人を憎まず」と言うものですねぇ。
日蓮仏法が最も大切にしているのは人間そのものなのです。
創価学会の信仰は、日蓮仏法は、
人間が、人類が幸福になるための手段にすぎないのですねぇ。
最も大切なのは人間そのものなのですよ。
だから宗教のために、人と人とが争う、などというのは、
本末転倒した宗教として否定をするのですねー。
だから、宗教的瑣末な問題については、
「随方毘尼(ずいほうびに)」という法理があるのですよ。
随方毘尼とは、仏教の根本法理に反しない限り、
各国の風俗や習慣、時代ごとの風習に合わせ、
信仰のあり方を柔軟に変えればよいということですねー。
実際、創価学会が世界各国に広がってゆく中で、
世界宗教に適するように様々な面で変化させているのですねー。
昨年、創価学会の原田会長が、
先日、亡くなったローマ法王と会見しましたねぇ。
そこでは、世界の平和について様々に語られました。
両者の思いは、共感されましたねぇ。
まさに、人類の幸福と世界平和のための随方毘尼なのですねー。
日蓮大聖人が、当時、鎌倉幕府で絶大な権力を握っていた、
平左衛門尉頼綱に対してどのように対応されたのか。
頼綱は、大聖人を鎌倉の由比ヶ浜海岸で
首を切ろうとした武将ですねー。
大聖人は次のように書いていますねぇ。
「相模守殿こそ善知識よ、平左衛門こそ提婆達多よ」
相模守殿と言うのは、鎌倉幕府の執権、北条時宗のことですねぇ。
彼は大聖人を権力を持って徹底して迫害した人物ですねー。
その時宗対して大聖人は、「私の仏道修行を助ける善人である」と
感謝しているのですよ。
さらに、平左衛門に対しては、釈尊が自身の成仏を
手助けしてくれたと言ってほめた、提婆達多にたとえて、
感謝しているのですねー。
提婆達多は、徹底して釈尊に敵対した人物ですねー。
ある時には、釈尊に石を投げつけ、それが足の指に当たり、
出血させた極悪な人物ですねー。
このように、命を取ろうとした人物に対しても、
人間としては、許すどころか感謝をするという精神こそ、
創価学会、日蓮仏法の信仰者の姿なのです。
これこそ、人間のための宗教、世界宗教の証明ではないでしょうか。
創価学会の一念三千による因果倶時的「宿命転換」について、現代科学と重ねた解釈は正確でしょうか?
創価学会で教わる「宿命転換」という重要なテーマ、そしてその根幹にある因果倶時的「一念三千」の法理について、私なりに現代科学や心理学、生物学の視点も交えて解釈を試みました。
この理解が創価学会の教義として正しいか、あるいは誤解があるか、教学に詳しい方や長年の信仰経験をお持ちの方にぜひご意見を伺いたいと思います。
創価学会では、人生で直面する様々な問題や自身の傾向性(人間関係・病気・環境など)、繰り返すパターンは、過去の言動が積み重なった「宿業」によるものとされているとされます。
そして、この宿業を乗り越え、人生を好転させていくことを「宿命転換」と呼び、
この宿命転換の教えを支える仏法の法理が、因果倶時的「一念三千」だと捉えています。
「因果倶時」は「原因と結果は同時に存在する」という意味。つまり、今の私たちの生命の中に、未来の結果がすでに含まれている、あるいは今の原因の積み重ねが即、未来の結果として形作られているという考え方。
そして「一念三千」は、私たちの「一瞬一瞬の生命(一念)」に、宇宙の森羅万象である「三千」の世界がすべて具わっている、という法理。私たちの一念の変化が、自身の境涯だけでなく、周囲の環境や出来事をも動かしていく力を持っていると理解し、これらの仏法的な基盤の上に立つ「宿命転換」という考え方を、私なりに現代の知見と重ねて解釈してみました。
現代科学に置き換えてみると……
1, 量子もつれと因果倶時/一念三千: 量子力学の「もつれ合い」(エンタングルメント)は、離れた粒子間が即座に影響し合う現象。これは、宿業や一念が、未来の結果や宇宙全体(三千)と、時間空間を超えて深くリンクしている因果倶時的「一念三千」の妙を、物質のレベルで示唆
