いつの時代でも、どのような組織でも内部告発というのは常にあります。十年ほど前には、内部告発した労働者を守るための法律もできています。
以前は、内部告発という言葉からは、密告というマイナーな印象を受けたものですが、現在は逆に、勇気ある正義の行動というイメージに変わりつつあります。
内部告発者を保護する法律の名称も、「公益通報者保護法」となっており、通報者は公益に資するものであるというイメージが強く出ています。
学会においても、内部告発者と称する人が、これまでに何人か出てきています。それは組織幹部の中からも、また創価学会本部の職員からも出ています。
学会の内部告発者は、他の企業などとは比べものにならないくらい、マスコミが飛び付いて、過剰な反応をするので、世間一般によく知られるところとなります。
だから、学会の内部告発については、他の組織体よりも割合が多い印象を与えたり、それだけ組織内部に不正や矛盾が多くあるようなイメージも、社会的に作られてしまう傾向にあります。
ところが実際にはその逆で、不正や矛盾は他の組織よりはるかに少ないし、内部告発の頻度も非常に少ないのです。
学会の内部告発者には、何点かの共通点があります。
第一の共通点は、
「自分の悪を隠して、正義面をする」
ということです。組織幹部の内部告発者は、ほとんどの人が学会の組織を混乱させたり、破壊するような行動をして、多くの会員に迷惑をかけているような人です。
例えば、金銭や男女問題を起こしたり、組織を利用して金もうけをしたりします。あるいは、組織の中に気にいらない幹部がいると、その人を陥れるようなことをします。
学会本部の職員の場合は、一般的に会社員として懲戒解雇になるような言動をする人がほとんどです。解雇通知の直前になって内部告発と言って、マスコミなどを利用して大騒ぎをします。
自身のいいかげんな仕事の責任をとらされることから目をそらさせるためであり、懲戒処分から逃げようとする為です。
こういう、本人のあきれた実態があるにもかかわらず、外部に対して告発した理由を表明する時は必ず、
「学会の不正を正すために正義感から行動を起こした」
と言います。
自分自身を正義の味方、ヒーローに仕立てあげるのです。それは言うまでもなく、自身の悪事をごまかすために必死になって演技している姿です。
告白者をよく知っている人は、
「呆(あき)れて、ものが言えない。盗人たけだけしい、とはこのことだ」
というのが実感なのです。
そういう告白者の実像を知らずに、あるいは知っていながら、正義の味方に祭り上げる反学会勢力が多数、存在するということです。
第二の共通点は、
「学会のこと、池田会長のことを正しく理解できていない」
ということです。
学会内において、立派な人とはどういう人のことなのか、それは生涯にわたって深い信仰心を保ち続ける人です。
深い信仰心があるかどうかは、個人の心の問題であって、学歴や社会的な立場や学会内の役職などのような肩書では分かりません。
学会にはさまざまな役職があります。戦後しばらくは、分隊長、隊長、部隊長、参謀などといった軍隊そのものの役職名を使って活動をしていた時期もありました。
「創価学会は、軍隊と同じファシズムだ」
などと言われたことはよくありました。
現在の学会は多角的な活動を進めており、それに従って役職も多くの種類があります。
この学会の役職と信心の関係については誤解されることが多いのです。世間的に見れば、役職が高ければ高いほど模範的な信心をしている人のように思われます。
ところが実際は、役職と信心の厚薄とは関係ないのです。
ましてや、世間的な肩書とは全く関係ありません。
しかし、
「そんなことを言ったって実際には、有名大学を出たり、弁護士などの資格を持っている人など、一般世間から見ても優秀な人が高い役職に就いているし、公明党の議員にもなっているではないか」
と反論するかもしれません。
これだけ大きな組織になれば、運営上さまざまな面で、頭の働きの優れた人が必要になることは確かです。また、公明党の議員にしても社会的にも、頭脳明晰な人が歓迎される傾向にはあります。
しかし、その必要性と信仰の深さとは全く関係ないのです。
創価学会という組織は、言うまでもなく信仰者の集まりです。すべての価値判断の根本に、信仰という一点が貫かれています。
これは学会の誇りであり、これだけ発展した源でもあります。
どんなに世間的な肩書があろうが、地位が高かろうが、学会内では一会員にすぎません。
