禅宗というのは、仏教というよりも、
精神修養に近いものなのですよ。
海外にも禅宗は広まっていますねぇ。
海外の「ZEN(禅)」は、本来の仏教の教えから変質し、
「リラックス」「穏やかさ」「シンプルさ」「マインドフルネス」
といった精神状態やライフスタイルを指す言葉として広く使われていますよ。
これが禅宗の本質なのですよ。
だから、駒澤大学名誉教授の仏教学者、
松本史朗氏の『禅思想の批判的研究』には、
「禅宗は仏教ではない」と書いていますねぇ。
それなのにどうして禅宗の関係者は、
「禅宗は仏教である」と言うのか。
その根拠は、「釈尊が35歳のとき、菩提樹の下で座禅を続け、
夜明けの明星を見て悟りを開いた」というエピソードによるのですねぇ。
ここから、座禅をすることによって仏教の悟りが開けると言うわけです。
ところが実際には釈尊はこれを否定しているのですねー。
法華経『如来寿量品第十六』の後半に収められた偈文には、
「我はもとより成仏してより、久遠の昔より、
常に衆生を教え導き、仏の道へ入れてきた」
という永遠の命と救済を説いているのですよ。
釈尊が悟りを開いたのは、 35歳の時の坐禅ではなく、
そのもっと、はるか昔に悟りを開いていて仏になり、
人々を救済してきたと真実を明かすわけですねー。
だから、釈尊は、座禅を組めば悟りを開ける、
成仏するなどとは、説いていないのですよ。
さらに、禅宗の教えは「経外別伝不立文字」というのですよ。
釈尊の教えの真実は、経文などというような文字によって、
伝えられるものではなく、以心伝心で、釈尊の心から、
弟子の心へ無言のうちに通じるものだというわけですねー。
だから禅宗というのは、黙って座っておれば、
悟りを開けるわけですから、何を考えても悟りになるわけですねー。
自由勝手に考えればいいわけです。
もちろん座禅の方法には、テーマを決めて考えたり、無心になったりと
いろいろあるのですが、結論的には個人の考え方が悟りになるわけですねー。
それで、『明鏡も磨き続ければすり減って最後には無くなってしまう』
と考えても良いし、
『汚れがつかぬ様に日々に務めて払拭すべき』と考えても良いわけですねー。
どちらも、禅宗においては間違っているなどとは言えないわけですよ。
このような禅宗に対して、
創価学会は仏教の本質を実践している団体ですねー。
所詮、仏教モドキの禅宗と、仏教の本質の創価学会とは、
比較できないものですねぇ。
創価学会と禅宗の違いについて。以前創価学会の会合に招かれて大白蓮華という月刊誌を頂きましたそこには『仏法は明鏡のような物だ』『汚れがつかぬ様に日々に務めて払拭すべき』との主旨の論が載っていました別の日北鎌倉の円覚寺の参禅会では『明鏡も磨き続ければすり減って最後には無くなってしまう』『どこに塵や埃(煩悩)がつくというのか?(悟りの境地には煩悩はない!)』と別の解釈で教えられました実存主義者の私には禅宗の方が得心がいく話でしたけど皆様はどちらの論を好まれますか?
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