2, 神経可塑性と宿命転換: 脳の神経回路は、思考や習慣で変化します(神経可塑性)。題目を唱えたり仏法に基づいた行動を重ねることは、脳内のネガティブな反応パターンをポジティブなものに書き換え、生命の傾向性=宿業を良い方向へ変えていく、脳科学的な宿命転換のプロセス
3, ユング心理学の共時性: 心理学の「共時性」は、意味のある偶然の一致。一念三千に基づき、生命状態(一念)が高まると、内面の変化が現実世界に共鳴し、偶然のように良い出来事が起こる。これは、深い生命の層が現実とシンクロする「一念三千」の一面を表している
4, エピジェネティクスと宿業/宿命転換: 生物学の「エピジェネティクス」は、DNA配列は変えず、遺伝子発現を後天的に変える仕組み。宿業を、単なる遺伝だけでなく経験で刻まれた「遺伝子発現の傾向性」と捉えるなら、題目や行動の刷新は、そのネガティブな傾向性を変えるエピジェネティックな変化であり、DNAレベルでの宿命転換の解釈
これらの考えを重ねると、「宿業」とは、私たちの生命の深層に刻まれた行動・思考・生命状態のパターンであり、「宿命転換」とは、題目による生命の変革(一念の転換)と具体的な行動を通して、このパターン(宿業)と、それが現れる現実(三千)を良い方向へ書き換えていくプロセス
この理解は、創価学会の教義、特に因果倶時的「一念三千」の法理に照らして、本質を捉えていますでしょうか?
* 「因果倶時的一念三千」を、現代科学や心理学の視点と重ねてこのように解釈するのは、仏法の教義として妥当ですか?
* 「宿命転換」を、脳や生命(エピジェネティクス)、生命(DNA)状態(一念)の書き換えとして捉えるのは、教義に沿っていますか?
* これらの解釈は、仏法の重要な視点を見落としていないでしょうか?
私自身の理解を深めるための質問です。創価学会の教学に詳しい方、長年の信仰経験から実感をお持ちの方からの率直なご意見を心よりお待ちしております。よろしくお願いいたします。
(質問に感謝)
そうですねー。
まず、質問者さんの提起している事象は、
人間の存在のどの部分に位置しているのかを確認しましょう。
実際には、人間存在を縦に切って固定的に見ることはできないのですが、
分かりやすくするために、そうしてみましょう。
認識を対象にした、その代表が、
インドの無著と世親によって大成された9識論ですねー。
9識論とは、生命が物事を認識する働きである識を9種に分けたものですねぇ。
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識・
阿摩羅識の9種ですねー。
①眼識②耳識③鼻識④舌識⑤身識は、
5官に基づく認識作用で、5識と総称されますねぇ。
⑥意識は、5識による知覚を分別・判断する働きですねー。
あるいは夢を見たり過去や未来などを想像したりするなど、
5識とは直接関係のない自立的な働きのこと。
⑦末那(マナ)識は、意識的であれ無意識的であれ、
常に第8識の阿頼耶識を自身(我)であると執着し続ける、
根底の自我意識のこと。
⑧阿頼耶(アラヤ)識は、善悪の業を蓄積し、
その果報としての苦楽の生死を生み出す源泉となる識のこと。
⑨阿摩羅(アマラ)識は、生命の根源である清浄な識のこと。
それぞれの「識」の解釈は、宗派によっていろいろですねー。
一応、一般的な説明をしておきましたよ。
これをわかりやすく、図示したものが、下記のように、
ネットに出ていましたねぇ。
ここでしっかり押さえなければならないことがありますよ。
それは、数字の多い「識」は、数字の少ない「識」へ、
決定的な影響を及ぼすということですねー。
図でもわかるように、 ⑨識は、 1本の木の根っこですねー。
木の根っこが枯れると、その上にある幹や枝葉すなわち、
⑧から五感まですべて、枯れてしまうという影響になるわけですねー。
これは人間の認識論ですが、
存在論の一面として捉えることもできますねぇ。
①から⑤までは、肉体的病気の対象になる部分ですねー。
この部分に南無妙法蓮華経すなわち妙法が
どのように影響するのかと言えば、
これは、医学的な統計として証明できますねぇ。
例えば、創価学会員でない人と、題目を唱え仏道修行する学会員とが、
同じような病気になり、同じような治療をした場合、
どちらが、自己免疫力が強くなっているか、
血液検査などで調べれば、学会員の方が免疫力が強くなるという、
結果が出るでしょう。
もちろん、できるだけ多い症例を取り上げるのは当然ですが。
以上の事は、医学が発達したから仏法の効力が、
客観的に証明されたものですねぇ。
創価学会の信奉する日蓮仏法というのは、
医学と矛盾したものではなく、
医学が発達すれば、その効用も医学的に証明される、
というものなのですねー。
ただ、「創価学会の信仰をすれば病気が治る」などと、
医学無視のカルト宗教のようなものではないことを、
対外的にはっきりさせていますねぇ。
だから、聖教新聞に掲載される、病気治癒の大型体験などには、
必ず、担当医師のコメントを載せるようにしているのですよ。
この⑤識までは、妙法の効用の証明が可能ですねー。
ここで、 1つの非常に重要なテーマがありますよ。
それは、同じ南無妙法蓮華経を唱えても、創価学会と、
身延や日蓮正宗や国柱会との違いは、何なのか、
ということですねー。
これが、医学的に実証できれば、
創価学会の素晴らしさが、さらに明確になるのですがねぇ。
次の「識」からは、そういう科学的、医学的な証明が、
現代の技量では難しい部分に入ってきますねぇ。
⑥識は、精神神経科の分野ですねー。
例えば、うつ病で苦しんでいる人が、唱題に励んだとき、
脳内の神経伝達物質、ドーパミンやセロトニンなどの分泌が多くなり、
心の状態が改善されるということが、
実証できるようになれば、証明できるでしょうが、
現在では、確実な証明をするのは困難でしょう。
質問者さんは、現在では実証できない分野の、妙法の効果を、
科学や医学の発達に基づいて、
証明ができないかと思索しているわけですねー。
その思索の方向性は、「ユングの共時性」以外については、
正しいのではないでしょうか。
ただ、しつこいようですが、科学的、客観的に証明できるデータが、
現時点で明示することができないものについては、
効用を公表することはできませんねぇ。
創価学会は、現時点での科学、医学に矛盾しないことが、
大前提の宗教なのですよ。
⑦識は、心理学で言うところの無意識の分野ですねー。
DNAの世界とも言えるでしょうねぇ。自分では意識していないけれども、
⑧識に基づいた自我意識がしっかりと根付いている部分ですねー。
この無意識の世界が、 1人の人間の行動、性格、人生に
大きく影響していることは言うまでもありませんねぇ。
この「識」の分野についてはまだまだ研究が進んでいませんねぇ。
⑧識は、これがまさに、宿命、宿業、運命の分野ですねー。
どうして、今の両親のもとに、今の性で生まれたのか、
どうして、この国の、この時代に生まれたのか。
これらが内包された世界ですねぇ。
この捉え方について、大聖人は次のように書いていますよ。
「これらの賢聖の人々は、聖人なりといえども、
過去をしらざること凡夫の背をみず、
未来をかがみざること盲人の前をみざるがごとし」
「世間の様々な学者は、人間の存在について、
様々なことを言うけれども、前世、現世、来世と言う、
3世にわたる因果をわきまえて把握していないのだから、
人間存在の本質を何も知らないのと同じだ」
ということですねー。
妄想ではなく、本当に事実として、この⑧識の次元から、
人生を向上させようというような哲学、宗教は、
実際にはありませんねぇ。
もし、あるというものがあれば、創価学会以外は、全てカルトですよ。
この ⑧識の宿命は、当然、⑦識までの識が、
影響を与えられるものではありませんねぇ。順番が逆ですから。
