創価学会の正本堂に関係した、「板まんだら事件」とはどういうものか。

ここで1つ、言葉の不適切さを指摘しておきましょう。
「板まんだら事件」と書いていますが、
現在の一般的な感覚からすると「事件」という言葉は、
刑事事件か、それに類するような出来事に使いますねぇ。

ところが、この「板まんだら事件」は、一般的感覚の「事件」ではなく、
単なる「寄付金返還訴訟」の民事裁判なのですねー。
だから、「事件」というのは、現代の言葉感覚では、
不適切なのです。
「事案」とでも言うべきところでしょうねぇ。

ところが、法曹界では、当たり前に使うわけです。
ここに何か、法曹界のつまらない、
自尊心のようなものが感じられますねぇ。

ちなみに、枕草子の冒頭部分には次のようなところがあります。

『雁などの列ねたるがいと小さく見ゆるは、いとをかし』

ここの「をかし」は、現在使われている、
「おかしい」のもとになる言葉ですねぇ。

時代とともに同じ言葉でも、
意味する内容が変わってくるものですねぇ。
言葉の使い方も、時代の流れに合わさなければ、
時代遅れとなり、
正確に社会的な役割を担うことができなくなります。

さて、板まんだら事件は、次のようなものですねぇ。

第一審判決
寄附金返還請求事件
東京地方裁判所
1975年・昭和50年10月6日 民事第35部 判決
原告 松本勝弥 外16名
被告 創価学会
【主文】
    原告らの訴を却下する。
    訴訟費用は原告らの負担とする。

この裁判は最高裁までいきましたねぇ。
それで最高裁の判決は下記の通りです。
高裁の判決は省略しますよ。

1981年・昭和56年 最判昭56.4.7:板まんだら事件
【主文】
    原判決を破棄する。
    被上告人らの控訴を棄却する。
    控訴費用及び上告費用は被上告人らの負担とする。

事の発端は、正本堂という仏教建築を日蓮正宗の中心寺院である、
大石寺(静岡県)の境内に建設したことにありますねー。
そのための、正本堂建設委員会が設置され、
委員長には第3代池田会長が就任していますよ。
だから、日蓮正宗のなかには複数の信徒団体がありましたが、
正本堂建立は、創価学会が中心となったと言って良いわけですねー。

そして、1965年(昭和40年)10月9日、この日から4日間、
正本堂の寄付の受付が行われました。
その金額が、創価学会以外の信徒団体は、4億7169万8427円、
創価学会が、350億6430万5882円で、
総額、355億3600万4309円となりましたねぇ。
この正本堂は1972年に完成しました。

この時、原告たち、創価学会員17人は、最高200万円、
計541万8805円を寄付しました。
この寄付金を返せという裁判なのですねー。

その根拠として、次の2点が挙げられていますねぇ。

①創価学会は、正本堂に安置する本尊すなわち、板まんだらは、
日蓮大聖人の真筆と言って、寄付を募っている。
ところがその後、その本尊を調べてみると、
日蓮大聖人の真筆ではない、ということがわかった。
被告は、虚偽によって寄付を募ったのだから不当であり、
寄付金を返却せよ。

②創価学会は、「正本堂が完成した時点を広宣流布すなわち、
日蓮仏教が国に完全に広まった時である」と言って、
寄付を募っている。
ところがその後、この言説を翻して、「正本堂完成の時点は、
広宣流布の達成時期ではなく、途上である」、
と主張している。虚偽によって寄付を募ったのだから不当であり、
寄付金を返却せよ。

まず1点目については、創価学会が日蓮正宗の板まんだらについて、
偽物だとは言っていないのですねー。
実は、このまんだらが「偽物である」という説は、
ずいぶん以前から、いろいろな方面から言われていることなのですよ。

この板まんだらは、時代考証的にも、
歴史的資料を検証しても、偽物の可能性が高いのですねぇ。

注目すべきは、後に、日蓮正宗の最高責任者になった僧侶でさえ、
偽物と考えていたのですよ。
第67世法主になった日顕住職が、1978年2月7日に、
次のように語ったと記録されています。

