そうですねー。
日蓮仏教が世界仏教として、
全世界に、全民衆に広まる要因が、そこにありますねー。
人間とは、ある意味で幼稚なものですねー。
日蓮仏教について、本質論的な仏教哲学を語ると、
「そんな難しいことが理解できなければ信仰できないような宗教は、
一般には理解されないから、民衆に広まらない」
と言われますねぇ。
逆に、「題目さえ唱えればよい」などと言うと、
「そんな薄っぺらな宗教に効力があるとは思えない」
というわけですねー。
実は、日蓮仏教は、この2者の、両方の要求を満たしているのですよ。
例えて言えば、「アインシュタインは、老後、特殊相対性理論を
小学生の孫に、わかりやすく教えるのを楽しみにしていた」
というエピソードがありますが、
その教えの内容のようなものなのですよ。
特殊相対性理論というのは、物質が光速に近づくと、
質量は無限に大きくなり、体積は無限に小さくなるという理論ですねぇ。
常識では考えられないのですが、真実です。
これを小学生の子が喜ぶように教えたわけですねー。
確かに日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経の題目を唱えれば仏になれる」
と教えられています。これであれば、全世界の、老若男女、だれでも、
理解しやすく、しかも仏道修行として実践できますねー。
しかしこれだけでは、「そんな単純なことで仏になれるわけがない。
無学なものなら騙されるかもしれないが、学識のあるものはだまされない」
という人が必ず出てきますねぇ。
それで日蓮大聖人は、「どうして南無妙法蓮華経と唱えることが、
仏教の真髄に到達するのか」
ということを、「事の一念三千論」として理論的、
論理的に確立しているのですよ。
それが、「御義口伝」という教えの中に書かれていますねぇ。
この書は、大学の仏教学科で学んだ程度の知識では、
とても理解できるような浅薄なものではありませんよ。
この両面が日蓮仏教にはあるからこそ、
全世界の、様々な人々が皆、納得して信仰できるのですねー。
また、どうして南無妙法蓮華経と唱えるだけで、
成仏に至るのか、ということについて、
詳しく述べていますねぇ。
少々 、頭の良さそうな人は、「そんなバカなことがあるものか」
と小賢しいことを言いますねぇ。
仏教的な知識と人間にとって言葉とは何かが
理解できていないだけの話ですねー。
少しだけ、南無妙法蓮華経を唱えることに、
どのような意味があるのかということを説明しておきましょう。
古事記、日本書紀の中に、祝詞(のりと)というのがあります。
これは、言霊(ことだま)信仰に裏づけられていますねぇ。
言葉には、魂が宿ると考えているわけです。
だから、特別な言葉によって、魂を呼び出すこともできて、
それによって人間も影響を受けることができると考えているのですねー。
これによって、現在でも、正月に「おめでとうございます」
と何度も何度も言葉を出していると、
なんとなく、心がめでたくなるという事にも通じていますねぇ。
また、「結婚式に、別れる、というよう縁起の悪い言葉を使うな」
というところにも言霊信仰の名残があるわけですねぇ。
そして、物事の実在の認識については、
昔から「認識するから実在する」という事は言われていることですねー。
「我思う故に我あり」というのも実存哲学の基本ですねー。
それから、何を手段として認識するのかというと、
「それは言葉である」というのが普通ですねー。
私たちは、言葉があるから物事の存在を認識しているというわけです。
例えば、日本では、氷の1つの状態に、つららという言葉がありますねー。
だから、日本語を使う人は、つらら、といえば、
それらの実在を認識できるわけです。
ところが英語には、こんな氷の変化相を表した、
つらら、という言葉はありません。
そうすると、英語圏の人には、つららを認識できないわけですね。
それは、英語圏の人には、つららが実在しないということになるわけです。
こういう事は、昔から言われていることですが、
少々幼稚な面がありますねー。
ところで、「南無妙法蓮華経」という題目があるからこそ、
私たちは「南無妙法蓮華経」の認識もできるし、
それを実在にすることもできると思います。
「南無妙法蓮華経」を知らない人には、仏界の認識もできなければ、
実在もしないのですねぇ。
そして、南無妙法蓮華経と音声で唱えることによって、
その音声の働き、言葉の力によって、
生命の中に南無妙法蓮華経を
実在させることができるのではないでしょうかねぇ。
それは丁度、おめでとうございます、を何度も声に出すことによって、
おめでたい気持ちになるように、
お題目を唱えれば唱えるほど、
仏界の実在が力を増すのではないでしょうか。
南無妙法蓮華経を唱えただけで幸せになるなんて、単純すぎて迷信のようだ
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