宿命に影響を与え、変化させ、転換できるのは、
言うまでもなく次の識になるわけですよ。
このことを大聖人は次のように書いていますねぇ。
「古徳のことばにも、『心地を九識にもち、
修行をば六識にせよ』とおしえ給う」
「人生の根底に、宿命転換できる日蓮仏法をすえて、
現実の人生の中で、その力を発揮していきなさい。
そうすれば、自分にとって最高の人生になるのですよ」
このように教えているところですねぇ。
さらに大聖人は、 9識論について次のように書いていますねぇ。
「妙法の五字は九識、方便は八識已下なり。
九識は悟りなり、八識已下は迷いなり。『妙法蓮華経方便品』
と題したれば、迷悟不二なり。森羅三千の諸法、
この妙法蓮華経方便にあらずということなきなり」
「八識已下は迷いなり」というのは、⑧識までは、
個別性のものだと言ってるわけです。
それに対して⑨識は、普遍的なものであり、
人類全体が生命の中に内在させている仏性だということですねー。
また次のようにも書いていますねぇ。
「この御本尊全く余所に求むることなかれ。
ただ我ら衆生の法華経を持って南無妙法蓮華経と
唱うる胸中の肉団におわしますなり。
これを九識心王真如の都とは申すなり」
この人間の生命として最高の仏性である「九識心王真如の都」を
妙法によって発動させることによって、
宿命を転換することができるのですねー。
宿命を転換すれば、人生のすべてが変革できるということですねー。
最大のポイントは、「九識心王真如の都」を発現させるのは、
創価学会の自行と化他を具した、唱題であり、
学会活動であるということですねぇ。
この仏道修行の中にしか存在しないということですねー。
さて、 「ユングの共時性」について考えてみましょう。
これを科学的に証明することは困難でしょう。
私自身、これを肯定するものではありません。
また、日蓮仏法と関連付けることには、
否定的にならざるを得ませんねぇ。
ただ、ヒントになるなことを挙げておきましょう。
9識論の図を見てください。
⑨識は、大きく伸びた木の根の部分になるわけですねー。
大地にしっかりと根を張っています。
大地は、依報であり、環境であり、宇宙的存在そのものですねー。
すなわち、人間の生命の根底は、
宇宙的存在と一体であるということですよ。
当然ながら、人間生命は、宇宙的存在からの影響も受けますが、
逆に、根を張った木々が、枯れたりしたとき、環境である自然に、
酸素供給の減少、保水能力の減少など、
様々な影響を与えることも事実ですねー。
真実は、「人間生命の存在は、宇宙的存在と一体であり、
相互に影響し合う」ということですねー。
大聖人は、正報(人間の生命)と依報(取り巻く環境)について、
次のように書いていますねぇ。
「夫れ、十方は依報なり、衆生は正報なり。
依報は影のごとし、正報は体のごとし。
身なくば影なし、正報なくば依報なし。
また正報をば依報をもってこれをつくる」
ここで押さえなければならないのは、
「正報をば依報をもってこれをつくる」
と書かれているところですねぇ。
「人間生命は、環境である宇宙的存在によって、
発生させられた」と言っているのですねー。
考えれば、人間をつくり出した、精子と卵子も依報ですねー。
肉体のタンパクも、でんぷんも、脂質もすべて、
依報という環境によって形成されているわけですねー。
もともと人間というのは、環境の物質と一体なのですねー。
お互いに、分離することのできない関係性の中で、
相互に影響しながら存在しているわけです。
考えれば、地球から空気がなくなれば、
人間は存在することができませんねぇ。
それを忘れて、思い上がった人間は、
人間だけの都合の良いように、自然破壊を続けたわけですねー。
今まさに、その報い、すなわち、人間の存在と宇宙的存在は、
一体不二であるということを身に染みて、
知らされているところですねぇ。
創価学会の理論的一貫性について問います。
唱題と三証による証明は本当に成り立っているのか?
