私はこの2年半で1300時間、題目を挙げています。しかし一生懸命題目を挙げている割にはたいして良いことがありません。先輩からは「行動なき題目は観念」と言われました。「観念」とは一体何ですか?「行動」と言われても、どうしたら良いか分かりません。どうしたら功徳が出るのか教えていただけますか?

そうですね。
こういう質問をすると、タチの悪い創価学会批判者が、
悪用しますので、気をつけてくださいね。
どのように悪用するのかというと、次のようなことですね。

1、信心してもうまくいかないのは、信心が足らないからだと責める。
2、宿命だから簡単には解決しないとごまかす。
3、今生きているのは功徳だ。不満を言うなと洗脳する。
4、もともと創価学会の信心に功徳などあるわけないのに、
功徳があると錯覚をさせるようにする。
5、信心してきて、今のような悪い状態なのだから、
創価学会の信仰に功徳が無いのは明白だと脱会を勧める。

こんな感じですかね。どれも、創価学会の信心、日蓮仏法を
全く知らない人間の言う、寝言ですね。だまされないように。

さぁ、それじゃあ、回答しましょう。
日蓮大聖人の書かれた御書には、次のようにありますねえ。

「信心の血脈なくんば、法華経を持つとも無益なり」

これは、いくら題目をあげても、正しい信心をしなければ、
功徳はないということですね。
考えてみれば身延山でも、南妙法蓮華経と唱えていますね。
日蓮正宗も、国柱会も題目を唱えています。
ところが、これらの題目は大聖人の精神から離れているので、
功徳は全くありませんね。

同じ題目を唱えても、大聖人の心に叶ったものでなければダメですよ。
大聖人の心に叶った題目とは、唱題すると同時に
学会活動をするということですね。
このことを大聖人は次のように書いていますよ。

「末法に入って、今、日蓮が唱うるところの題目は、
前代に異なり、自行・化他に亘って南無妙法蓮華経なり」

ここで「自行」と言っているのは、自分が唱題することですね。
「化他」と言っているのは、学会活動をすることですよ。
この両方がそろって、功徳があるのです。
質問者さんが疑問に思っている、「観念」とは「自行」のことですね。
「行動」とは「化他」のことですね。

また、次のようにも書かれていますね。

「ただし、妙法蓮華経と唱え持つというとも、
もし己心の外に法ありと思わば、全く妙法にあらず、
麤法なり。麤法は今経にあらず。今経にあらざれば、
方便なり、権門なり。方便・権門の教えならば、成仏の直道にあらず」

これは、ご本尊に祈ったとしても、他力本願のように、
ご本尊に祈ったのでは、だめだということですね。
「功徳が味わいたい」というのであれば、
自分にとって功徳とは具体的に何かを、しっかりと決めて、
その祈りを実現するだけの自分自身になるように祈るのですよ。
信心して良いことがあるというのは、
良いことを手に入れられるだけの自分に向上、自己変革することですよ。


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