減劫御書に次のような部分があります。『貪欲をば、仏、不浄観の薬をもって治し』これは、どのような意味でしょうか。

不浄観とは、釈迦仏法における修行の1つです。
「観」というのは、物事の真実の姿を見極めて、
それにふさわしい、成仏への対応をするということです。

同じ修行のグループに、
  一、数息観、 二、慈悲観、
  三、因縁観、 四、界方便観
という、合わせて5つの修行方法があります。
これを、五停心観と言います。
貪瞋癡と言うような成仏を妨げる迷いに対する、
それを打ち破る5種類の修行方法です。

このことについて大聖人は、一代聖教大意で、
次のように解説しています。
              
 「五停心     
   一、数息   息を数えて散乱を治す
   二、不浄   身の不浄を観じて貪欲を治す
   三、慈悲   慈悲を観じて嫉妬を治す
   四、因縁   十二因縁を観じて愚癡を治す
    五、界方便  地・水・火・風・空・識の六界を観じて障道を治す」

不浄観 というのは、
 肉体の不浄を観じて、貪欲の心を消していく修行といえます。
涅槃経には次のように説かれています。

「ひとりは浣衣を主り、 ひとりは是れ金師なり。
金師の子には、応に数息を教うべく、浣衣の人には
応に骨観を教うべし」

「浣衣の人」とは、人々の汚れた衣類や
排泄物を洗濯、処理する仕事の人です。
どんなに世間的に素晴らしい人と言われたとしても、
汚い糞尿を排泄することを知っているわけです。

そういう人を仏道に導くには、「骨観」を教えると言うのです。
「骨観」というのは、不浄観と同じものです。

どういう意味かというと、
「人間というのは、所詮、糞尿を排泄する汚い動物だ。
そんな汚い動物の、様々な欲望などというのは、
たとえ叶えたとしても、何の役にも立たないものだ。
犬や猫が餌を食って喜んでいるのと変わりはない。
そんな、つまらない欲望に人生を狂わされるよりも、
仏になる道を歩むのが大切なのは当然だ」
と「観じて」すなわち悟って仏道修行に励むことです。

日ごろから、人間の不浄さを知っている人には、
仏道修行へ導くのに、骨観を教えれば理解されるということです。

どうして骨観という表現を使うのかというと、
次のような根拠からです。

例えば、性欲という欲望を抑制するためには、
死後の肉体が、次第に腐食して、白骨となる姿を
心に焼き付ければ抑えられる、ということです。

「所詮、人間といっても、行き着く先は骨になるだけだ。
そんなつまらない肉体の性欲によって、
人生を潰すのは愚かだ。それよりも欲望を乗り越えて、
成仏への道を歩むのが最善の人生だ」
ということです。
こういうイメージで骨観と言っているわけです。

もともと、人間は不浄のものであるという捉え方がありました。
御書「始聞仏乗義」(新刊)には
質問者の言葉として、次のように書かれています。

「我らその根本を尋ね究むれば、父母の精血、
赤白二渧和合して一身となる。悪の根本、不浄の源なり。
たとい大海を傾けてこれを洗うとも清浄なるべからず」

本来、不浄な人間だからこそ、そんな肉体の欲望に惑わされることなく、
成仏への道を歩むのが、最高善になると言うことです。
例えて言えば、次のようなことでしょう。

癌の病状が進んで、余命1ヶ月の患者がいます。
その患者は、金儲けをして大きな家を建築して、
豊かな生活にすることを考えています。
さらに、社会的な名誉や地位も得たいと思っています。
そういう欲望を実現するためには、どうしたらよいかと悩んでいます。
ところが、ふと、自分の命があと1ヶ月だということに気づきます。
これが、不浄観 です。

自分の真実の姿を悟ったわけです。
そうすると、金銭や名誉や地位に対する欲望や悩みが、
何の意味もないことを悟ります。
それよりも、生死を乗り越える仏道修行の方が、
はるかに人生の宝になると気が付いたのです。

このような悟りの内容になるでしょう。

ただ、劫御書のこの部分の意味は、
前後の文脈から考えれば、「不浄観 で貪欲を抑えれば、
仏道修行ができる」、と教えているのではありません。
前後の言葉も含めて引用しています。

「末代濁世の心の貪欲・瞋恚・愚癡のかしこさは、
いかなる賢人・聖人も治めがたきことなり。
その故は、貪欲をば、仏、不浄観の薬をもって治し、
瞋恚をば慈悲観をもって治し、
愚癡をば十二因縁観をもってこそ治し給うに、
いまはこの法門をといて、人をおとして、貪欲・瞋恚・愚癡をますなり」

とあります。
不浄観など五停心観は、正法、像法の釈迦仏法が、
効力を持続できる間の仏道修行なのです。
「いまはこの法門をといて、人をおとして」とあるように、
末法においては、この法門は、人々を仏道に向けて、
向上させる働きになるのではなく、逆に、
貪欲・瞋恚・愚癡の命を増加させることになるのです。

いわば、この法門を末法の衆生に説くと、
冥伏していた貪欲・瞋恚・愚癡の命を
呼び覚ましてしまうことになるのです。
それほど、末法の衆生の生命は、濁りきっているということです。

末法における五停心観は、結局、
日蓮大聖人の下種益仏法である南無妙法蓮華経によってのみ、
成し遂げることができるのです。


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