日蓮教学では、法華経二十八品の肝心が「南無妙法蓮華経」に凝縮されている、と説明されます。この「凝縮」を“遺伝子”にたとえられるでしょう。そうすると、南無妙法蓮華経は、1. 法華経思想の“実際に機能する遺伝子”なのか2. 象徴的に“種子”と呼んでいるだけなのか3. 信仰という環境条件があって初めて発現する“エピジェネティックな情報”なのか教学的に、論理的にどのように理解すべきでしょうか?

法華経と南無妙法蓮華経の関連性は、
遺伝子と生体との関連性から説明できるようなものではありませんねぇ。
「南無妙法蓮華経は、法華経全思想の“DNA”」
というような関係ではないですねー。

法華経と南無妙法蓮華経との関係について、
日蓮大聖人は御書に次のように書いていますねぇ。
御書というのは、日蓮関係者における、
日蓮遺文集のことですよ。

《一念三千の法門は、ただ法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり》

「一念三千の法門」というのは、南無妙法蓮華経のことですねぇ。
ここに、法華経と南無妙法蓮華経との関係が表現されていますねぇ。
いったい、「文の底にしずめたり」とはどういうことなのでしょうか。
質問者さんはこれをDNAの性質と考えたのでしょうが、
そうではないですねー。

この、「文の底にしずめたり」の実像を明らかにしたのが、
御書の中にある『御義口伝』なのですねー。
御義口伝というのは、大聖人が口で説法されたものを、
第2祖日興上人が筆記してものですねぇ。
日蓮大聖人もその内容を認めておりますねぇ。

実は、「同じ五字でも宗派で解釈が違うのはなぜか?」
という疑問の解答は、御義口伝の解釈による違いなのですねー。
さらに御書の中に次のようにもありますねー。

《信心の血脈なくんば、法華経を持つとも無益なり》

この「信心の血脈」の内容が御義口伝ということですねー。
御義口伝の教えを仏道修行の根本にしなければ、
南無妙法蓮華経を唱えても、利益がないと教えているのですねー。
それなのに、日蓮関係の宗派のなかには、
御義口伝を「日蓮の教えではない」
と考えているところもあるくらいですよ。

言うまでもなく、御義口伝が理解できなければ、
日蓮仏法は理解できませんねぇ。
御義口伝の中に、日蓮仏法が、現実問題として、
世界の平和と、人間が人間を殺し合うという人類の宿命を
転換する仏法哲学が書かれているわけですねー。

それを正確に解釈し、現実に行動を起こしているは、
創価学会しかありませんねぇ。
これは増上慢ではありません。
創価学会の歴史の中で、他の宗教団体と法論の公場対決をして、
正邪を明確にしてきたところですねぇ。

御義口伝の中に、法華経と南無妙法蓮華経の関係の、
一つの見方について、
次のように書いていますねぇ。

《第八唯有一門の事 文句の五に云く唯有一門とは
上の以種種法門宣示於仏道に譬う、
門に又二あり宅門と車門となり宅とは生死なり門とは出ずる要路なり、
此は方便教の詮なり車とは大乗の法なり門とは円教の詮なりと。
御義口伝に云く一門とは法華経の信心なり
車とは法華経なり牛とは南無妙法蓮華経なり宅とは煩悩なり
自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり云云》

この部分は、譬喩品の「三車火宅の例え」の最初のところですねぇ。
「宅」とは、生死・煩悩を意味していますねぇ。
「車」とは大乗の法門ですねー。
大白牛車に関連づけて書かれていますねぇ。

これは、 1つの解釈として、法華経は法本尊であり、
南無妙法蓮華経は人本尊である、と捉えることができるでしょうねぇ。
日蓮仏法の本尊は、人法一箇あり、一体のものですねぇ。

遺伝子から生体が形作られる場合には、
その2者の間にタイムラグがありますねー。
例えば、設計図(遺伝子)があって、
それを実際の建物(生体)するためには、
建築する時間がかかるのと同じですねー。

法華経と南無妙法蓮華経は、どちらも、
宇宙とともに存在している「法」を説いたものですねぇ。
どちらが先で、どちらが後などというような、
タイムラグの観念で捉えられるようなものではありませんねぇ。
始めもなければ、終わりもない、常住の存在なのですねー。

ですから質問の内容は、
2者の関連性を勘違いして捉え、
その上で論旨を考え、進展させたものですねぇ。
残念ながら、日蓮仏法の質問には、
なっていないと言わざるを得ませんねぇ。


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