日蓮仏法における御本尊の位置づけについて、以教学的説明をお願いします。

質問者さんの、創価学会側の「教学的説明」として書いている内容が、
実際の創価学会の説明とは、かなりずれているものが多くありますねー。
おそらく、質問者さんが、これまでの知識をもとに、自分なりの理解で、
書いているのでしょうが、正確ではありません。

だから回答する側とすれば、「おそらく、創価学会側の説明の、
この部分のことを言っているのだろう」と予想して答えざるを得ませんねぇ。
それだけ、不正確にならざるを得ません。

質問者さんが「教学的説明」の根拠を明示しておれば、
正確な回答ができるのですけれどね。

① ② ③ ④
「仏性が外在しているわけではない」と書いていますが、
学会はそんな説明をしていませんねぇ。
御本尊とは何か、ということについては次のように御書に書いていますねぇ。

《問うて云わく、草木成仏とは、有情・非情の中、いずれぞや。
答えて云わく、草木成仏とは、非情の成仏なり。
問うて云わく、情・非情共に今経において成仏するか。
答えて云わく、しかなり。
問うて云わく、証文いかん。
答えて云わく、妙法蓮華経これなり。妙法とは有情の成仏なり。
蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、
生死の成仏というが有情・非情の成仏のことなり。(中略)
詮ずるところ、十界・三千・依正等をそなえずということなし。
この色香は草木成仏なり。これ即ち蓮華の成仏なり。
色香と蓮華とは、言はかわれども、草木成仏のことなり。
口決に云わく「草にも木にも成る仏なり」云々。
この意は、草木にも成り給える寿量品の釈尊なり。
経に云わく「如来の秘密・神通の力」云々。
法界は釈迦如来の御身にあらずということなし》

これは、文字曼荼羅の文字が書かれる材質が、
非情である紙や木であったとしても、草木成仏の原理から、
仏性を顕現できるということですねー。
だから、《草にも木にも成る仏なり。
草木にも成り給える寿量品の釈尊なり》
と書かれているわけです。

だからご本尊そのものが仏性を顕現しているものであるから、
それを境として、唱題することによって境智冥合して、
有情である人間の側の生命にも仏性が顕現するということですねー。

境智冥合については次のように書かれていますねぇ。

《仏になる道はあに境智の二法にあらずや。
されば、境というは万法の体を云い、
智というは自体顕照の姿を云うなり。
しかるに、境の淵ほとりなくふかき時は、
智慧の水ながるることつつがなし。
この境智合しぬれば、即身成仏するなり》

これが本尊に題目をあげることによって成仏する原理ですねー。
この原理においては、
「心中の法(観心)を境とする行法」は、成立しませんねぇ。

もともと、天台の観念観法とは、自己の(一念)の中に
宇宙のすべて(三千)が具わるという「一念三千」の理法を
観じる修行ですねー。
これは像法時代の人間に適した修行にほかなりませんよ。
末法の人間にとっては、その生命状態から不可能ですねー。

末法の人間がこの観念観法を行ずると、
どうなるのか。大聖人は次のように書いていますねぇ。

《涅槃経に云わく「願って心の師と作って心を師とせざれ」云々。
愚癡・無慙の心をもって「即心即仏」と立つ。
あに「いまだ得ざるを得たりと謂い、
いまだ証せざるを証せりと謂えり」の人にあらずや》

末法の人間の愚かな心を師として、
観念観法すれば、迷いの世界に入り込むだけだと言うことですねぇ。
これを質問者さんは、
「自己神格化を防ぐための外在構造」と考えてるのですかねー。

末法の人間の生命の観念観法は、
日蓮大聖人が「受持即観心」として確立された、
題目の読誦から体現されるということですねー。
これは、「いつ・どの段階で不要になるのか」という次元の話ではなくて、
受持した時点で、観心となると言うことですよ。

「内観は不可能だが、唱題による内面変革は可能」
と書いていますが「内観は不可能」という言葉づかいは、
学会では一切していませんねぇ。
しかし、まあ、これは簡単な話ですよ。

例えば、今まで見たこともない、優れた絵画を見たときに、
その絵画に合った感動が心の中に湧現してくるでしょう。
その感動は、絵画に縁したからこそ出てきたわけですねー。
当たり前の話ですが、見なければ、感動しませんねぇ。
しかも初めて見たわけですから「内観」したとしても
出てくる訳がありませんねぇ。
本尊も同じです。縁しなければ仏性が湧現しませんねぇ。

また、「遍満する法」があったとしても、
まあ、学会ではこんな表現もしませんが、
それと縁する具象物がなければ、
「遍満する法」の湧現もできませんねぇ。
世の中に「美」という概念があったとしても、
その美を具象化したものに出会わなければ、
美の価値に浴することはできませんねぇ。
これと同じですよ。

本尊がどうして、絵画や仏像でなくて、
文字でなければならないのかということについては、
次のように書かれていますねぇ。

《仏に三十二相有す。皆色法なり。
最下の千輻輪より終わり無見頂相に至るまでの三十一相は、
可見有対色なれば、書きつべし、作りつべし。
梵音声の一相は、不可見無対色なれば、書くべからず、作るべからず。
仏の滅後は木画の二像あり。これ三十一相にして梵音声かけたり。
故に仏にあらず。また心法かけたり。
生身の仏と木画の二像を対するに、天地雲泥なり。
何ぞ、涅槃の後分には「生身の仏と滅後の木画の二像と
功徳斉等なり」というや。
また大瓔珞経には「木画の二像は生身の仏にはおとれり」ととけり。(中略)
法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を
可見有対色のかたちとあらわしぬれば、
顕・形の二色となれるなり。滅せる梵音声かえって形をあらわして、
文字と成って衆生を利益するなり》

このようにありますので参考にしてくださいねー。


体験については、大聖人は次のように書かれていますねぇ。

《一切は現証にはしかず》
《日蓮、仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。
また道理・証文よりも現証にはすぎず》

これは、まともに考えれば実に正統な内容ですよ。
宗教というのは所詮、目に見えない世界の話ですねー。
さらにその上、死後の世界など誰も行った事はないわけですから、
どのように表現しようが、高低浅深や虚実など、
客観的に証明が出来る訳がないですよねー。

結論的には、教えを書いた経典が整ってるかどうか、
またその内容が哲学的、科学的に矛盾がないかどうか、
などというのは重要ではあるにしても、
最終的には、実際にその信仰をしてみて、
どのような現証が生じたのかが最も大切でしょう。

いや、それ以外に宗教を批判する原理は
厳密にはありませんよ。
現証こそ、第三者が客観的に宗教の高低浅深を
判断できる材料ですねー。
だからこそ創価学会・日蓮仏法では最重要視するのですよ。

信と教学と体験の関係については、
次のように書かれていますねぇ。

《一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給え。
あいかまえて、あいかまえて、信心つよく候いて、
三仏の守護をこうむらせ給うべし。
行学の二道をはげみ候べし。行学たえなば仏法はあるべからず。
我もいたし、人をも教化候え。行学は信心よりおこるべく候》

まず根本には、信ずるという心が出発でしょう。
次に、行学は一体であり、どちらか一方が欠けても、
真の仏法者とは言えないでしょう。
学んで理解したことを実践し(行)、実践の中で得た体験を
教学によって裏付けすれば、さらに信を深めるという、
相互補完的な関係になりますねぇ。


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