日蓮仏法における、人間の境涯の問題ですねー。
まず、地涌の菩薩というのは、特定した人間をいうものでもなければ、
固定した性格を言うものでもありませんよ。
日蓮大聖人は次のように書いていますねぇ。
《上行・無辺行・浄行・安立行等は我らが己心の菩薩なり》
これは、学会員であろうがなかろうが、人間であればだれでも、
心の中に、地涌の菩薩の境涯が存在しているということですねー。
そしてそれを、自己に体現するためには、どのようにしたらよいのか、
ということについては、次のように教えられていますねぇ。
《迷う時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。
譬えば、闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるがごとし。
只今も、一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。
これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし》
自分自身が地涌の菩薩であるか、ないかの違いは、
日蓮仏法を悟っているか、迷っているかの違いだと言われていますよ。
これを鏡にたとえていますねぇ。
だれでも人間は、地涌の菩薩という鏡を持っていますが、
日蓮仏法に迷っておれば、鏡が曇って、
地涌の菩薩の働きは出てこないわけですねー。
悟れば、地涌の菩薩になるわけですねー。
だから、この2つの境涯は、いつでも入れ替わる可能性があるわけですねー。
そのことを次のように教えられていますよ。
《深く信心を発して、日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。
いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、
これをみがくとはいうなり》
地涌の菩薩であるかどうかは、
信心活動的によって決まると、教えているわけですねー。
これが、人間革命であり、宿命転換ですねー。
人間革命や宿命転換というのは、
自分以外の別人になることでは無いですねー。
自己のなかの鏡を磨くかどうかということですねー。
だから、質問者さんが言ってるような、
「地涌の菩薩を自己定義」「地涌の正統性条件」
「自己正統性を証明」「自己宣言で成立」
などというような事とは関係ないのですねぇ。
《ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、
これをみがくとはいうなり》
ということなのですねー。
まあ、もちろん、《唱えたてまつる》というのは、
《御義口伝に云わく、「勧」とは化他、「持」とは自行なり。
南無妙法蓮華経は、自行・化他に亘るなり》
とあるように、単なる題目を唱えるということではなく、
仏道修行という意味ですねぇ。
それで、質問者さんは、地涌の菩薩の境涯を顕現するための、
仏道修行について、創価学会の信仰活動の変遷を
考察しているわけですねー。
まあ、結論は簡単なことで、
信仰活動というのは、時代、国、社会、世代などによって、
変化するわけですよ。
逆に言えば、活動形態を状況に合わして変化させなければ、
日蓮仏法は世界に広まりませんねぇ。
このことを大聖人は次のように書いていますねぇ。
《無智・悪人の国土に充満の時は、摂受を前とす。
安楽行品のごとし。邪智・謗法の者の多き時は、折伏を前とす。
常不軽品のごとし》
摂受というのは、相手の考え方を受容した上で、
「日蓮仏法はそれよりも、もっと優れているから、信仰しなさい」
と言う方法ですねー。
相手からの反発は少なく、したがって、法難を受けることも、
あまりないわけですねー。
折伏というのは、相手の考えを破折して、
「あなたの考え方は間違っているので、
正しい日蓮仏法を信じなさい」
というものですねぇ。当然ながら、
様々な、法難を呼び寄せることになりますねぇ。
このことについて大聖人はさらに次のようにも書いていますねぇ。
《章安云わく「取捨宜しきを得て、一向にすべからず」等。
天台云わく「時に適うのみ」等云々》
天台大師は「時に適うのみ」と説いているわけですねー。
質問者さんの「難受苦行型弘教なのか、
それとも時代適応型倫理宗教なのか。」
と言う疑問の答えになりますねぇ。
創価学会は、日蓮仏法を世界に流布して、
人々の個人の幸福と、世界平和を
現実に進めている教団ですねー。
日蓮仏法というのは、それが可能な宗教哲学なのですねー。
他のほとんどの宗教は、人類救済などと言っても、
ドグマ的、カルト的な妄想に過ぎないものですねー。
これが、創価学会と他の宗教団体との根本的な違いですよ。
創価学会は地涌の菩薩を自己定義とし、常不軽菩薩の振る舞いを理想としています。しかし法華経における地涌の正統性条件は、「悪世において難を受け、それでも弘めること」でした。日蓮も迫害体験をもって自己正統性を証明しました。創価学会一世は、戦後の貧困や社会的苦難からの転換という現証を持っていました。では、安定環境で育った二世三世以降は、何によって地涌の正統性を実証するのでしょうか。
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