創価学会は、観世音菩薩も阿弥陀如来も蔑視しているのはどうしてか

基本的なことですが、観世音菩薩というのは、
歴史的に実在した人物ではなくて、
釈尊が頭の中で考察した概念だと言うことです。
法華経第二十五は、観世音菩薩の概念規定をしている品です。

第二十五の最後のところに、
「衆中の八万四千の衆生」とあります。
聴衆が、 8万4,000人いたということです。
当時、拡声器もありません。LINEやZOOMもありません。
こんな大人数に、釈尊の肉声が聞こえる訳がないのです。

要するに、法華経というのは、すべてが、
釈尊の心象風景だということです。
例えば、釈尊の10大弟子の1人である舎利弗が質問した、と言っても、
それは、釈尊の己心の舎利弗であり、自問自答です。
そういう問答形式によって、概念規定を明確にしているのです。

阿弥陀如来も同じです。
釈尊の頭の中で考え出された概念です。
これが理解できないと、仏教を誤解するし、
自己満足の我見による解釈をしてしまいます。

そして、方便品第二には、
「如我等無異」
(一切の衆生を自分と同じ仏にして、異なることがないようにしたい)
とあります。
すなわち、釈尊と衆生とは同じ可能性を持っていると言うことです。
これも、明確に理解していないと、仏教が何かが、全く分からないでしょう。

結論的に言えば、観世音菩薩も阿弥陀如来も、
すべての人間が、概念として心の中に蘇らせることが可能だと言うことです。
とにかく、仏教の本質をしっかりと把握する必要があります。


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