学会においては、長年にわたり活動を地道に貫いてきた、地位や学歴や財産もない一老婦人が最も讃えられるのです。
こういう人が創価学会の世界では、宝の人なのです。現に、現在の巨大な創価学会の組織を築いてきたのは、これらの人々に他ならないからです。
学会は、信仰心が深くて、学会を築いてくれる人をすべての活動の中心に置くとともに、さまざまな活動方針もここに焦点を合わして打ち出しています。
そして幹部は、最前線の活動家が最大限に力を発揮できるように、さまざまな配慮や支援をするためにいるのです。
学会の幹部は、会員に奉仕するための役職なのです。だから、硬直した組織にならずに発展し続けているのです。
内部告発者のほとんどの人は、この創価学会の本質が理解できていません。
外部から見ると、一流大学や創価大学を出て組織の高い役職に就いたり、本部の職員になったりしている人に対しては、信仰心が深く学会組織を十分に理解しているように思われがちです。
ところが、実際には、理解していない人も多くいるのです。所詮(しょせん)、信仰とは、心の問題であり、学歴や肩書などで判断できるものではないからです。
長年にわたり、組織の最前線で、様々な困難や非難を受けながらも、信心を貫いてきた幹部は学会組織の本質や会員の心がよく分かっています。
ところが、そういう経験のない人が幹部になると、自分が偉くなったと錯覚して、上意下達の命令で会員を動かそうとしたり、官僚主義的な組織運営をするようになることもあります。
純真な会員の心が理解できない幹部なのです。
こういう幹部は、身近に接する会員からも、また、本部職員の場合は職場の人からも人間の本質を見抜かれて、信頼をなくしていきます。
そして、組織や職場で、我欲やわがままのために不正を働き、断罪が身に迫ってくると、それを自覚し、自己弁護と自己保身のために正義の味方を装って、内部告発という便利なものを使うことになるのです。
内部告発者は、告発などと格好の良い題目をつけて学会を批判しますが、その内容はほとんどすべてが、的を射ていないものです。
学会の組織や本部から見ると、
「なにを血迷ったことを言っているのか」
と思えるようなものばかりです。
それも当然で、学会の本質を体得してもいなければ、理解もしていない人が、適確な批判ができるわけがありません。
批判する対象を誤って認識している人が、いくら批判しようが、結果的には別のものを批判していることになるわけで、まったく批判の効果はありません。
学会員は一般的に思われているよりも、はるかに鋭く、人間を見抜く目を持っています。
「池田会長にマインドコントロールされて動かされている」
「下の者は幹部にうまくだまされたり、調子に乗せられて動かされ、上の者がうまみを吸っている」
「選挙の時には、票集めに利用され、寄付の時には金集めをさせられている」
「学会の闇の部分を知らされていない、純真な末端の会員がいちばん損をしている」
この様なたぐいの批判はインターネットで検索すれば、無数に出てきます。
これらの批判を会員はどのように受け止めているのかといえば、内部告発者の告発内容と同じなのです。
要するに、学会とはどのようなものかを全く分かっていなくて、的外れな批判ばかりを言っていることがすぐに分かるのです。だから、どんなに学会批判をしたとしても、会員は全く動揺しないし、蚊の涙ほどのダメージにもならないのです。
往々(おうおう)にして、学会員に対する見方には、幼稚で単純にだまされやすいようなイメージが含まれています。
ところが少し考えれば、そんな頼りない人たちによって、これほど強固な組織が築き上げられる訳がないことはすぐに分かることです。
その一例として、学会の組織の中にある地区という単位を取り上げてみます。
地区の男性の責任者として、地区部長という役職があります。女性の責任者は地区婦人部長といいます。
地区の活動としては、毎週月曜日に活動家が集まって、その一週間の行事をどのようにするかを協議します。この会合には十人前後の会員が集まります。
一カ月の間には、さまざまな会合がありますが、地区としては座談会を毎月開催します。これには二十人から三十人が参加します。
参加者に地区部長や地区婦人部長は金品を渡すことは全くありません。何も物質的な利益はないのに会員の人たちは集まってくるのです。
こういう会を運営することは非常に難しいことです。
試しに、三十人近くの利害関係のないグループを立ち上げて運営してみれば分かります。中心者がよほどしっかりしていないとすぐに衰退し、解散することになるでしょう。
