創価学会は、キリスト教に対して「現実逃避、二重人格」などと言って批判しているが、その根拠あるのか

かの俊英、 25歳の若きマルクスは次のように書いてますよ。

「宗教は、なやめるもののため息であり、
心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。
それは民衆のアヘンである」(ヘーゲル法哲学批判)

この宗教とはキリスト教のことですねー。
それを、「ため息」や「アヘン」と言っていますねぇ。
キリスト教信者は、膨大な神学を元に、
様々なことを教えとして受け入れますが、
結局のところ、自己満足の言い訳であり、
客観的な幸福の実証は無いのが現実ですねー。

だから、「自己満足としての救いはあるが、
第三者から見て確認できる客観的な救いはない」
ということですねー。

それで、「消極的二重人格」と言う場合の「消極的」
と言うのは、「自己満足としての救い」を求めることを
言っているわけですねー。

「キリストが十字架で苦しんで死なれたのは、
私たちが罪を赦されるためであった。
だから、私たちは、どんな苦しみにも黙って耐えるのが、
救いだ」
と自己満足をして、救われると錯覚することですねぇ。

これはまさに、マルクスが指摘したように、
社会悪によってどのような苦しい生活をしたとしても、
社会変革のエネルギーにはならずに、耐えて諦めてしまうのですねぇ。
こんな人間が有権者に多くいると、権力者は安泰ですねー。
このことも、「消極的」と言っているのですよ。

「二重人格」というのは、
人間というのは、どんなに精神的にキリスト教化しようとしても、
人間の本性というものは不変であり、その本性が必ず出てくる、
ということですねー。

キリスト教は、人間の、「客観的に幸福になりたい」
という本性に反している事は間違いありませんねぇ。
だから、いくら、神に関連させて自己満足したとしても、
「他人を叩き落としてでも、金儲けをして幸福になりたい」
という本性が出てくるわけですねー。

同じように、いくら、「他人を愛せよ」と言ったとしても、
時により、相手によっては、
憎しみの心が燃え上がることが、必ずあるわけですねー。
これを二重人格と言ったのですよ。

まさに、キリスト教は「消極的二重人格」になることは、
間違いありませんねぇ。
実は、強信なキリスト教信者の方はこの事を
自覚している人が多いですねー。


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