「戒壇の大御本尊は偽物である」
「様々な方法の筆跡鑑定を行なった結果、わかった」(河辺メモ)

偽作説があるにもかかわらず、現在まで、日蓮正宗は、
未だに、放射性炭素年代測定法という、
科学的な調査をしないのですねぇ。
だから、余計に本物かどうか疑われるわけですねー。

原告は、以前からあった偽作説を、
根拠としてあげたわけですねー。

2点目については、確かに、
正本堂の意義を変遷させたところがありましたねぇ。
これも、変遷させたのは、創価学会ではなく、日蓮正宗でしたよ。

最初、正本堂の意義について、日蓮正宗は、
「正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、
広宣流布の達成である」
と明言していました。
ところが、しばらくしてから次のように表現を変化させたのですねー。

「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む、
現時における事の戒壇なり。
即ち正本堂は広宣流布の暁に
本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」

これは、「正本堂完成時は、広宣流布の状況ではなく、
広宣流布は、後年に達成されるべきものである」
ということなのですねー。

このことについて原告は、「言ってることが違うではないか、
金を返せ」と言うわけですねー。

ほとんどの創価学会員の人は、広宣流布というのを、
『大智度論』の「舎衛の三億」の例で、次のように捉えていましたねぇ。

【舎衛の中に9億の家あり。3億の家は眼に仏を見え、
3億の家は仏ありと耳で聞くも眼では見えず、
3億の家は聞かず見ず、云々】

これは、広宣流布というのは、一国の中で、
「国民の3分の1が信仰を保ち、
次の 3分の1が信仰はしないが賛同者となり、
残り3分の1が、信仰に反対するか、理解がない」
という状態ですねー。

だから学会員の人は、正本堂が完成したとき、
このような広宣流布の状態ではないということくらい、
皆さんが知っていたわけですねー。

その上、広宣流布の定義も、
「到達点であるとともに、広宣流布に進む、
流そのものも広宣流布と言える」
と考えていたわけですね。
ところが原告の人にとっては納得できなかったわけです。

さて、最高裁の判決の論理を見てみましょう。
まず前提として、創価学会の正本堂への寄付金募集活動は、
旧統一教会のような、信者を反社会的な強迫観念や、
恐怖心に陥れて行ったものではないということですねー。
すなわち違法性はなかったということです。

その上で、結論としては、 ① ②ともに、
「宗教的価値判断にゆだねられる分野であり、
法律の支配下に置かれるものではない」
という判決になりましたねぇ。

それで判決主文、
「原判決を破棄する。
被上告人らの控訴を棄却する」
ということになったわけです。

「原判決を破棄」というのは、東京高等裁判所の、
「宗教上の行為でも、それに伴って財産上の権利に紛争が起きた場合は、
裁判所の審判の対象になる」というものだったのですねー。
その高裁の判決が破棄されたわけですから、
創価学会は、寄付金を変換する必要はない、ということになったわけです。

確かに、寄附金返還請求という事案は法律の判断の対象ではあるけれど、
返還の根拠が発生するかどうかは、極めて宗教的な要素によって、
判断されるものですねぇ。

①で言えば、板まんだらが日蓮大聖人の真筆であるかどうかは、
信者が、真筆であると信じれば、真筆になるでしょう。
逆に、偽作であると疑えば、偽物になるでしょう。
信じる側が決めるべきものであって、法律で決めるべきものではない、
ということですねー。

②で言えば、広宣流布の状態にあるのかどうかも、
上記と全く同じですね。
広宣流布であるかどうかは、信仰心によってとらえるものであり、
これもまた、社会科学的、法律的に、
決定すべきものではないということですねー。

以上が、「板まんだら事件」と言われるものの内容ですねぇ。
最終的に、創価学会が最高裁で勝訴した裁判でした。
この裁判は、単なる創価学会への寄付金返還訴訟という域を超えて、
「宗教性はどこまで、裁判所の審判の対象になるか」
という普遍的な法律問題として注目をされたものでしたねぇ。


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