これは理屈ではなくして、実際に中心者としてやってみれば、会を維持することがどれほど困難か理解できます。
地区の会員の中には、入会が新しくて学会や日蓮大聖人の仏教について、ほとんど知らない人もいます。全く信仰する気がないのに、義理や人情で入会した人もいます。中には、公明党や池田会長に対して批判的な人までもいるのです。
地区の責任者は、こういう人たちにも座談会の会場まで足を運んでもらえるようにしなければなりません。
「ご本尊を拝めば、悪い運命が変えられる。学会の会合に出席すれば幸せになれる」
こんな言葉を信じて多くの会員が座談会に参加していると思ったら大間違いです。人間はそれほど甘いものでもなければ、組織というものはそんな単純なことで維持、発展できるものではありません。
何よりも、だれがこんな言葉をすぐに信じるでしょうか。そんな信じがたいことを宗教的信念に基づいて、忍耐強く会員や友人に語り続けているのが地区部長であり地区婦人部長なのです。
だから、会員に会合に参加してもらうためには、地区の責任者は相手がどのような人なのかを見抜き、知り尽くした上で、その人に最も適するアドバイスができる必要があります。
そして、家庭状況、仕事の内容、趣味、夢、悩んでいること、希望していることなど、相手の人間を深く理解することによって、信頼関係を築くことができます。
信頼関係があって初めて、利害関係がなくても会合に参加してくれるようになるのです。
さらに会員を増やすためには当然ながら、新しく入会する人を作らなければいけません。友人などに日蓮大聖人の仏教、創価学会や池田会長の素晴らしさを話して、入会を勧めることになります。
これは、一般的に信じがたい内容であるがゆえに、難事中の難事となります。
相手によっては、
「自分の宗教的欲求を満たすために、他人に迷惑をかけるのはやめてくれ」
などと厳しく批判する人もいます。
中には、人権を傷つけるようなことを言う人もいます。
地区の責任者は、何を言われようとも、相手を幸福にしてあげたいという強い思いで、何度でも粘り強く信仰の話をします。
そしてやがて、何人かの人は地区の責任者の人間性を信頼して入会することになります。
こういう責任者の活動に共感して、他の会員の人たちも同じような活動家になっていき、地区が発展するのです。
ここに創価学会の本体があり、真実があります。
創価学会とは何か、ということを考える場合、本体である地区を離れて、どこか上層部の方に実態があるような捉え方をするのは、学会の虚像つかんでいるに過ぎないのです。虚像をいくら攻撃しても本体には全く影響しません。
内部告発者は学会の最高幹部だったり、本部の職員だったりもしますから、当然ながら、学会の本体は何であるかを知っているように思われがちですが、実は、全く理解できていない人ばかりなのです。
組織の最先端の現場で、汗と涙で苦労しながら学会を支えている人々、即(すなわ)ち、学会の本体から離れてしまっているのです。
マスコミなどに登場して、学会の不正を正す、などと深刻ぶっていますが、本質は労苦を嫌う怠け者なのです。学会の最も大切な現場で苦労することから、勝手な自己正当化論を作り出して、逃げている者に過ぎないのです。
内部告発者が告発している内容を地区の活動家が読むと、
「学会のことが全く分かっておらず、バカバカしくて、お話にもならない」
というのが事実です。
告発者が、見当外れの批判を我田引水の論理で主張していることなど、学会の活動家であればすぐに、その作為と偽善を見抜くことができます。
だから、ほとんど影響などありません。
内部告発はもとより学会批判が、これまでの学会の歴史の中において、数え切れないほど起きていたにもかかわらず、現に学会が存在し、発展していることを考えれば、それらの批判がまったく効果がなかったということを証明しています。
最大の理由は、的外れであり、虚偽の批判であるからにほかなりません。
また時々、創価大学出身者が告発者の中にいたりすると、マスコミなどが取り上げて騒ぎ立てることもありますが、これも状況は同じです。
地区には、身近に創価大学出身者がいて、共に活動している会員も多くいます。実感として、創価大学出身者から告発者や批判者が出たとしても、驚くことでもないことは分かっています。
創価大学出身者といっても、様々な人がいるのは、至極(しごく)当然なことです。
ことさら騒ぎたてて宣伝材料に使いたいのは、告発者とマスコミでしょう。
