本尊とは一体何か

ここに書く事は、仏教の真実の本質論ですねー。
だから、これに相反することを言うような宗教は、
釈尊の教えに違背するものですねぇ。

気をつけておかなければいけないのは、
仏教と言いながら、釈尊の教えを誤って解釈している宗派が、
非常に多いいということですねー。

その最たるものは、
「仏様はありがたいもので、私たちがお願いをすると、
仏の世界から必ず、この世の我々に、
救いの手を差し伸べていただけます」
などというような教団ですねー。

これは、釈尊の説いた仏とはまったく無関係なもので、
仏教とは関係のない妄想を、
あたかも仏教のごとく説明しているわけです。
あきれるしかありません。

釈尊は、 5時8経と言われる、生涯に説かれた経文の中で、
非常に多くの仏や如来を登場させていますねぇ。
それこそ、数え切れないほどの数になりますよ。
例えば、阿弥陀仏、大日如来、薬師仏、毘盧舎那仏等々 、
それ以外に、聞いたこともないような仏の名前が無数に出てきますねぇ。

そして、釈尊が説法するときには、それらの仏や如来以外にも、
多くの菩薩等が、地上の見渡す限りに埋め尽くすほど集まりますねぇ。
それらの無数に近い弟子違が、釈尊の説法に聞き入るわけですよ。
このような情景が、経文には至るところに説かれていますねぇ。

これはおかしいですねー。
言うまでもなく、当時、拡声器などありませんからねぇ。
ほとんどの人に、釈尊の声など聞こえるわけないですよねー。
ここですよ、仏教の本質を理解できるかどうかのポイントは。

結論を言いますと、釈尊が説いた仏というのは、
具体的に存在したものではないということですねー。
すべて、釈尊の己心の仏なのです。
すなわち、説法の情景などは、
すべて釈尊の心象風景なのですねー。

これが理解できない人は、
仏教とは関係ないことを仏教だと勝手に妄想してるだけの話ですねー。
だから、「ありがたい仏様が願いを叶えてくれる」
などというのは無知の最たるものですねぇ。
こんな妄想の仏を本尊にしても、全く無意味なことですねー。

実は、こういう妄想の中から、
「霊魂が宿る」などと言う考えが出てきたわけですねー。
もともと、霊魂というのは、日本独自の概念です。
その1つとして、
古事記の神話には言霊(ことだま)信仰が色濃く出ていますねぇ。
「特別な言葉には、霊魂が宿り、その言葉を発することによって、
霊魂を呼び寄せることができる」というものですねぇ。

この霊魂の思想と、当時で言えば外来思想である、
仏教とが結びついのです。
元々仏教に、霊魂などという概念は全くありません。

やがて言霊から、位牌の文字や本尊の文字、
本尊の画像や仏像にも霊魂が宿る、
というような思想が出てきたわけですねー。
今も、年末になると寺での大掃除の時、
「仏像の魂を抜いてから清掃する」
ということで、読経してから掃除をする寺が多くありますねー。
すべて、本来の仏教とは無関係な妄想に他なりません。

釈尊は本尊について、法華経譬喩品で「信をもって入ることを得たり」
と教えていますねぇ。
また、華厳経には「信はこれ道のもと、功徳の母なり」
とも教えられていますよ。

結論的に言えば、「本尊自体に霊魂のような、
実体を超えた、何か目に見えないような力があるものではない。
本尊の力用というのは、信ずる人の己心の中に生ずるものである」
ということですねー。
日蓮大聖人も次のように教えられていますねぇ。
「この御本尊もただ信心の二字におさまれり」
釈尊と全く同じことを教えられていますねぇ。

さらに日蓮大聖人は次のようにも教えられていますよ。
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉って、
我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて、
顕れ給うところを仏とは云うなり」

この教えと釈尊の経文の内容とを合わせて考えてみましょう。
釈尊の最高の境涯である仏の世界は、
実は彼自身の心象風景だったという事は述べましたねぇ。
さらに釈尊は、法華経方便品に
「如我等無異(にょがとうむい)」
(我が如く等しくして異なること無からしめん)
と教えられていますねぇ。

これは、釈尊が長遠な過去に立てた誓願は、
仏である自身と等しい境地に衆生を導くことにあるということですねー。

ここが仏教の本質を本当に理解しているかどうかの最大のポイントですよ。
釈尊は、「私は普通の人と同じだ」と言っているのです。
だから、「私の中の仏の心象風景は、誰の心の中にもある」
と教えられているのですねー。

それで、日蓮大聖人は、
「誰の心の中にもある最高の仏の心象風景を本尊とすれば、
それに南無妙法蓮華経と唱えるとき、
自分の心の中にも最高の仏の境涯が出てくる」
と教えられているわけですねー。

簡単に言えば、「本尊とは、すべての人間の心の中にある仏の境涯を
呼び出し、実現するためのものである」ということですねー。
そしてそれは、本尊自体に霊魂などというような、
異様な力があるのではなく、
真実の仏教の教えを修行することによって、
何か絶対者のような者からではなく、
自分自らが得ることができるものであるということですねー。

これが真実の仏教における本尊ですよ。
質問者さんは、霊魂という妄想に取りつかれているのですねー。
この霊魂というのは曲者(くせもの)なのですよ。
要するに、死後の世界というのと同じですねぇ。
霊魂をどのように説明したとしても、誰も否定できないのです。
なぜなら、誰も客観的事実として、見たことがないからです。
ドグマの迷路に入ってしまいやすいのですねー。

まず、霊魂という本来の仏教とは無関係な妄想を
断ち切ることですね。
それが真実の仏教を見る一歩になるでしょう。
そうしなければ、創価学会の本尊がどのようなものか、
理解できないでしょうねぇ。


投稿日

投稿者: