言うまでもなく、写真印刷技術のなかった鎌倉時代ですから、
日蓮大聖人が書かれたご本尊を、後世の人が、
書写して、それぞれの教団で本尊と定めたわけですねー。
ちなみに、日蓮大聖人の出世の本懐と言われる本尊の真筆は
所在不明ですねー。
日蓮正宗が自宗の本尊を真筆だと言っているようですが、
歴史的、科学的証明は全くありませんねぇ。
ただ、ご本尊の姿形は、伝承されている上に、
大聖人のご遺文の中にも、その姿形が説明されていますので、
明瞭なものですねぇ。
それで、それぞれの教団で、責任者が本尊を書写して、
それが、正統であると主張しているわけですねー。
従って、ここで最大の問題となるのは、
書写した人物ですねー。
その人物が、果たして、日蓮大聖人のお心を理解していたかどうか、
ここにすべてがかかっているわけですよ。
「書は人なり」
古くから言われている書道の教えですねー。
書写したご本尊は、言うまでもなく、
書写した人間の心が表現されますねぇ。
その心が、日蓮大聖人の心と同一であるかどうか、ということが、
最重要な本尊の要素となるわけですねー。
この観点からそれぞれの本尊を見れば、
正邪が明らかになるのですねぇ。
まず、日蓮宗は、本尊雑乱状態ですねー。
釈尊の仏像を本尊にしたり、大日如来を本尊としたり、
薬師如来を本尊としたり、文字曼荼羅を本尊としたり、
と様々ですねー。
だから、「日蓮大聖人の心を本尊に表す」と言うこと自体が、
意味が亡くなっていますねぇ。
実質的には、日蓮大聖人の仏教とは、何の関係もない教団ですねー。
次に、日蓮正宗ですが、
現在、拝んでいる本尊は、書写した人物が、
日蓮大聖人のお心を全く理解できていない人間でしたねぇ。
だから、そこに表れている「書の心」というのは、
書写した人物の、濁りきった命が表出されているのですねー。
だから、この本尊を拝めば、日蓮大聖人の仏の心が湧現してくるどころか、
逆に、地獄、餓鬼、畜生、修羅の極めて俗悪な心に、
なってしまうのですねぇ。
これに対して、創価学会の本尊は、
日蓮大聖人のお心を正しく理解された僧侶が書写されたものですねぇ。
このことは、日蓮仏教の関係者であれば、
よく知られていることですねー。
だからこそ、創価学会だけが、全世界に、
これほど日蓮仏教を広めることができたわけですねー。
創価学会と他の日蓮関係の教団とを
事実と現状をもって、比較すれば、
創価学会にこそ、日蓮大聖人の正統な本尊が、
息づいていることは、誰でも理解できることですねぇ。