学会そのものともいえる地区に、少なくとも八百万人以上の会員が所属して日々、活動に励んでいます。中心者である地区部長、地区婦人部長の人数も大変な数です。
学会は実質的には、これらの宗教的信念の強固な地区の責任者や活動家によって支えられているのです。
学会の土台であり最先端である地区で活躍する会員の気持ちを最もよく理解しているのが池田会長です。
どれほどの労苦か、どれほどの思いで学会を支えているのかを命に刻むような思いで感じています。だれよりも現場の現実を手に取るように分かっています。
だからこそ、会長の言葉はダイレクトに会員の心に響き、地区の発展の原動力となるっています。
この池田会長と会員の結びつきが、実感できない人が学会批判をしても、妄想の批判であり、何の影響力もありません。
余談になりますが、このことは学会に限ったことではないでしょう。
あれこれと、つまらないことでいざこざが起き、業績が伸びないような会社の社長は、たいてい現場とそこで働く社員の気持ちが理解できていないものです。
どのような企業や団体であったとしても、長が組織の最先端まで目を届かせておかなければ、発展しないのは組織の常識といえます。
池田会長は、組織がどれほど巨大になろうが、視線が最前線から離れることはありません。
それは自らの手で、現場を走り回って、現在の学会を築き上げたからです。
内部告発者たちが、学会の本質が理解できないということは、そのまま、池田会長の心が理解できていないということにほかならないのです。
告発者たちは、口先やマスコミ向きには、いかにも学会や池田会長のことについて誰よりも知っているようなふりをしていますが実は、全く理解をしていないのです。
第三の共通点は、
「一方は賛嘆し、他方は批判して分断を企てる」
ということです。以前からある内部告発のパターンです。
「池田会長は素晴らしいが、取り巻き連中が低レベルでだめだ」
「末端の学会員は純真で良い人が多いが、上層部が腹黒く、組織を食い物にしている」
「学会員は真剣に選挙活動するが、狡猾な公明党の議員は会員をうまく利用しているだけだ」
「池田会長のカリスマ性に、お人よしの下の者は皆、だまされている」
「日蓮大聖人の教えは素晴らしいが、学会の修行方法には間違いが多い」
この様な内容です。
言うまでもなく、正面から対決すれば全く勝ち目がないので、姑息に内部を切り崩そうとする意図から出てきた作戦です。
こうすれば初めから、何割かの学会員を取り込むことができると思っているのです。
実は鎌倉時代、日蓮大聖人の信者の中にもこのような類いの人がいたのです。大聖人はそのことを次のように書いています。
「日蓮御房は師匠にておわせども、あまりに強(こわ)し、我等はやわらかに法華経を広むべし」
これは当時の信者の一部が、大聖人の修行方法を批判して、分派を作ろうとした時の言い分だとして、書き残されています。言っていることは、
「仏教の真髄である法華経を広めることは素晴らしいことだが、日蓮大聖人の活動方法はあまりに過激すぎる。だから、世の中の人から大変な非難を受けたり、迫害されたりするのだ。われわれのグループは、批判されないようにゆっくりと活動をしていこう」
ということです。信仰活動をしている人たちの中で、不満を持っている人たちの機嫌をうまく取って、分派を作ろうとしているのです。
これに対して大聖人は、真実の仏道修行を知らない未熟者である、と厳しく戒めています。
さらに歴史をさかのぼり、平安時代にも、仏教において同じような記述が残っています。
書かれているのは法華秀句(ほっけしゅうく)という書物の中です。法華秀句は、日本天台宗の開祖である伝教大師・最澄(さいちょう)が著したものです。その中に、
「雖讃法華経・還死法華心」
(法華経を讃すといえども、かえって法華の心をころす)
とあります。これは、基(き)という中国唐代の僧侶が書いた書物を最澄が論破した文です。
「基は法華経を賛嘆しているが、自分の都合のよいように解釈して利用しているだけだ。法華経を説いた釈迦の真意が、意識的に曲解されている。だから結果的に、法華経の教えの真実を破壊することになるのだ」
このように厳しく基の誤りを指摘しています。基にすれば、法華経の信者をも自分の宗派に取り込もうとしたのですが、その策略を最澄に見抜かれたということです。
法華経が素晴らしいということは誰もが認めるところだから、真正面から対決するのではなく、一部を偽善的に賛嘆して信者を分断し、自分の利益にしようとしたのです。
内部告発者が、
「一方は賛嘆し、他方は批判して分断を企てる」
