そうですねー。
創価学会の活動の運動論が、どこから出発しているのかということが、
理解できていないところからくる疑問ですねー。
ちょうど、労働組合の運動論のようなとらえ方しかできていないところに、
疑問が湧くのですよ。
創価学会の運動論は、言うまでもなく、日蓮仏法から出発しています。
質問者さんは、その日蓮仏法を労働組合の組織目標と同じような、
次元で捉えているわけですねー。
日蓮仏法というのは、そういう表層的な教えではないのです。
さらに、質問者さんの、この疑問が出てくる根本は、
日蓮仏法における、「絶待妙と相待妙」
という法理が理解できていないところにあるのは明らかですねー。
まず、運動論から簡単に見てみましょう。
大聖人の運動論としては次のように
書かれたところがありますねー。
《末法に摂受・折伏あるべし。いわゆる悪国・破法の両国あるべきゆえなり。
日本国の当世は悪国か破法の国かとしるべし。
問うて云わく、摂受の時、折伏を行ずると、
折伏の時、摂受を行ずると、利益あるべしや》
折伏というのは、
「あなたの思想は誤っているので不幸になります。
それを捨てて、絶対に正しい日蓮仏法を信じて、幸せになりなさい」
というものですねぇ。
摂受というのは、
「あなたの思想は素晴らしい。
しかし、それ以上に日蓮仏法は素晴らしいので、
さらに優れた思想を信じて幸せになりましょう」
というものですねぇ。
この摂受・折伏の運動論は、その社会の状況、人々の思想状況によって、
適したものを実践しなければならないと言っているのですねー。
もしそれを間違えると、「利益なし」ということになります。
当然、創価学会は、この日蓮仏法の弘教の流れに従った、
運動論を取っているわけです。
質問者さんが言っているような、イスラム原理主義者のような運動論では、
現代の世界に創価学会・日蓮仏法を広めることはできませんねぇ。
さらに、明確に次のように大聖人は書いていますよ。
《章安云わく「取捨宜しきを得て、一向にすべからず」等。
天台云わく「時に適うのみ」等云々》
《仏法は摂受・折伏時によるべし。譬えば、世間の文武二道のごとし。
されば、昔の大聖は時によりて法を行ず》
摂受と折伏を、時と場所でどのように実践したらよいのかが、
よくわかりますねぇ。
質問者さんの捉え方とは全然違うでしょう。
まさに、創価学会の現在の運動論が、仏教流布のために、
最適であるということですねー。
次に、日蓮仏法と他の思想との関係性を見ましょう。
これも簡単にしましょう。
大聖人は、次のように書いていますねぇ。
《この経には二妙あり。釈に云わく「この経はただ二妙のみを論ず」。
一には相待妙、二には絶待妙なり。
相待妙の意は、前の四時の一代聖教に法華経を対して爾前とこれを嫌い、
爾前をば当分と云い法華を跨節と申す。
絶待妙の意は、一代聖教は法華なりと開会す》
さらに絶対妙の立場で、次のように明確に書いていますよー。
《外典開会の文は、「もし俗間の経書、治世の語言、
資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」》
《法華経には「治生産業は、皆実相と相違背せず」と宣べ》
これで質問に対する答えは明快でしょう。
質問者さんは、相対妙の立場で、創価学会のすべてを
把握しようとしているのですよ。
それでは、全く、日蓮仏法・創価学会の真実が理解できませんねぇ。
全世界の、あらゆる思想哲学は、《実相と相違背せず》すなわち、
仏法そのものだと言うことですねぇ。
これが創価学会・日蓮仏法の本質中の本質ですよ。
これが理解できれば、質問者さんの考えているような疑問や不審は、
出てくる余地は無いのです。
ただ、「絶待妙と相待妙の法理」を理解するためには、
日蓮仏法を本格的に研究しなければ無理ですよ。
最近の創価学会は、自己矛盾が大きく露出して、活動に草創期のような確信が持てなくなっているのではないか。折伏について言えば、相手の思想哲学宗教を徹底して否定して、創価学会に改宗させるのが本筋だろう。ところが今は、相手の言うことを否定するどころか賛嘆までして、入会をさせようとしている。社会の風潮に迎合しているにすぎないではないか。日蓮仏法の絶対的真理が変容されて、相対的寛容をもって、社会に、人々に受け入れられようとしているのではないか。それはまさに、創価学会の絶対性の滅亡ではないか。
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