あのねぇ、鎌倉時代には、写真機やコピー機はないんだよねー。
日本の文化史の中で、コピーらしきものがでてきたのは、
近世になってからだよ。
いわゆる、版画だねぇ。
版木に文学作品を掘って、それを刷(す)って、
同じものを何枚も制作したわけだ。
これによって、近世文学が町人文学と言われるほど、
大衆に広まったわけだねぇ。
そのおかげで近松門左衛門や
上田秋成なんて言う大衆文学者が活躍したねぇ。
これをニセモノの文学というかい?
本尊も同じだよ。鎌倉時代に、布教して本尊を広めようと思えば、
誰かが、本尊を書写しなければならないよねー。
宗祖直筆の本尊は、当然ながら、わずかな数しかないよね。
それをホンモノといって、書写したものをニセモノと言えるかい?
そんなこと言っていたら、多くの人達への布教ができないよねー。
平安時代の名作、源氏物語の原本はすでに紛失してないんだよね。
だから現在の、源氏物語と言って出版している内容は全部、
誰かが書写したものなんだよねぇ。
それらをニセモノというかい?
原本が存在しないにもかかわらず、ニセモノなんて言わないよねー。
こんなこと誰でもわかることだよ。
要するに、「御形木ご本尊はニセモノかどうか」
なんて言う疑問自体が、無意味なことであり、無価値な事なんだねぇ。
歴史的なことに全く無知なところから来る疑問だねぇ。
わかるかなぁ?
創価学会の御形木ご本尊はニセものだろう
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