という戦略は、長い歴史のある常套(じょうとう)手段であることがわかります。
姑息(こそく)な人間の心理から出てくるもので、昔も今も変わらない方程式だといえます。
学会の内部告発者の最後の共通点は、
「長い目で見ると惨めな人生を歩む」
ということです。
こんな、他人の人生を侮蔑するような言い方をするのは、甚(はなは)だよくないことは百も承知です。しかし、事実であるので致し方がありません。
これまでマスコミに登場してきた内部告発者や内部からの批判者というのは、多くの人数に上っています。
マスコミは、こういう学会批判者が出てくると飛び付いて、誇大広告のような記事に作り上げます。
また、記事には学会を陥れるような過激な見出しをつけて、電車の中吊り広告や新聞広告で特に大きく目立つようなレイアウトで宣伝してきました。
広告文だけ見ていると、学会はまるで、極悪非道で社会悪の象徴のような団体に思えてくるものです。
悪宣伝の材料を提供した内部告発者は、マスコミに取り上げられている間はチヤホヤされて調子に乗っています。
ところが、提供された批判材料が虚偽であることが明らかにされたり、世間の注目度がなくなったりすると、マスコミは簡単に提供者を切り捨てます。
マスコミにとって利益にならなくなれば、取り上げないのは当然です。使い捨てにするだけです。
俗悪な週刊誌においては、内部告発者が材料を提供した段階で、ガセネタと分かっていながら大々的に反学会のキャンペーンを張るところも多くありました。
そして、報道の虚偽性が追及された時には、
「まさか嘘の話とは思わなかった。わが社もだまされた」
と逃げるのは、決まったパターンでした。
結局、マスコミに利用価値のある間だけ都合のよいように利用されて、後は見向きもされず、惨めな生活をしなければならないのが現実です。
日本のマスコミが、先進国に比べてレベルが低いことは、よく知られているところです。一説によれば、五十年遅れているとも言われます。
その理由の一つに、マスコミに対する罰則の軽さにあると指摘する人もいます。
記事の被害者が告訴や訴訟を行ったとしても、刑事上の名誉毀損罪にしろ、民事上の名誉毀損にしろ、刑罰も賠償額も極めて低いのです。
最近では賠償額が高額になる傾向にありますがそれでも、欧米に比べれば極端に低いのです。人権問題などに対する日本の法律的な感覚はまさに後進国です。
だから、人格や名誉を傷つけるような記事を掲載したとしても、話題性が大きくて販売部数が伸びれば、損害賠償金を支払ったとしても、十分な利益が上がるということになります。
この格好の材料となったのが創価学会批判だったのです。
これまでの週刊誌が掲載した学会批判の記事を調べてみれば、いかに多いかがすぐに分かります。
特に何度も裁判になって、出版社が敗訴したにもかかわらず、その後も同じような学会の名誉を傷つけたり、池田会長の人権を否定するような記事を掲載しているのには、賠償金の少ないことと同時に、出版社の性格の異常性がよく出ています。
日本の週刊誌が、人権侵害や名誉棄損の記事を繰り返し掲載するのは、いくら敗訴したとしても、会社自体が経済的な大きな打撃を受けるようなことがないからにほかなりません。
利益のためには、社会正義を踏みにじるという前時代的な体質を持ち続けているのです。
欧米のマスコミが人権や名誉を傷つけた場合の賠償額は、その出版社の存続にかかわるほどの額になったりすることは珍しくありません。
だから出版社は人権感覚を高めて、細心の注意を払って記事を書いているのです。日本のマスコミは、前近代的な感覚に守られた井の中の蛙なのです。
余談になりますが、以前、誰でも手に取れる日本の週刊誌の中に、当たり前のようにヌード写真が掲載されていることについて、欧米の人々の感覚からすれば、蔑視されることが話題にもなっていました。
国際線の飛行機に、この様な日本の週刊誌は置けないというのです。日本人の週刊誌に対する感覚はおかしいということを知る必要があります。
この事にも少し関連しますが、日本のマスコミが低レベルである原因のもう一つは、この様なマスコミの存在を国民が容認しているということです。
国民のマスコミに対する意識が西欧諸国に比べてはるかに低俗であるということです。
例えば、週刊誌で、何度も人権侵害を繰り返し、その都度、裁判で賠償金を払ってきているようなものが、廃刊にならずに、現在も出版され続けているという呆れるべき現状です。
取りも直さず、そういう悪徳週刊誌を購入する読者がいるということです。
