創価学会では、 どのように今世を生きるかで、来世に、どのように生まれるかが決まる、と説きます。このような考え方をどう思いますか?

そうですねー。
基本的に、高等宗教を保ってない人というのは、
本質的な、信頼ができないということですねー。
高等宗教というものは、必ず、来世を説きますねぇ。
そして、今世の生き方が、来世に影響を及ぼすとします。

例えば、宗教を保ってない人は、今世をどのように生きたとしても、
自分が死ねば、すべては終わりになる。と思うでしょうねぇ。
時々 、悲惨な殺人事件を起こした犯人が、
その場で自殺するということがありますねー。

アメリカなどで時々 、そんな事件が起きていますが、
犯人のほとんどは、無神論者ですねー。
死ねば終わりなのですから、生きている間に、
どのようなことをしようが、どうでもよいわけですねー。

もし、来世を信じる宗教を保っていたとしたら、どうでしょうか。
今世の行いの報いを来世に受けるとしたら、
殺人などを実行する抑制力になるでしょうねぇ。

だから、ずいぶん昔のヨーロッパでは、
「信仰を保っていない者は、危険人物である」
という考え方がありましたねぇ。
無宗教の人間は、何をするか分からない、
と思われたわけですねー。
現在は、キリスト教信者も減り、そういう見方はないようです。

確かに、創価学会、日蓮仏法も来世を説きますが、
こんな単純なものではありませんねぇ。

まず何より、今世を「どのように生きるか」と言うくらい、
あやふやなものはありませんねぇ。
普遍性や絶対性のない、極めて、相対的な概念ですねー。

それは、国、時代、民族、人種などによって、
いくらでも変わってくる価値観ですねー。
例えば、日本では、一夫一婦制で、
夫婦のどちらかが浮気きをすれば、民法的ペナルティを受けますねぇ。

世界の国の中には、浮気が重罪で、状況によっては、
「死刑にする」という法律があるところもあるようですねぇ。
実際には、死刑を執行された事は無いそうですが。
ところが、一方では、一夫多妻制を認めている国もありますねー。
日本も平安時代などでは、一夫多妻制でしたねぇ。

創価学会、日蓮仏法は、このような相対的に変化する、
「どのように生きるか」という次元の話ではないのですねぇ。
もっと根本的な、人間としての普遍性のある「生のあり方」が、
来世に関連すると説いているわけですよ。

また、「次の世にどのように生まれるか」というような、
おとぎ話のような、現実離れした話ではありません。
「今世の生き方が因となって、来世にその結果としての報いを受ける」
などというようなことを今時、信じる人などいませんねぇ。

日蓮仏法、創価学会における「今世・来世」というのは、
釈尊の因果論の本質の上に成り立っているのですねー。
大聖人は次のように書いています。

「因のところに果有り、果のところに因有り、
因果俱時の妙法を観ずるが故に、かくのごとき功能を得るなり」

さらに次のようにも書いていますよ。

「因果俱時不思議の一法これ有り。
これを名づけて妙法蓮華となす」

とありますねー。
創価学会の「今世・来世」というのは、
「因果俱時論」の上に成り立っているのです。
因果俱時論が人間の宿業、宿命を本質的にとらえているからこそ、
創価学会の提唱する宿命転換、宿業転換が理論的にも、
現実的にも、今世において、実証されるわけですねー。

日蓮仏法が因果俱時の法門であると言われるように、
題目に「蓮華経」とあるわけです。
蓮の花は、花と実が同時になることから喩えられているわけです。

大聖人は次のように書いていますねぇ。

《過去と未来と現在とは三なりと雖(いえど)も
一念の心中の理なれば無分別なり》

これは、人間の現在の生命の存在の中に、過去世も来世も含めて、
すべての可能性が含まれているということですねー。
念仏宗のように「欣求浄土厭離穢土」と言って、
「現世の信仰の因は、来世の極楽浄土に結果と出てくる」
というような、意味のない諦めの宗教ではないのですねぇ。

常識的に考えても、信仰の効能が現世に出ないような、
力のない宗教が、来世に功徳の結果が出るなどということが、
あるわけもないし、信じられるものでもないですねー。

創価学会における「次の世にどのように生まれるか」
というのは、「今世の現実の社会の中で、
人間として最善の生き方と生活をすること」を目標に、
生きることを意味していますねぇ。

さて、そのための、信仰を根底にした、
「根本的な、人間としての普遍性のある生のあり方」
とはどのようなものか。
これについては長くなるので別稿に譲ります。


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