創価学会の人は キリスト教の天国についてどう思うか

キリスト教の天国というものの実態は、
実は、自分を慰め、自己満足させるための妄想にすぎないのですねぇ。
天国は、客観的実態は全くありません。
あわれな個人の心の中にしか存在しないのですねぇ。
人生の苦しみから、逃れるための自己防衛的妄想ですねー。

キリスト教の本質は、神学では様々に表現しますが、
結論的には、「不幸と感じる自分を自分で慰めて、
幸福を感じようとするもの」ですねぇ。

例えば、キリスト教では、
「右の頬を殴られれば、愛をもって左の頬も出してあげなさい」
というような意味のことを言っていますねぇ

普通の人であれば、
「どつかれたら、どつきかえしてやらんかい」と言いますねぇ。
実に、消極的、諦め的な精神状態ですねー。

また、ふとした不注意から、腕にケガをして、血が流れているとします。
それをキリスト教信者は、
「ケガは、神の思しめしと思えば、痛くないどころか、感謝します」
というわけですねー。
自己満足して、自己をおさえ込む以外の何物でもないですねー。

こういう精神状態になるのは、
実在しない神を信じることに原因がありますねー。
言うまでもなく、神というのは、人間の作り出した概念ですねー。
その概念を神格化させたものに過ぎませんねぇ。

創作された神を認識できるのは、人間に他なりませんねぇ。
だから、その認識する人間が存在しなければ、
神も存在しないわけです。
少々実存主義的ですが。

キリスト教信者というのは、このような実在しない神を信じることによって、
自己満足し、自分を慰めて、幸福を感じようとしているものですねぇ。
客観的な証明など出来る訳が無いのですねぇ。
それで、第三者から見て、客観的に、
「あの人は不幸だ」と言える人であるにもかかわらず、
本人は「神の愛のもとに幸せです」というわけですねー。

こういう精神構造では、政治的な圧政があって、
民衆が苦しんでいたとしても、
キリスト教信者は幸福を感じているわけですよ。
政治的矛盾を変革しようという、
対社会への働きかけが出てこないのですねー。

これを、若きマルクスは、
「宗教は阿片である」と言っているわけですねー。
キリスト教は、社会の矛盾から来る苦しみを
社会変革のエネルギーにさせないということですねー。

実に、消極的な人生ではないですか。

また、どうしても二重人格になりますねぇ。
どうしてかというと、
どれほど、神を信じたとしても、
実在しないものを信じるという矛盾が、
必ず現実生活の中に出てくるということですねー。

右の頬を打たれて、次に左の頬を差し向け、それも打たれたとき、
神の教えの通り、「相手に愛を施した」と自己肯定し、
自己満足する、その一方で、
「何しやがるんだコノヤロー。どついたろか」と必ず思うものですねぇ。
これが人間の本性ですねー。

キリスト教というのは、人間の本性を自己満足させて抑え込むものですが、
必ず、人間は本性が出るものですねぇ。
人間の本性は、偏狭な宗教などによって、
完全に抑え込むことができるものではありませんねぇ。

だからどうしても、神を信じている自分と、人間としての本性の自分、
この2つが時と場合によって、出てくるわけですねー。
まさに、二重人格ですねー。
結局、明確に自分というものを把握することができずに、
現実的に確信的な人生を歩むことができないわけですねー。

実際の話、キリスト教の本格的な信者の人に、
この話をすると、「確かにその傾向はあります」
と肯定されますねぇ。

創価学会の人は、このキリスト教の本質をよく知っていますねぇ。
だから、「早く目を覚ましなさい」とアドバイスしているのですねー。


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