日顕住職は、日蓮正宗の責任者でしたが、
品位に欠けていましたねぇ。
宗派の長が下品だったので、
その下の僧侶たちも、下記のように腐敗堕落していましたねぇ。
これが、創価学会から嫌われた最大の理由ですよ。
1949年(昭和24年)の文化庁の宗教統計調査によると、日蓮正宗の全国の寺院数は、104箇寺にすぎません。信者数は、30万人です。
それに対して日蓮宗は、4474箇寺あります。信者数は、140万人です。
比較のために他の宗派のものを挙げてみると、浄土真宗は本願寺派だけで、10393箇寺あります。信者数は、660万人もいます。
このように比較して見ても、日蓮正宗という教団がいかに小規模なものであったかということが理解できるでしょう。
その後、40年が経過した1989年(平成元年)にはどのように推移したかを同じく宗教統計調査で見てみます。
日蓮正宗の寺院数は661箇寺、信者数は1780万人となっています。
その後、大石寺側が創価学会を『破門処分』にしました。
したがって、1989年(平成元年)の寺院、信者数は学会が大石寺の中の信徒団体として在籍していた最後の数字です。
40年間の間に、これほど発展した宗教団体は日蓮正宗以外にはありません。
さらにその後、『破門処分』の統計が反映された1997年(平成9年)の宗教統計調査を見てみる。寺院数は、661箇寺。信者数は、30万人となっています。
統計を見ても明らかなように、大石寺は学会のおかげで発展したのです。小規模で誰からも注目されるようなことがなかった日蓮正宗が、104箇寺から661箇寺になり、信者数は、30万人から1780万人に増えたのです。
この増加した部分は、学会が信徒団体に入ってからのものです。
破門処分にした後、信者数は元の30万人に返っています。寺院については、2016年(平成28年)になっても統計では656箇寺です。増えるどころか減っているのです。
要するに、日蓮正宗大石寺の自力では、信者も寺院も増加させる能力が全くなかったことは明白です。
学会は、1963年(昭和38年)には、「300万総登山」という目標を定めて、大石寺へ膨大な人数の参拝を行ないました。
「登山」というのは大石寺にお参りに行くことです。これから見ても、大石寺への参拝者の割合は、ほとんどが学会員だったことは言うまでもありません。日曜や平日に関係なく毎日、参拝はなされたので、仕事や経済的な苦労を乗り越えての参加でした。
学会員からは1回参拝するごとに参拝料が徴収されることになっていました。その料金も途中で値上げをしていました。膨大な学会員の参拝者によって、大石寺は莫大な収入を得ることができました。
学会から寄進してもらった建物でボロ儲けをしたのです。これによって僧侶の収入は大きく上がりました。
坊の住職は、いっさい営業活動をしなくても、学会員の宿泊客が次々と訪れて来てくれました。それで、いくらでも金もうけをすることができたのです。会員の参拝者は増加するばかりだったので、収入は年々増えていきました。
このころのことです。僧侶の乗った高級外車が大石寺周辺に目立ち始めました。さらには、真っ赤な色のスポーツカーまで乗り回している僧侶もいました。
さすがにこれだけは、学会員から苦情を言われたこともあり、寺側が禁止の通達を出したようで、その後、見かけることはなくなりました。
大石寺は日蓮正宗の総本山で、全国各地には末寺がありました。戦後はわずか100箇寺ほどであったのに、学会の発展につれて660箇寺を超えるに至りました。戦後建立されたほとんどの寺院は学会が寄進したものです。
それ以外に大石寺が建立したといっても、学会員の参拝でもうけた金で建造しているわけです。
金をボロもうけしたのは総本山の大石寺だけではありません。末寺も学会員から金を巻き上げました。
毎月行われる「お講」といわれる、住職の説法する会合には、多いところでは数百人が参加しましたが、入り口では寄付金を集めていました。
参加者が少なくなると、住職は地元の学会の幹部に文句を言ってきました。地元幹部は僧侶に気を使っていたので、気分を害してはいけないと学会の組織で参加者が多くなるように推進したのです。
また、正月や年間の記念日などの勤行会には多くの学会員が地元の寺に参集して、寄付をしました。
そして、春秋の彼岸法要や、盂蘭盆の勤行会には、5千円以上を出して卒塔婆(そとば)を供養しました。
卒塔婆というのは1メートルほどの細長い板に故人の名前を書いたもので、法要の時に本堂のご本尊の横の方に並べて供養するものです。多い時には何百本と立て掛けられて、置き場所を広げなければならないほどになりました。
