創価学会の教えは、かつての宗教が“恐れ”で人々を支配した構造と同じではないでしょうか?創価学会は「信心をやめると功徳が無くなる」「信心を失うと宿業が出る」といった言葉が使われることもあります。これらは、「宿業」や「退転」という形で、人の心に“恐れ”を生む構造になっていないでしょうか?また、かつての宗教が「神や聖職者」を絶対視したように、創価学会でも「師弟不二」が重視されます。これもまた、精神的な自由を縛る一種の権威構造になっていないでしょうか。

そうですねー。
結論的に言えば、そんな「恐れや権威」で、
現在のような世界的な創価学会の組織ができるなどという事は、
ありえませんねぇ。
人間の組織に対する認識が、
現実社会を知らない学生の理論のようですねー。
世の中そんな甘いものではないのですよ。
逆に、そんな甘いもんだったら、誰でも巨大な組織を作れますよ。

まず、創価学会の退会についての基本方針は次のようなものです。

「退会し、学会から離れていった人も、
大きな心で包んでいくことが大事です。
人と人のつながりを切り捨ててしまうのではなく、
『友だちなんだから、困ったことがあったら相談に来なさいね』
と言ってあげるぐらいの度量が必要です」

また、「罰」ということについての考え方は次のようなものですよ。

「勤行・唱題も、学会活動も、やった分だけ、自分の得になる。
かといって、やらなければ〝罰〟が出るなどということはありません。
それでは、初めから信仰しない人の方がよいことにさえなってしまう。
信心の仕方によって罰が出るなどという、
そんなバカバカしいことがあるわけがないでしょう。
本当にそうだったら、信心しない方がよぽど幸せになります」

こういうことなんですよー。
さらに、「聖職者を絶対視」ということについても、
第2祖日興上人は、次のように訓戒していますよ。

「時の貫首たりといえども、仏法に相違して己義を構えば、
これを用いるべからざること」

日蓮仏法の教団のトップが、正統な教義に反して、
誤ったことを主張するのであれば、
その人間の言うことを用いてはいけない、というのですよ。
「師弟不二」を「権威構造」と考えるのは、
詳説は省きますが、浅学としか言いようがないですねー。

このように、質問者さんの創価学会組織に対する認識は、
完全に的が外れているのですよ。
質問者さんの精神の嗜好性に従った見方をして、
それを「正しい認識」と自己満足しているのですよ。

言うまでもないことですが、「認識と評価」は、
しっかりと押さえておかなければならない事ですねぇ。
創価学会に対して、どれだけ正確に認識するかによって、
評価も千差万別になるわけですよねー。
質問者さんの認識では、客観的な評価を得ることはできませんねぇ。


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