西欧先進国の読者は、出版社に対しても洗練された厳しい目を持っています。
もし、人権侵害の記事を掲載する日本のような週刊誌が、西欧で出版されたとしたら、その週刊誌自体を購入しなくなると同時に、発刊している出版社に対しても不買運動が出てきて、倒産する可能性も出てくるでしょう。
日本人の人権意識は歪んでいます。
例えば、学校の校長が趣味で、小学生にお金を払って、ポルノ写真を撮って集めていたのが発覚したら、懲戒免職になるでしょう。この校長がたとえそれまでどれほど素晴らしい教育的業績を上げていたとしても、この一事ですべての信用は失墜し、仕事までも失うことになります。
これに対して週刊誌が、ある人の事実無根のハレンチ記事を掲載して、著しく人権を傷つけたとします。
その人は、一家の父親で、妻も小学生の子供もいたとします。
週刊誌の影響は大きく、地域や学校や職場など広範囲に渡ります。子供は学校でいじめを受け、妻は地域で奇異の眼で見られ、本人は職場で仕事もできなくなるかもしれません。
訴訟を起こして勝訴したとしても、わずかな賠償金の支払いと謝罪記事の掲載をするくらいです。その謝罪記事も目立たない小さな窓のようなものです。
関係者以外に目を止める者はいないでしょう。
結果的に虚偽の記事であったとしても、傷つけられた人権の回復はなされないのです。
これは誇張された話ではありません。現実には悪質な週刊誌によって人権を傷つけられた人の被害は、こんなものでは済まされないのです。
そうであるのに、この週刊誌も出版社も廃刊や経営破たんにならずに発刊を続けていくことができるのです。
それは、読者が、悪質な記事を掲載したとしても、同じように購入しているということです。
懲戒免職になった校長と悪質週刊誌に対する対処は天地雲泥の差です。
「訴訟が怖くて週刊誌記者が務まるものか。少々、名誉棄損でやられたとしても、それ以上のスクープで世の中の役に立っている」
などと思って、多くの読者が、前近代的な感覚で悪徳週刊誌を買い続けているわけです。
もし、懲戒免職になった校長も、辞めさせずに学校での勤務を続けさせたとしたら、優れた教育効果を上げることは十分に可能であったかも知れません。
ところが校長にはそれを許さなかった。これが日本人の当たり前だと思い込んでいる、週刊誌に対する一般的な考え方です。
この考え方の根本には、日本人の閉鎖的な国の歴史の中で培われた、
「長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰・お上に従順」
といった思想的な体質があります。裏返せば、
「強い者には弱く、弱い者には強い」
ということでしょう。
日本人にとって、マスコミは「長いもの・大樹・お上」と例えられる強い者です。それに対して一人の校長は弱い者になります。
校長に対する仕打ちは当然やるが、マスコミに対しては容認する。この日本人の精神風土が悪徳週刊誌、マスコミの存在をはびこらせている根源です。
内部告発者は、反学会の旗印としてマスコミに都合よく利用され、話題性のある間はもてはやされます。
しかし、その人物を取り上げても注目もされなければ、販売増にもつながらないとなると切り捨てます。
ここに大きな問題があります。
告発した内容が真実であったのか、虚偽であったのか、また、真の動機は何かというようなことは、告白者の長期にわたる取材の中で明らかになるものです。
一時的な扇動的な取り上げ方では、真実が覆いかぶされてしまいます。
ところが、これまでに学会の内部告発者を長期にわたり徹底して取材したマスコミは、どこにもありません。
もし継続して取材をしたならば、学会側と告発者側の言い分のどちらが、社会的良識にかなっていたのか、どちらが正当だったのかは、おのずから明らかになったはずです。
さらに内部告発者の、マスコミから用済みにされた後の生活、仕事、人生などをつぶさに見てゆくと、侘びしく惨めな色にぬりつぶされている場合が多いことも分るでしょう。
そうすれば、いったい、あの内部告発は何だったのかが、少しなりとも明らかになるはずです。
ところが、いまだかつて、そこまで徹底して長期にわたって、一つの学会批判について追求してきたマスコミはありません。マスコミが取り上げた目的は、自社の注目度が上がり、販売が増加することであり、告発の正邪などは、どちらでもよかったからです。
ただ、以前は、このようなマスコミの傾向は非常に強かったのですが、現今では、学会批判の報道や記事は、それほど費用対効果が上がらなくなりました。