創価学会では、日蓮仏法に基づいて「南無妙法蓮華経」と唱える(唱題)ことによって現実を変革し、いわゆる「宿命転換」や「福運の蓄積」が可能であるとされています。
このような教義の正当性について、創価学会は「三証」(文証=経典の記述、理証=論理的整合性、現証=実践による結果)という基準によって証明されると説いています。これは、牧口常三郎が『創価教育学体系』の中で展開した「宗教の科学化」の方針に基づくものであり、彼自身も宗教の真理性を「実験により証明可能な現証」によって明らかにできるとしています(特に『創価教育法の科学的超宗教的実験証明』にて)。
しかし現在の創価学会においては、以下のような疑問が生じます。
• 唱題による「現証」とは、ほとんどが信者個人の主観的な体験談に依拠しており、客観的・再現的な意味での「実験証明」や「科学的検証」にはなっていないのではないか?
• 「理証」としての論理的整合性においても、唱題が物質的現実を変えるという因果構造は、現代科学的には説明困難であり、むしろ「信仰による自己解釈」によって内面の安心感に回収されてしまっていないか?
• 現実に変化が起きない場合、「信心不足」「宿業が深い」などといった形で、検証不可能な論理によって回避される傾向は、牧口氏が唱えた「現証」にもとづく宗教の普遍的証明とは矛盾するのではないか?
このように、唱題信仰は理念的には「心が現実を変える」という立場をとりつつも、科学的再現性や客観的検証性を欠いたまま、内面的実感や信仰の強度に回収されているように見受けられます。
牧口氏の当初の宗教観(教育観)では、あくまで「実生活での有効性」と「論理的一貫性」が重視されていたはずですが、現代の創価学会の唱題中心主義は、その理念を形骸化させているようにも感じます。
この矛盾に対して、現在の創価学会はどのように理論的整合性を保っていると説明しているのでしょうか?また、「三証」に基づいた客観的証明を今後も志向しているのでしょうか、それとも既に「信仰は科学を超える」という不可知論的な立場に移行しているのでしょうか?
(質問に感謝)
そうですねー。
まず、 「創価学会は、 唱題によって現実を変革し、いわゆる『宿命転換』や
『福運の蓄積』が可能であると主張している」と言っていますねぇ。
これに関しての質問ですから、言うまでもなく、唱題、宿命転換、
福運の蓄積、などと言う言葉の意味内容が正確でなければ、
質問の内容も的確性を欠くということになりますねぇ。
この辺から質問内容の本質を考えてみましょう。
この創価学会の指導は、「題目さえ唱えておれば、宿命転換し、
福運の蓄積がなされて、幸福な人生になる」
というようなものではありませんよ。
それだったら、 1日中、唱題しておれば、幸福になるということになりますねぇ。
そんなバカバカしいことがある訳がありません。
これであればまさに、「信者個人の主観的な体験談」になるでしょう。
日蓮大聖人(以降は大聖人と表記)は唱題について、次のように書かれています。
「末法に入って、今、日蓮が唱うるところの題目は、
前代に異なり、自行・化他に亘って南無妙法蓮華経なり」
これは、大聖人、創価学会が提唱する唱題というのは、
「自行・化他に亘る」すなわち、題目を唱えると同時に、
他者救済への仏道修行をするということですねー。
質問者さん(以降は質問者と表記)が書いている、
「 唱題による現証」という場合の唱題は、
「前代の自行の唱題」を想定してはいないでしょうか。
それであれば、質問者の言う通り、
「客観的・再現的な意味での『実験証明』や『科学的検証』にはなっていない」
ということになりますねぇ。
さらに、唱題については、大聖人は次のようにも書いています。
「信心の血脈なくんば、法華経を持つとも無益なり」
これは、大聖人の教えの通りの実践がなければ、唱題をしても、
無意味だと教えられていますねぇ。
国柱会であろうが、身延であろうが、
南無妙法蓮華経さえ唱えておれば、
現証があるなどというものではないのですねぇ。
質問者が「 唱題による現証は、科学的、
客観的実証はできないのではないか」という場合の、唱題は、
もともと、科学的実証ができない唱題を想定しているのではないでしょうか。
創価学会の唱題の効用が、科学的に実証しやすいのは、
医学的データですねー。
これは、創価学会のドクター部(医学関係者の集まり)が知悉しているところです。
ただ、これをあまり強調すると、
「創価学会は医学無視の、カルト的新興宗教」というイメージが強くなりますので、
控えているだけですねー。
宿命転換、福運の蓄積などについては別稿に譲ります。
日蓮仏法、創価学会の実証主義は牧口会長時代から、
現在まで、全く変わっていませんねぇ。
「自行・化他に亘る」唱題を修行するとき、
第三者から同じ人物を見て、信仰活動する前と、信仰活動した後とでは、
明らかに人間的変化を確認できるものです。
また、その長年の持続により、
生活環境も大きく希望に向かって変化していることがわかるものですねぇ。
創価学会における「宿業」概念の教義的一貫性について──仏教本来の因果論との整合性はあるのか?
