創価学会と公明党は、実質的には、政教一致だろう

現在、政教一致という言葉を聞いて何を思い起こすかといえば、
「創価学会と公明党は政教一致であり、憲法違反である」
ということではないでしょうか。

本来、政教一致という言葉には、世界のさまざまな国での、さまざまな宗教と政治の関わりの歴史が含まれています。日本においても宗教と国家・政治の関連は国体ができて以来の長い歴史を持っています。

近年でも、忠魂碑、地鎮際、神社といったような宗教関連施設への公的機関の関わりについて、様々な訴訟が起こされ、判決も出ています。
これら、多くの関連事項を持った言葉なのですが、なぜか中心的には、学会と公明党への批判用語として使われます。
どうしてそのようになったのか、言葉の本来の意味も押さえながら考えてみたい。

政教一致の原型は祭政一致です。祭政一致というのは字の通り、宗教的行事を行う者がそのまま政治の中心者となって世の中を治めていくというものです。
人間が集団になって暮らすようになってから、自然的に発生してきた指導者とも言えます。
人間が集団になれば、誰か指導者を立てなければ、集団として秩序立てることができないし、まとまって行動することもできません。
指導者は人間が社会を形作る上では必須のものです。
この時、指導者の資格としてもっとも単純で明快だったのは、絶対者の意志が理解できる者ということでした。それは絶対者に最も近い人であるか、絶対者そのものであるかを意味しています。

指導者というのは、他の者には無いものを持っている必要があります。特定の人にだけ絶対者の意志が理解できるとすれば、その人が指導者になる資格を持っていると言えます。
こうして選ばれた指導者は、絶対者の意志を知るために、さまざまな宗教行事を行いました。それによって、この指導者が行うことはすべて、絶対者の意志だということを周知し、集団を指導し運営していったのです。

これが祭政一致です。人類の歴史上、社会生活の始まりの段階では、大抵この過程を通っています。

公明党と創価学会対する政教一致批判は、実は法律的な問題ではなく、極めて政治的な問題なのです。
その批判の表れ方を見ると面白いことがわかります。前項の説明と一部、重複しますが再度、確認しておきます。

1993年(平成5年)、細川連立政権が誕生しました。
この時、公明党は民社党などと連立を組んで与党となり、自民党は野党に転落しました。
翌年、自民党の国会議員が裏で中心となり、「信教と精神性の尊厳と自由を確立する各界懇話会」なるものを立ち上げました。これには反公明、反学会の多くの個人や団体が集まりました。
中には世間的に良識のあると思われている著名人も多くいました。

この集団は、自民党の国会議員の庇護と応援を受けて、政教一致で激しく公明党と学会を攻撃してきました。
逆に、以前、連立を組んでいなかった時には、政教一致をネタに池田会長の国会への証人喚問などを要求して徹底して学会を攻撃していた民社党は、連立を組んでからは、公明党にも学会にも全く批判をしなくなるどころか、手を組んで細川政権を支えのです。

1999年(平成11年)、自自公連立政権が誕生しました。自民党が自社さ連立政権に続いて政権を維持し、公明党も連立を組んで与党になりました。
現在の自公連立政権の出発になるものでした。
この政権が発足すると同時に、自民党の学会への政教一致の攻撃は全くなくなりとました。
当然、「信教と精神性の尊厳と自由を確立する各界懇話会」は自然消滅のように解散しました。

これでよく分かるでしょう。政教一致という言葉で学会や公明党を批判しているのは、政教一致という言葉の真実の意味とは関係なく、政争の具として利用しているだけなのです。
批判者にとっては、公明党と創価学会が政教一致であろうがなかろうが実は、どうでもよいことなのです。攻撃する材料として効果的で使いやすいから使っているだけなのです。

だから、味方になれば政教一致などどこ吹く風と、公明党と仲良くやり、逆に敵対の立場になれば、絶叫するように政教一致批判をするのです。

日本の政治家のレベルというのはこの程度のものです。政治生命をかけて信念や政治理念などを、どのような立場や状況になろうが、貫き通すというような尊敬できる生き方をする政治家はほとんどいません。
高尚な精神性など全く持たず、保身と打算、権力欲の満足を求める自己中心的な生き方をする、信用できない人たちです。

公明党は政教一致批判について誠実に対応しています。
それは、国会で批判が出てくるたびに、何度も内閣法制局の見解を求めていることです。
内閣法制局は、法案や法制についての審査、調査を行う機関であり、「法の番人」ともいわれているところです。
これまでの答弁ではすべて、学会と公明党の関係は違法なものではない、という結論になっています。

それにもかかわらずいまだに、政教一致批判をしているのは、
「嘘も百回言えば本当になる」という戦略にほかなりません。
多くの人が、近代化した現在の日本の政界において、こんなばかばかしい事がまかり通るはずはない、と思うでしょうが、実際には各政党がよく使う方法なのです。これが日本の政治のレベルです。

ところで、公明党と創価学会に対する政教一致批判は一定の成果を上げているといえます。それは、
「創価学会と公明党は、なんだかんだと言い訳はしているが結局、政教一致であるに違いない」
という世論をある程度、固めたからです。

さらに、政教一致批判を真実らしく思わせるために行う常套手段があります。よく野党の某政党などがやることです。それは、憲法の専門家といわれる大学の教授や法学博士の資格を持った学者などを登場させて、
「創価学会と公明党は重大な憲法違反にあたる」
などと言わせることです。法律に詳しくない一般の人が見れば、
「あのような、世の中に認められている偉い法律専門の方々が、誤ったことを言うわけはない。真実は政教一致なのにごまかしているのだ」
と思い込んだとしても仕方のないことです。

このように、世間から高い信頼を得ている、様々な分野の専門家に学会批判をさせることは、非常に効果を上げます。学会の言っていることは、その分野の専門家からみれば子供だましのようなものだ、と確信させるのです。

ところが、この専門家というのがくせ者なのです。学会と公明党の関係を憲法違反だと言った学者の論理をよく調べてみると、原理主義者の様相を呈していることがわかります。
だから、その人たちの論理からいけば、自衛隊は憲法違反なので即時廃止しなければなりません。国政選挙における一票の格差が違憲状態ならば、その下で行われた選挙自体も無効ということになります。

例えて言えば、ほとんどの薬剤には副作用がありますが、
「副作用のある薬剤の使用を許可することは、製薬会社の利潤を何よりも優先するものであり、生命軽視である。直ちに使用禁止にすべきだ」
というのに等しいのです。
薬剤を使用禁止にすれば、当然ながら副作用は出ないでしょうが、救うことのできた無数の人々の命が失われることになります。

もしも、これらの学者の主張通りに法解釈をして実行したならば、日本の国は一瞬にして崩壊するでしょう。国民は混乱した社会の中で、塗炭の苦しみを受けるに違いありません。
そんな時、これらの学者には責任を取る能力が全くないのだから、無責任きわまりないと言わざるを得ません。

公明党や創価学会に対する政教一致批判というのは、利害関係を根拠にする批判であって、社会正義に基づくものとは全く逆行するものです。
客観的、良識的に判断すれば、政治と宗教のあるべき姿を実現しているのが公明党と創価学会の関係だというのは、誰が見ても分ることなのです。


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