創価学会教学部 「会則の教義条項改正に関する解説」 に書かれている 日寛上人の教学について。「(中略) 要法寺の法主が続き、疲弊した宗派を護るという要請に応えて、唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある」の部分が意味不明なので、解説をお願いしたい

まず大原則ですが、あらゆる事象は、
それが置かれた社会的状況と関連しながら存在意義を持つ、
ということですねー。
宗教的な教義や活動というのも、その中に入りますねぇ。

例えば、現在の漢訳法華経に書かれている内容の中には、
明らかに釈尊在世当時では、ありえなかった社会事象が書かれていますねぇ。
という事は、その部分は、後世の弟子たちが付け加えたわけです。
ただ言うまでもなく、釈尊の法華経の精神をその時代に、
正確に表現するために追加したものですねぇ。

だから、釈尊の法華経の本質は不変に保ちながらも、
時代状況に合わせて表現を変えたということですねー。
どのように変えたか、という研究を東洋哲学研究所がやってます。

それでは、教義の不変的な部分と社会状況によって変化する部分とは、
どのような関係になるでしょうかねぇ。
たとえると、自動車の、「動力源をタイヤに伝えて、
路面との摩擦によって車を走らせる」という不変な部分と、
「外形は、時代の好みに応じて変えていく」という、
変化する部分になるのではないでしょうかねぇ。
その車が、どのような性能があるかという事は、
その外形によって連想されるところが大きいですねー。

質問の「会則の教義条項改正に関する解説」も、
このことを言っていますねぇ。
すなわち、日寛教学も当然ながら、この二面性を持っているわけですねぇ。
創価学会として、日蓮仏教の不変な部分は、もちろん厳守しながらも、
日寛教学の変化部分については、現代の社会状況に合わせて、
変えていこうということですねー。
これは、原理主義者の日蓮正宗では全くできないことですねぇ。

このことを「この両者を立て分けていく」と表現していますねぇ。
ちなみに、両者というのは、解説文からすると、
「日寛上人の教学には、日蓮大聖人の正義を明らかにする、
普遍性のある部分」
ということと、
「唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分」
ということですねー。

さて、社会状況によって変化させた部分である、
「唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分」
というのは、いったい何だったのでしょうか?

結論だけ、簡単に言いますと、
「日蓮正宗の最高責任者である法主が、
日蓮仏法に違背した」ということなのですねー。
特に、日蓮大聖人が厳命した本尊に邪義を
持ち込んだということですねー。

少々話がずれますが、日蓮正宗が創価学会批判として言うことに、
次のようなものがありますねー。
「日蓮正宗の法主は、代々 、法主から法主へと
日蓮大聖人の教えの真髄を引き継いでいるものである。
これは、ただ1人から、ただ1人へ相承されるものである。
従って、法主は日蓮大聖人そのものである。
その法主を否定する創価学会は、反逆者である」
というものですねぇ。

これは、小学生でもわかるようなウソですねー。
日蓮正宗の法主の中には、
寺の火災で急に、焼死した人もいますねぇ。
また、法主の周辺の人たちが、
明らかに次の法主へ相承しないまま死んだ、
と証言される法主もいますねぇ。

これは何を意味しているのかというと、
日蓮仏教が理解できていない法主がいるということですねー。
ちょうど日寛上人が法主になる2代前の法主の時代までは、
日蓮正宗の本尊は何か、ということに迷妄する法主が続いていたのですねー。

それは、京都の要法寺と言う寺の、代々の住職が、 100年間にわたって、
日蓮正宗の法主を務めたことによる腐敗堕落だったわけですねー。
これを、「要法寺の法主が続き、疲弊した宗派」
と言っているわけですねー。
実際の話としては、法主の地位を誰が取るのかというのは、
権力闘争なのですねー。

だから、この時期の100年間は、 1つの寺の住職が法主になり、
その法主が、出身の寺の後輩に日蓮仏教の真髄を相承した、
と言って、法主の地位を1つの寺で独占したわけですねー。
「日蓮仏教の真髄を相承した」というのは、言うまでもなく名目で、
実際には、日蓮仏教が理解できていなかったのですねー。

その日蓮仏教に迷妄した法主が主張したのが、
「仏教の根本である釈迦の仏像も建立して拝むべきだ」
ということでしたねぇ。
日蓮正宗の本山である大石寺には、
日蓮大聖人が表わされたといわれている、
文字曼荼羅の「弘安2年の御本尊」が安置されていますねぇ。