創価学会では、「霊魂の実体的存続」や「輪廻転生」など、伝統的な仏教における三世因果論や霊的連続性を明示的に採用していない、あるいは象徴的に再解釈している一方で、「宿業(しゅくごう)」という概念を通じて、個人の苦悩や不幸を“過去(生命の傾向性)”の結果と位置づけています。
とくに注目すべきは、この「宿業」があいまいなかたちで語られながらも、信仰実践によって転換可能なものとして提示され、「唱題」や「信心活動」への動機づけとして機能している点です。これは、伝統仏教が説くような輪廻・業報(カルマ)に基づく明確な生命観とは異なり、個の存在の死後の連続性を否定しながらも、結果として「原因はあなたの生命の深層にある」とする構造になっています。
このような教義構造は、
• 宿業という観念を信者の内面に埋め込むことにより、現世的苦悩の責任を“生命の深層”に還元させ、
• その上で信仰実践によって転換できるという希望を提示する
という二段構造をとっており、宗教的動員の心理的装置として非常に機能的です。
しかしながら、このような「宿業」概念の運用は、
1. 仏教における因果論(業・報・輪廻・無我)との教義的一貫性を持ちうるのか、
2. それとも信仰を維持・拡張するための戦略的再解釈としてみるべきなのか、
という点で、教義学・宗教社会学の観点から検討に値するように思われます。
創価学会におけるこのような因果と救済の枠組みは、伝統的な仏法の教理体系と整合的と見なせるのか、それとも近代的心理に対応した教義的逸脱と捉えるべきなのか、専門的見地からのご意見を伺えれば幸いです。
創価学会などが広まれば本当に戦争や天変地異は無くなるのでしょうか?
創価学会では「南無妙法蓮華経」の唱題によって、個人の生命が変わり、社会全体が変わり、最終的には世界から戦争、天変地異、疫病、貧困などのあらゆる苦しみが無くなると説かれています。
日蓮自身も「妙法は一切の苦を抜く大良薬」と強く断言しており、それを根拠に「広宣流布」による人類救済を目指していたようです。
ですが、
例えば、天変地異や疫病といった現象は、地球の自然活動やウイルスなどによるものであり、どれだけ唱題しても、そうした自然現象を人間の祈りでコントロールできるとは思えません。
また、戦争や貧困の問題も、政治・経済・歴史・地政学などの複雑な要因が絡んでおり、「法華経を信じれば解決する」といった話で片付けられるものではないように思います。
現代では「唱題は心を変え、行動を変える力がある」といった実践的な解釈もされていますが、それはすでに日蓮本来の宗教観や宇宙観からはかけ離れた、都合の良い読み替えなのではないでしょうか?
本当に、日蓮仏法を信じて実践することで、戦争・自然災害・感染症・貧困などが根本的に無くなると、理性的に信じることができるのでしょうか?
