宗教の必要性

「人間にとって宗教は必要か?」

答えは簡単です。

「人間が人間らしくあるためには必要だ」

これが正解です。しかし意外に多くの人が、

「宗教など必要ない。目に見えなくて、実証できないものを信じる方がおかしい」

と思っています。

本来、宗教心とは何かといえば、

「目に見えないもの、実証できないものの存在を確信できる力」

ということができます。

これは人間にしかない能力で、他の動物は持ち合わせていない心の働きです。確かに、猿が満月に手を合わして、遠くを見つめるような目をして祈っていたとしたら、アニメの世界としか思えないでしょう。

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宗教を保つということは人間にしかできないことであり、逆の言い方をすれば、宗教を保ってない人間というのは、他の動物と同じであり、外形は人間であったとしても精神的には獣性であると言えなくもありません。

人間と他の動物との違いの最も明確な基準は、宗教が保てるかどうかです。

無神論者の多くの人は、

「目に見えないもの、実証できないもの」を信じることが不合理であり、異様だと思っています。

しかし、少し考えればそれは誤った認識だというのが分かります。

科学の歴史というのは、「見えないもの」を見えるようにし、「実証できないもの」を実証してきたました。

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例えば、まだ医学が発達していない時に風邪を引けば、発熱したり咳が出るのは、

悪行を為した罰を神から与えられたと思った時代もあったでしょう。

しかし、人間の「目に見えないものを見」ようとする努力よって、顕微鏡を発明し、風邪の原因であるウイルスなど、肉眼では見えないものを発見しました。

目に見えなかったものの存在を信じたからこそ見える形にすることができたのです。

ノーベル物理学賞を取った人のインタビューの中でも、新たな素粒子の発見はまず、存在するに違いないという直感から出発したと語っています。

それから、実験を繰り返して存在を実証することができました。

目に見えないものを信じることによって大発見へとつながったわけです。

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「目に見えなくて実証できないもの」というのは、その時における判断であって、科学が発達することによって、実証されてゆくものが多くあります。

だから、「目に見えなくて、実証できないものは信じられない」というのは人間の知恵や知識など頭脳の働きを否定していることになります。

そうすると、「宗教など信じられない」という人は、極めて文化的レベルの低い人であるといえるでしょう。 

宗教が人間の善性として定着している地域や国においては、

「あなたの宗教は何ですか」と問われた時、

「わたしは無宗教です」といえば、危険人物のように思われることもありました。

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それもそのはずで、ほとんどの宗教の教義の中には、死後のことが記されています。生きている間の善行によって幸福な死後が約束される、というものです。

だから信仰者は、生きている間に罪になるようなことはしないという倫理観ができているのです。

それに対して無宗教というのは、生きている間にどんなに悪逆非道な行いをしようとも、死ねばそれで終わりだ、という考えの持ち主と思われるのです。

一人の人間としての生き方に大きな影響を与えているのが宗教です。

国家として宗教を禁止すれば、その国がどのような状況になるのかは、歴史の審判が下されています。

「宗教はアヘン」だと禁止して、理想的な国家を作ろうとした共産主義は結局、失敗に終わり、純粋な共産主義国はなくなっていきました。

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その多くは、思想上の理想は目指したものの、現実には官僚が強大な権力を持ち、従って腐敗堕落が蔓延することになりました。

苦しい生活を強いられるのは、共産主義によって本来、最も幸福な生活をすることができるはずであった民衆でした。共産主義は原理的な理想主義であって、実現不可能だったのです。

いまなお共産主義として残っている中国も、世界自由主義の流れの中で、純粋な共産主義を修正しながら、国家としての体面を保っています。

これからはさらに体制の変化を大幅に取り入れなければ、国内外の厳しい批判にさらされることになるでしょう。

香港の長期化したデモは、その象徴のようなものです。

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結論的に言えば、宗教は基本的人権の根底をなすものだといえます。

宗教を否定したり、宗教不要論を唱える人や国家は、人権の尊重をすることができないことを意味しています。

人間としての最高の特質である信仰という行為は、いかなる集団の中であろうが、いかなる国家体制だろうが、絶対的に守られなければならない権利です。

日本の社会全体として考えると、宗教の必要性に反対を唱える人はそれほど多くはありません。

ところが不思議なことに、創価学会に対してだけは、根強い反対論、批判論が出てきます。

それらの多くの学会批判に共通するものとして、部分観であるにもかかわらず、それを意図的に全体観にしてしまい、あたかも一部の不具合な現象を全体そのものであるかのように言うことです。

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よくあるのが、近隣や職場での学会員の姿を通しての批判です。

例えば職場で、学会員が不倫問題を起こしたとします。

「学会員は自分の責任を不倫の相手に転嫁して、職場で悪口を言いふらし結局、相手に会社を辞めさせた。それなのに本人は大きな顔をして勤めている。所詮(しょせん)、学会員というのは相手を悪者にする、恥知らずな者だ」

実際に職場でこういうことが起こったとするならば、会員に対する周囲の人たちの目が厳しくなるのは当然でしょう。しかし、それを《すべての会員》にまで普遍化することは誤りです。

また、近所に住んでいる会員が盗難事件を起こしたとします。

「学会員は口先では、平和だとかは幸福だとか、良い事を言っているが、隠れて泥棒をするような連中だ。学会はそんな人間の集まりだ」

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こんな批判をする人も出てきます。確かに、身近な学会員が犯罪にかかわったりするとイメージは非常に悪くなるでしょう。しかしそれもまた、創価学会全体に当てはめるのは間違いです。

 