言うまでもなく大聖人の真意は、
この文字曼荼羅の本尊こそ信仰の対象の根本であり、
仏像を拝むことは厳禁とされていましたねぇ。

日寛上人は、日蓮正宗が日蓮仏教から離脱して、
釈迦像を拝む別の宗派になることを恐れたわけですねー。
実際には、宗派全体が、実質的に別の宗派になるという事は、
歴史を見れば、それほど珍しいことでもありませんねぇ。
現在でも、日蓮宗というように、名称がついていますが、
本尊を釈迦の仏像にしている宗派も複数ありますねー。

さらに、延暦寺などもそうですねー。
宗祖である伝教大師は、唐に留学し、天台山で、法華経の
教えを受けましたねぇ。
期間は、 1年弱でしたねぇ。
そして、帰国してから、日本で初めての、
天台法華宗の延暦寺を開創したわけですねー。

ところが、第三の法主である慈覚大師から、
天台法華宗の教えが、狂っていきましたねぇ。
慈覚大師は、 唐に10年間留学して、仏教を学びましたねぇ。
その結論として、次のようなことを言ってますねぇ。

「真言宗は天台宗には勝れたりけり。我が師・伝教大師は、
いまだこのことをば、くわしく習わせ給わざりけり。
漢土に久しくもわたらせ給わざりける故に」

要するに、師匠である伝教大師に対して、
「自分の方が仏教について、深く理解している」
と思い上がっているのですねー。
その理由が、「伝教大師は1年弱しか留学しなかったが、
自分は10年間も仏教の本場の中国で勉強したのだから、
自分の方が遥かに仏教的知識は、深いのだ」
ということですねー。

その後、叡山東塔の止観院の西に総持院という大講堂を立てて、
御本尊は金剛界の大日如来にしましたねぇ。
これ以外、延暦寺は、天台法華宗の宗門ではなく、
本尊雑乱、宗旨混乱の寺になっていったのですねー。

それで、現在の延暦寺の法要はどのようになっているのでしょうか。
顕教法要は法華三昧
(法華経を読誦し、懺悔し、滅罪生善の規範とする)
そして、常行三昧(阿弥陀経を読誦し、往生極楽の指南とする)
密教法要は光明供錫杖(光明真言によって滅罪息災の秘法を修す)
これらが時と場所によって選択して行われていますねぇ。

なんと、現在までも、天台法華宗の清流は濁りつづけていたわけですねー。
今では、真言宗に加えて、念仏宗までも取り入れて、
釈尊の法華経の真意である、
「正直捨方便・但説無上道・不受余経一偈」
この教えに、完全に違背しているわけですねー。

このような状況を知悉している、日寛上人は、
法主が、日蓮仏教に違背することによって、
日蓮正宗という宗門全体が、狂ってしまうことを危惧したわけですねー。
その大きな要因は、法主も含めて、
日蓮正宗の僧侶全体が、
日蓮大聖人の仏教の本質が理解できていないところにある、
と考えましたねぇ。

それで、何よりも、日蓮大聖人の教えである御書を
正しく理解することが必要だと思いましたねぇ。
そこで、御書の本質を読み解く参考として
「六巻抄」を表したのですねー。

「六巻抄」の最初の「 三重秘伝抄」の序には次のように書いていますねぇ
「しかるに、この抄の中には、多くの大事を示す。
これはこれ、ひとえに法をして、久住せしめんが為なり。
末弟等、深くわが意を察せよ」

日寛上人の、「深くわが意を察せよ」という心の叫びは、
まさに、日蓮正宗が狂ってしまうことに対する、
危機感が、ひしひしと感じられますねぇ。

特に、当時の法主の迷いの根本には、本尊問題がありましたねぇ。
だから、「六巻抄」の項目のなかには、

「問う。末法蓮祖の門弟、色相荘厳の仏像を造立して、
本尊と為すべきや」

という質問を立てているのですねー。
しかも、かなりの分量の紙数を使って述べていますねぇ。
ただ、現在では、この質問は、
極めて初心者用のものに思えるのですねー。
大聖人の教えである御書を少々 、読めば、
仏像を本尊にするなどというのは、考えられないことですねぇ。

しかし、それだけ当時の日蓮正宗は日蓮仏教に、
迷妄していたということですねー。
そこで、日寛上人が、
「日蓮仏教における本尊とは何か」を
現在、読めば過剰なほど強調したわけですねー。

