地涌の菩薩というのは本来、創価学会の解体からこそ始まる概念ではないだろうか。運動的組織体である創価学会の中にしか存在するものではないと考えられるが。

何か勘違いしていますよー。
「地涌の菩薩」というのは創価学会だけが使っている言葉では無いですよ。
一般的な仏教用語ですねー。

それぞれの教団で、様々な解釈が出されていますねぇ。
例えば、親鸞仏教センター、立正佼成会などでも、
地涌の菩薩とはどのようなものか、様々に議論されていますよ。

当然ながら、創価学会で言う地涌の菩薩は、
創価学会が信奉する日蓮仏法における、自由の菩薩ですねー。
この前提からすると質問者さんのテーマにしている自由の菩薩は、
創価学会・日蓮仏法の地涌の菩薩ではありませんねぇ。
質問者さんが勝手に解釈をした地涌の菩薩ですよ。

どのように違うのか、2点を挙げておきましょう。
まず、地涌の菩薩というのは、具体的に社会で生きている人間を
指したものではないのですよ。
日蓮大聖人は、次のように書いていますねぇ。

《一代聖教とは、この事を説きたるなり。
これを八万四千の法蔵とは云うなり。
これ皆ことごとく一人の身中の法門にてあるなり。
しかれば、八万四千の法蔵は我が身一人の日記文書なり。
この八万法蔵を我が心中に孕み持ち、懐き持ちたり。
我が身中の心をもって、仏と法と浄土とを我が身より外に
思い願い求むるを迷いとは云うなり。
この心が、善悪の縁に値って善悪の法をば造り出だせるなり》

これが日蓮仏法であり、創価学会の本質なのですよ。
釈尊の説いた全ての法門と言うのは、結論づければ、
《我が身一人の日記文書》なのですねー。
すなわち、 1人の人間の心の有り様を説いたものなのですよ。
だから、《我が身中の心をもって、仏と法と浄土》が
出現するということですねー。

だから地涌の菩薩というのは、心の状態を表現したものなのですねー。
もし具体的な人間を指したとするならば、おかしなことになりますよ。
質問者さんが言ってるような論理からすれば、
「それじゃあ、信心の厚薄が様々にある創価学会員の内、
どこからどこまでが地涌の菩薩なのだ?」
というバカバカしいお話になりますねぇ。

要するに、学会員であろうがなかろうが、すべての人間に、
地涌の菩薩の心が存在すると言う法理ですよ。
質問者さんは「概念」と言いながら、
それを具体的な創価学会員に
当てはめようとしているところに無理がありますねー。

次に、総別の2義についてですねー。
日蓮大聖人は次のように書いていますねぇ。
「上行菩薩」というのは地涌の菩薩ですねー。

《釈尊より上行菩薩へ譲り与え給う。
しかるに、日蓮、また日本国にしてこの法門を弘む。
また、これには総別の二義あり。
総別の二義少しも相そむけば、成仏思いもよらず》

簡略に言えば、「すべての人間に地涌の菩薩の心がある」
というのは総じての考え方ですねー。
別しては、「真実の仏道修行をする者の中にしか、
地涌の菩薩の心は存在しない」
ということですねー。

質問者さんが、「学会が解体されたときに初めて、
法華経本来の意味での地涌の菩薩が現実に顕在化する」
と言っているのは、総じての話ですねー。
現実には、こんなことがあるわけはないのですねー。

別して言えば、「創価学会という、真実の日蓮仏法を
修行しているところから地涌の菩薩が出現する」
ということですねー。

このことを、《総別の二義少しも相そむけば、成仏思いもよらず》
と書かれているのです。
だから結論として、質問者さんの言ってる方向性では、
《成仏思いもよらず》ということになるわけです。


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