時には、勤行の最中に、無理をして立て掛けた卒塔婆が大きな音を出して崩れたこともありました。卒塔婆は数多く立てれば立てるほど、良い事があるということで、普通の日の定時の勤行会の時にも多く供えられていました。
卒塔婆の板は、1度使用したものも、表面をカンナで削って名前を消して再び使用しました。寺によっては、板がペラペラに薄くなるほど、何度も削って使用したところもありました。
また、会員は様々な機会に、地元寺院のご本尊へのお備えとして、酒を多く寄贈しました。多いときは仏前がいっぱいになり、床にまで並べるほどにもなりました。それらの酒は、宝前から下ろすと、契約している酒店へ運び込まれ、安く売り払って現金化していました。
学会員が増加するにつれて、葬式も多くなりました。僧侶はもったいぶって戒名をつけていましたが、戒名字引みたいなものがあって、それを見て写すだけのことでした。
僧侶には、1度の葬式で20万円前後を渡しました。それ以外に「お車代」として3万円ほどを包むことも習わしでした。
車代をとりながら、僧侶の、寺からの送り迎えは、必ず喪主側が手配しなければいけませんでした。
車が軽自動車だったりすると不機嫌な表情になり、僧侶を迎えるのにもっと高級な車で来い、と言わんばかりの態度でした。
葬式の後の回忌法要にも僧侶を呼びました。1回の出席に5万円以上を渡しました。そして遺骨を寺に預けると毎年、管理料を払いました。
さまざまな機会に僧侶を中心に読経唱題の勤行を行いました。傲慢な態度やふてぶてしい言動で会員に嫌な思いや気を使わせる者が多くいました。さらに、勤行中に居眠りをする僧侶もいたのです。
学会員の必死の努力によって、新入会者は次々と増えていきました。入会の儀式は寺で僧侶が行いましたが、休日などには1回の儀式に何十人も入会者がいました。それを1日に何回も実施しなければならないくらい多かったのです。そして、1人の入会者につき5千円以上を寺に収めました。
僧侶は信者を増やすことを全くしませんでした。信者の中で僧侶から信仰を勧められた人など皆無でした。僧侶は、人々を日蓮仏教に帰依させて救済する、という本来の活動からは離れてしまって、ひたすら金もうけの行事をこなしていたのです。
日蓮正宗の末寺は、他の宗派の末寺とは天地雲泥の差で、布教活動を一切しないのに、信徒は増えるし、それに従って驚くほどの金が入ってきました。
有り余る金を何に使ったのか。どの寺にも共通していることは、学会員に分からないように使うことでした。
学会員は寺や僧侶を守り、発展させようと思う気持ちが非常に強くありました。寺や僧侶が経済的に厳しい様子であれば、生活費を削ってでも寺に寄付をする人が多くいました。
この学会員の心境をよく知っていた僧侶は、会員の目には、いかにも質素な生活をしているというように見せていました。その裏で、隠れて金を使いまくっていたのです。特に僧侶の家族は贅沢三昧でした。
「小人(しょうじん)閑居して不善をなす」
ということわざがあります。人間として小物な人物は、する事がなくてヒマになると悪い事をする、というくらいの意味です。日蓮正宗の僧侶には、
「小人金をもうけて不善をなす」
という言葉が最適です。
金満になった僧侶たちは、夜になるとかつらを被って、歓楽街に出かけました。中には、飲食店の従業員に婦人の学会員がいて、見つかった僧侶もいました。
後日、その婦人が僧侶に抗議すると、「たまには飲みに行かないと、ストレスが発散できない」と開き直りました。
僧侶たちは、見つかってから後も平気で飲みに行っていました。各末寺で、僧侶の自堕落な生活に対する批判は、学会員の中にくすぶっていましたが、学会本部の指導からの、寺院に対しては、尊敬と誠意を尽くすようにとの指導を守っていました。
ところが実態は、日蓮正宗の僧侶は根本的に大聖人の魂とは離れた存在でした。
言わば、宗祖に対する深い信仰心から僧侶をやっているのではなくて、仕事としてやっているのでした。それも、努力しなくとも大金が入ってくるわけですから、堕落しない方がおかしいともいえます。
この溝は埋まらないどころか、学会が発展するに従ってさらに深く広くなっていきました。
どうして、創価学会と大石寺は分離することになったのか。ここまで説明してくるとほぼ、予想がつくのではないでしようか。
原因の根本は、寺と信徒団体という関係が成立しなくなったことです。寺は当然ながら、寺が上で学会は下という関係を維持しようとします。
ところが実際の姿は、学会は海外にも広く拡大して1千万人を超える教団になったにもかかわらず、寺は戦前から続く旧態依然とした感覚だったのです。
創価学会はなぜ日蓮正宗から破門になったのか
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