某政党が気にいらない相手を攻撃するときに、この様な方法をよく使います。

例えば、政治上、気にいらない相手が、あるビルに対して安全宣言を出したとします。某政党はそれに反論して、それは嘘で実際はいかに危険であるかということを証明しようとするチラシを作ります。

そこに、コンクリートがボロボロになり、さびた鉄筋が見える写真を掲載します。そして解説として、これほど劣化した建物は安全どころか、崩壊寸前だと断定して相手を攻撃するのです。

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事実は、写真に撮られた部分は建物のほんのわずかの部分で、たまたま何かとぶつかりコンクリートが欠けていたところのものでした。ビル全体の安全性には全く問題はありません。

チラシ発行元の政党に確認すると、

「虚偽の写真ではない。該当ビルの実際の写真であることは事実だ。都合の悪いところを隠して安全だと言っているから、真実を暴露したのだ」

と声高に答えます。

確かに事実は事実ですが、ほんの一部の事実であって、全体の事実ではありません。政治関係では、こういう類の攻撃がよくあります。

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一般的にも、一部の問題を全体の責任としてとらえる傾向性は、少なからずあります。

その度合いは、対象によって微妙に違うものです。

小規模な会社の従業員が事件を起こしたとしても、マスコミは取り上げないか、取り上げたとしても従業員個人の責任とすることが多く、雇っている会社への批判はほとんどありません。

それに対して、大企業や公務員などの場合は雇っている側の体質を問題にすることもしばしばあります。

さらに、警察、教員、議員などという職種の場合には、属している団体への目はより厳しいものになります。もちろん、起こした事件の内容によって、相違が出るのは当然ですが、概して、社会的に影響力のある立場の人に対しては、厳しくなります。

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創価学会に対する非難は特にこの傾向が強くなります。

良い意味でとらえれば、創価学会という団体が社会的に信頼され、優れたものであり、期待されているからこそ、一人の学会員の不祥事が組織全体の問題として取り上げられるともいえます。

しかし大抵は、悪意を以て、学会を中傷批判するために利用する場合が多いのです。

ところでここには、一つの盲点があります。

学会全体を批判するために、一人の学会員の言動を材料にするわけですが、その一人の学会員は果たして本当に学会員なのかということです。

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「創価学会員の実質的な定義」

これを誰もが納得できるように説明できる人がいるでしょうか。

例えば、学会員の両親の下に生まれて、赤ちゃんの時に入会し、名前を会員カードに記入したとします。

その後全く学会とは関係なく育ちやがて、結婚して独立した所帯を持ちました。妻も学会員ではありません。

果たしてこの人は学会員というのでしょうか。

また、成人してから入会したが、その後仕事の関係で、全国をあちらこちらと転勤になって住まいを変えたとします。そうしているうちに、学会とも全くつながりが無くなって何十年にもなります。この人は学会員といえるでしょうか。

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あるいは、学会に入会し、初めは地域の学会員と一緒に活動に励んだとします。しかし、しばらくしてから嫌になり、活動もやめました。地域の責任者には、信仰活動する気がないので一切、自宅に来ないように伝えました。

ただ、ご本尊を安置している仏壇は、先祖の供養と思って自宅に残しています。もちろん、朝晩のお勤めである勤行などは一切しません。この人は学会員なのでしょうか。

こうして見ていくと、会員といわれる人の中にも、千差万別な状況が実際には存在していることが分かります。

だから、「こんな非常識な学会員がいる」と言って批判をしている人もたくさんいますが、果たしてその人が学会員といえるのかどうかの検証は当然、必要でしょう。

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一部の学会員らしき人の悪行を取り上げて、それが全創価学会員の姿であるかのごとく批判するのは、某政党の攻撃チラシと同じと言えます。

さて再び、話を「宗教の必要性」にもどします。

私たちの生活の中で、無意識のうちにでも、信じるということが行動の基盤になっていることが多くあります。

例えば、電車や飛行機など、乗り物に乗る時、ほとんどの場合、その乗り物が事故を起こさないことを信じて乗っています。

スーパーで食料の買い物する時も、毒が入ってないかどうか疑ってなどいません。

いちいち、疑っていると、それこそ生活に支障をきたします。

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安全を信じているからこそ、乗ったり買ったりという行動が出てくるわけです。

信じることが、確信のある行動の裏付けになっています。

さらに、スポーツなどの練習においても、自分の限界を超えられると信じることによって、さらにレベルの高い練習をすることができ、結果的に、自己の記録を伸ばすことができます。

その他の面においても、信じることによって、大きく自己の殻を破って成長していくということが多くあります。

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日蓮仏教も原理的には同じです。

何を信じるのかというと、最高の自分を信じるということです。

最高の自分とは、人間としての生命の中に存在している、最も強い生命力のことです。

これを仏と言い、南無妙法蓮華経と言うのです。

よく創価学会員が、信仰の体験として語っている、病気を克服したとか、仕事の悩みを解決したとか、良い人間関係を築けた、とか言うのは、自分が最も強い生命力を出すことによって、それらの課題を乗り越える力を身につけたということです。

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日蓮仏教の最も優れたところは、様々な悩みを解決する中でも、自分ではどうすることもできなかった宿命と言われるものまでも、克服していける力を出すことができることです。

これまで諦めていた自己変革というものを現実のものとすることができるのです。

これは一部の人の体験ではなくして、ほとんどの学会員が経験しているものなのです。

自己の中の最高の力を自分が信じ、それを実際の生活の場で発揮できるように仏道修行することが、日蓮仏教の、創価学会の根本の教えです。


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