この「過剰なほど強調した」というのが、
「会則の教義条項改正に関する解説」の
「唯一正統性を強調する時代的な制約」
という部分に当たるわけですねー。

日蓮正宗の、多くの寺院の中に、釈迦仏の像を造立して、
本尊にしようとする流れができつつあったとき、
日寛上人が厳しく戒めるために、叫んだのは、
日蓮仏教における、
唯一絶対の本尊とは何かを明確にすることでしたねぇ。

それは同時に、日蓮正宗総本山である大石寺こそが、
唯一の正統性のある寺院であることを
証明するものでなければなりませんでしたねぇ。

そこで、日寛上人が出してきたのが、
「六大秘法」の論理ですねー。
この六大秘法というのは、日蓮大聖人はもちろん、
第2祖日興上人も、その他の僧侶も、
誰も言ったこともない論理ですねー。

その論理を完結させるために、
まず行ったのが本尊の差別化ですねー。
大聖人は多くの曼荼羅本尊を顕されて弟子に与えられていますねぇ。
日寛上人はその中で、弘安2年に図顕された文字曼荼羅こそ、
まさしく究竟中の究竟であり、大聖人出世の本懐であるとしていますねぇ。
そして、 この本尊を「本門戒壇の大御本尊」と尊称して、
大石寺に厳然と存在しているのだ、と強調しましたねぇ。

なお、日蓮大聖人が、当時の信徒に書き与えたご本尊や、
その後の法主が書写して、各家庭に下付したご本尊を、
「一機一縁の御本尊」と称して、区別したわけですねー。

こうすることによって、六大秘法を完結させることができたわけですねー。
どいうことかというと、 三大秘法の1つである「本門の戒壇」を、
日寛上人は、「事と義」に開けるとしたわけですねー。
「事」というのは、本物、本体、そのもの自体という意味ですねぇ。
「義」というのは、「事」の意義を持ったもの、ということですねー。

これで、総本山大石寺が、事の戒壇となるべき特別な寺であり、
宗派の中心的な存在であることを理論付けたのですねー。
そして、各末寺や家庭は、 一機一縁のご本尊を安置した、
義の戒壇という位置付けができたわけですねー。

このことを、日寛上人自身は次のように書いていますねぇ。

「故に当山は本門戒壇の霊地なり。
また当に知るべし、広宣流布の時至れば、
一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。
その処は皆これ義理の戒壇なり」

さて、日寛上人は、どうしてこれほど、
「弘安2年の御本尊」を絶対的存在にしようとしたのか、
と言えば、言うまでもなく、
日蓮正宗の法主の日蓮仏教に対する迷妄により、
日蓮仏法が破壊されたり、
宗派が分裂状態にになることを恐れたからに他なりませんねぇ。
当時の宗門には、その危険性が充分すぎるほどあったわけですねー。

もちろん、日寛上人自身、ご本尊に差別などないことは、
知悉していましたねぇ。
また、唯一絶対無二の御本尊の存在を認める事は、
日蓮仏教の否定であることもご存知でしたねぇ。

そんな絶対無二の御本尊を認めれば、
もし、天災や戦争などによって、そのご本尊が破壊されたとしたら、
日蓮仏教は、この世からなくなることになりますからねぇ。
日蓮大聖人の教えは、そんな軽薄なものではありませんねぇ。

さらに、大聖人の御書のどこにも、
「弘安2年の御本尊」をご図顕したという記述はありませんねぇ。
そして、大石寺の「弘安2年の御本尊」が、
日蓮大聖人ご真筆であり、それが現在まで、
大石寺で継承されているという歴史的証明もできていませんねぇ。
また、考古学的、科学的に「弘安2年の御本尊」が、
大聖人のご真筆であるという鑑定も一切ありませんねぇ。

なお、後年のことですが、
これは、よく知られた話ですが、日蓮正宗第67世日顕法主は、
「弘安2年の御本尊」を「ご真筆ではない」と側近には、
よく言ってたということですねぇ。

日寛上人は、大石寺安置の「弘安2年の御本尊」が、
どのようなものか、よく知っていたにもかかわらず、
六大秘法を構築しなければならなかった理由は、
ひとえに、宗門がおかれた当時の危機的な状況にあったわけですねー。

このことを、「会則の教義条項改正に関する解説」の
「時代的な制約のある部分」と表現しているわけですねー。

その後の日蓮正宗は、どうなったのか?
結局、日蓮大聖人の正統正義、日蓮仏教の真実を
守り伝えることができませんでしたねぇ。
それどころか、日蓮大聖人のご遺命である世界広宣流布を、
実質的に進展させている創価学会に対して、
敵対するという、日蓮大聖人違背の教団となってしまいましたねぇ。


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