だから、下火になってきているのです。
最後に、近年の内部告発者の一例を挙げておきます。
その内部告発者は、聖教新聞社の職員であり、創価学会の幹部でもありました。
批判を始める前までは、学会の、信心してない人も集まってくる会合に、講師とし出席をしていました。あちらこちらの会場に登壇していました。
講演の目的は、信心していない人に、信心の素晴らしさを理解して、入会を勧めるためのものでした。
講演の内容は、自慢話が多くて、学会や日蓮仏教への理解を得られるようなものではありませんでした。講演の後、未入会の参加者が学会に入会したという話もあまりありませんでした。
要するに、学会の会合の講師としては、どこかおかしいところがありました。
この人が、聖教新聞社内で、長年にわたって、経費請求上の不正を行っていたのが発覚したのです。それは、出張旅費の請求でした。請求書の中に、個人的な旅行の費用も多く含まれていたのです。金額は数百万に及ぶようでした。
その後、全額を返却しました。返却したということは本人が不正を認めたということでもありました。
新聞社はクビになりましたが、学会として退会処分とまではなりませんでしたので、会員としての席はありました。
この頃から、内部告発と称して学会批判を始めました。他の批判団体との連携を取りながらのことでした。
「池田会長は高齢で、判断能力はなくなっているので、それを良い事に、自分たちの都合の良いように学会を利用しているのが現在の原田会長の元の執行部だ」
「そんな不正な執行部が行う供養などに功徳はない。そんなところに金を差し出すより、生活が苦しくて困っている人に配布する方が、よほど人間として立派である」
「今の学会は人を救ってはいない。学会の活動をするより、様々な災害で被災した人のために、ボランティアをする方が、はるかに人を救う行動になる」
「池田会長の真に望んでいる学会に作り変えよう」
こんなことを公言するようになりました。公言するのにとどまらず、人脈を通じて、学会員を批判勢力へ引き込もうとしました。
批判活動の基本は、学会に籍を置いたままで、反対勢力を構築しようというものでした。
この人は、自分の犯した、不正経理請求という犯罪をひた隠して、
「現在の誤った創価学会を、師匠である池田会長の心にかなった正しい学会にするのだ」
と正義の権化のように振る舞っていたのです。
ただ、不正経理がバレた時には、詭弁(きべん)を使って、自分を正当化していました。
告発の動機は単純な話で、不正が見つかってクビにされた事を逆恨みして、仕返しをしているだけのことでした。
この人物にだまされた学会員の中には、学会に嫌気がさして、退会した人もいました。
この人物は、近年亡くなりました。
そのために、この人に影響されて退会した元学会員は、それこそ、「路頭に迷う」羽目になりました。そして、
「学会も反学会も、どっちもどっちだ」
と刺々しい気持ちで、うっとうしく毎日を送る状態になっています。
学会批判者の中で、内部告発者とか、元最高幹部とか、元学会本部職員などという人は、ほとんどの場合、上に挙げた例と同じです。
皆、すねに傷を持っているのです。悪事を働いて、後ろめたく隠していることがあるのです。
その傷を、正義のためとか、学会員のためとか、師匠のためとか、さらに世の中のためとかと言って、都合よくごまかしているのです。
こういった人たちを支援する人がいることもまた事実です。
支援するのは自由ですが、中心人物である批判者の傷の実態を、正確に把握することをおすすめします。
そうすれば、学会を批判し、告発しようとする本当の動機が、ごまかされずに明確に分るからです。
そうしないと結果的に、「バカを見る」ことになってしまうのは、火を見るよりも明らかです。
創価学会も、今年(2020年)で、創立90周年を迎えました。
これまでの歴史は、まさに、いわれなき非難中傷との闘争の連続でした。
別の面から見れば、学会批判者が、いったいどのような人物であり、批判の内容はどのようなものであり、どの程度の期間がたてばどのような結果になるのか、ということについては、知悉(ちしつ)するに至っています。
現在、批判を繰り返している扇動者や支援者の人は、今やっていることが、新しい次元の批判のように錯覚しているかもしれませんが、学会の歴史を振り返れば、過去と同じ轍(てつ)を踏んでいるに過ぎないということがすぐに分ります。
そうであるならば、当然ながら、その結果は未来を持たずとも、分かっていることなのです。