(質問に感謝)
そうですねー。日蓮仏法・創価学会は、
「唱題の力用によって、
地球の地軸の傾きや自転や公転を変化させて、
人類の住みやすい環境を作る」
などというバカバカしいことを言っているのではありませんねぇ。
こんなカルト的な宗教では、世界192カ国に広まる訳がありません。
当然、「唱題の力用によって、台風の進路を変える」
などというような事もあるわけがありませんねぇ。
質問文を読むと、創価学会が信奉する日蓮仏法が
このようなものではないかと、勘違いしているようですが、
そんな心配は不要ですねー。
現代の天変地異というのは、人為的な要素が非常に多いですねー。
地球温暖化、自然破壊などが原因となって発生する天変地異は、
人間が生き方を変えれば、変化させることができるものですねぇ。
言うまでもなく、戦争、貧困、疫病などは人間の対応次第で、
どのようにでもなるものでしょう。
仏教の本質は、人間変革にあるのですねぇ。
釈尊が、あの有名な「四門出遊」で目の当たりにした、
人間の根本苦すなわち生老病死の克服は、
人間変革にあると悟ったのですねー。
釈尊が目指した人間のあり方を説いた経文が、
法華経「常不軽菩薩品」ですねー。
アッ、そうそう。時々 、寝ぼけた人が、
「法華経は釈尊が説いた経文ではなく、
内容的にも低レベルなものである」などと言ったりしていますねぇ。
本当に、無知丸出しですねー。
日蓮大聖人は不軽品について次のように書いていますねぇ。
「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。
不軽菩薩の人を敬いしは、いかなることぞ。
教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候いけるぞ」
要するに、「仏教の本質は人間としての最高のあり方を
教えたものだ」、ということですねー。
最高の人間に人間変革するための方法論として仏教がある、
と言うことです。
これが、「日蓮本来の宗教観や宇宙観」
なのですよ。創価学会がそれから「かけ離れている」
訳がないでしょう。質問者さんの日蓮仏法に対する理解が浅いのですよ。
人間として最高の生き方をする人々が
全世界の社会を動かす主流になれば、
戦争、貧困、感染症、さらに自然災害も減少させることができるでしょう。
特に自然災害については、生命を最も大切にするという生き方であれば、
社会全体が防災対策をするであろうし、当然ながら、
自然破壊というような自然災害を増幅させるような事はしないでしょう。
結果的に、災害を減少させることになりますねぇ。
質問者さんは「自然現象を人間の祈りでコントロールできるとは思えません」
と書いていますが、当然のことでしょう。
もしそんなことができたら、雨が降ることを望んでいる農家の人々と、
雨が降っては困る建築業の人々とが、
お互いに反対の事を祈ったとしたらどうなりますか。
日蓮仏教・創価学会はこんなバカバカしいことを言っているのではないのですよ。
創価学会が日蓮仏法に基づいて提起し、活動している理念は、
質問者さんも考えているように、そんな表層的、幼稚なものではありませんねぇ。
戦争についても考えてみましょう。
ユネスコ憲章には、次のようにありますねー。
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、
人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」
創価学会の平和運動は、このユネスコ憲章の精神です。
考えれば、地球上の動物の歴史の中で、
同類を最も殺したのは人類ですねぇ。
いわば、地球上の動物の中で、最も愚かなのは人類なのですよ。
しかも、人類はその殺戮を永遠に繰り返そうとしているのです。
現在の世界の戦争状況が収まったとしても、
またどこかで、同じような殺し合いが行われるという事は、
だれでも予想しているでしょう。
それは、「人の心の中に平和のとりでが築か」れないからです。
現在でも世界中の優れた人物と言われる人が集まったとしても、
人間が人間を殺すという行為を止めさせることができないのですねー。
これが実際の人類の歴史でしょう。
創価学会の平和闘争は、人類が同類を殺し合うという、
まさに、人類の宿命、宿業と言える根本的な愚かさを、
本質的に変革しようとするものなのですねー。
言うまでもなく、その基底部分をなすのが、
日蓮仏法による人間変革であるわけですねー。
「唱題だけで成仏できるのか? 創価学会の教義と知的理解の必要性を問います」
創価学会の根本教義とされる「唱題即成仏」について、次のような素朴かつ本質的な問いがあります。誠実なお答えがいただければと幸いです。
創価学会では、「南無妙法蓮華経」と唱えること(唱題)を通じて、誰もが仏の境涯に至ることができると説かれています。しかし、
1. 理解を伴わない「言葉の唱和」だけで、果たして仏教が目指す悟りや成仏に至ると言えるのか?
2. 日蓮大聖人が膨大な御書を遺したのは、言葉や思想の理解を通じて真理を掴むためではなかったのではないか?
単に「唱えればよい」のであれば、なぜここまで理論を尽くされたのでしょうか。
3. 世の知識人や哲学者の多くが指摘するように、「言葉には限界がある」「理解なき反復は形骸化を招く」というのは普遍的な感覚です。
たとえば老子は「道は言葉で表現した時点で道でなくなる」と言い、仏教の大乗思想においても「智慧」を重視します。
にもかかわらず、唱題という言葉の反復が悟りの直接手段になるというのは、どう整合的に説明されるのでしょうか?
アインシュタインはこう述べています
「すべての理論の究極の目標は、基本的かつ不可約な要素を、可能な限りシンプルで少なくすることである。ただし、経験に基づくデータのどれ一つとして表現できなくなってはならない。」
この言葉に照らせば、「唱題一つで悟れる」という理論は確かにシンプルで美しい。しかし、それが本当に人間の無明・苦悩・煩悩という深層の実相に対応できる力を持つのかどうかは、深く問われるべきです。
この問いは、創価学会の信仰を批判するためではなく、むしろそれを知的に・宗教的に誠実に捉えようとする姿勢から発しています。
どうか、単なる信仰告白ではなく、言葉と理解、実践と智慧の関係について、哲学的に耐えうる説明をいただければ幸いです。
創価学会員・日蓮仏法の実践者の方に質問です。
唱題が世界・人類に永遠に通用すると主張する根拠を、歴史・宗教比較の観点から論理的に説明してください。
日蓮仏法における「唱題」(南無妙法蓮華経を唱える修行法)は、
「万人に共通する生命の根源的リズムに響く普遍の実践」とされ、
創価学会をはじめ日蓮系教団では「世界広宣流布」を目指して布教活動が行われています。
しかし、次の点に強い疑問を感じます。
1. 成り立ちの限定性
唱題は、鎌倉時代の日本という一地域・一宗教者(日蓮)の個人的な宗教体験に端を発しており、
もともと特定文化圏(日本)向けに成立したものです。
また、「南無妙法蓮華経」という言語表現も日本語・サンスクリット語をベースとしたものに依存しています。
2. 普遍宗教との比較
キリスト教やイスラム教、さらには初期仏教(釈迦仏教)など、世界宗教は、
成立過程で複数の文化・民族にまたがり普遍性を獲得するために、
教義や実践を普遍的原理に昇華し、ローカルな表現を超える努力を重ねています。
(日蓮仏法にはこうした「超文化的努力」が見受けられません。)
3. 普遍性と特異性の問題
仮に「受け皿(業・宿命)が違うからすぐには受け入れられない」と説明する場合、
それは「特定の性質を持つ者にだけ通用する特殊な思想」に留まり、
普遍的真理とは呼べなくなるのではないでしょうか?
以上をふまえ、次の点について創価学会、あるいは日蓮仏法実践者の立場から、
• 単なる精神論ではなく
• 論理的・客観的に
ご説明いただきたいです。
(1) 鎌倉時代日本に成立した唱題が、なぜ文化・言語・宗教・時代を超えて「普遍の実践」と言えるのか?
(2) 釈迦仏教・キリスト教・イスラム教など世界宗教と比較して、唱題はどのように「普遍性」を担保しているのか?
(3) 「受け皿(宿命)による反応差異」という説明では、結局特殊性に留まるリスクがあると思いますが、どう説明するのか?
以上、真剣な問いかけですので、誠実な回答をお願いいたします。
ただいま回答の準備をしています。しばらくお待ちください。
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