一般的には、宗教と科学は相いれないもののように思われがちです。
科学は文字通り科学的であるのに対して、宗教は非科学的だという見方が多いからです。
このような認識をされる根拠には、宗教観が大きく影響しています。
確かに非科学的で不合理な宗教も多くあります。
しかし、宗教にも高低浅深があるのは言うまでもありません。
「イワシの頭も信心から」
こんなことわざがあるように、何にでも信仰心を持てば、ありがたくなるというレベルの宗教から、体系的に理論付けられた膨大な宗教哲学を依拠(いきょ)にしているものまであります。千差万別なのです。
現代人は合理的で科学的な世界に生きているといえます。
人間の精神状態としてあまりにも合理的、科学的な生活環境の中で生きているとストレスを感じてくるものです。
そのストレス解消には、非合理で非科学的な宗教が求められる場合もあります。お宮参りや寺院の参拝をして、子供だましのような行為をして、なんとなく心が満たされるような雰囲気を味わったりします。
科学的、合理的に考えれば、さい銭を投げ入れて、お祈りをするというようなことで、本当に願い事がかなうなどとは思ってはいません。しかし、その不合理さゆえに心がホッとするのです。
心霊スポットなどに人気が出るのも、同じ類です。
ほとんどの人が、自分の将来の生活について、現状から考えれば、大きく良くなることはないと思っています。逆に不安を抱えている人も多くいます。
その中での宗教的な行動というのは、あまりにも未来が明確になりすぎる現代の日常生活の中で、その延長線上にある予想を、合理性を超えた何かによって、望む方向へ変えたい、という希望の表れでもあります。
もちろん、《何か》の力などは、ないとは思うけれども、あれば良いのに、と思うことによって慰められるのです。
こういうことが現代の宗教の役割だと考えている人も多いでしょう。
確かに、目に見えないものの存在を信じるという点では、宗教と同じと言えるかもしれません。
しかし、ストレス解消や漠然とした期待感を得るためであれば、宗教に限ったことではなく、芸能やスポーツ、占いやおみくじなど、他のことでもいくらでも可能です。
これが宗教の働きだと思うと、本来の存在意義を見失うことになります。
宗教は、宗教にしかできないことがあるからこそ、宗教というのです。
現在の日本の宗教事情は、あまりにも形骸化したものが多く、それが宗教の当然の姿であると錯覚され、宗教の本質が理解されにくい状況にあります。
そうなった根本には、宗教は非科学的なもの、非合理的なもの、という固定概念があります。
確かにもし、宗教が科学と相容(あいい)れないものであれば、現代の科学の発達した社会においては、宗教はすでに過去の遺物でしかありません。
これが宗教とすれば、ノスタルジックな心の慰めくらいにしか、役立たないでしょう。本来の宗教の姿とは、まったく異なっています。
結論的に言えば、現代から未来へ、本来の宗教の働きをなすことができるものは、科学的で合理的な宗教でなければならないといえます。
そうすると、現代に通用する宗教とは、何なのかということを検証する必要性が出てきます。
まず最初に、ふるいにかけるべき観点は、その宗教を誰が作ったのか、ということです。
「宗教を作る」という表現をすると、違和感を持たれる方がいるかもしれません。しかし、考えてみてください。人類が発生した時には、宗教などというものは無かったのです。
それが、いつの間にか存在するようになった訳ですから、誰かが「作った」事に、間違いないでしょう。
問題は、その「誰か」です。もし、その宗教を作った主体が、人間を超越した神、仏、天などというものであったとしたら、その時点で非科学的と判断できます。
また、実際にその宗教の教えを文字として書いたのは人間であったとしても、人間は単なる媒体者で、内容は超越者の意思をそのまま書いたのだ、というのも同じです。
この類の宗教は、人智を超えた全知全能の超越者に、お願いをして願いを叶えてもらうものです。いわゆる、「おすがり信仰・他力本願」といえるものです。
最大の誤りは、その宗教に対する責任を人間が取るのではなく、非科学的で不合理な超越者がとるということです。
人間に責任がなくなるほど、ある意味で危険なことはありません。
例えば、テロリストが「〇〇の神は偉大なり」と言って殺人を犯します。殺人者は、神の教えの通りに殺したのであって、自分の意思ではありません。そうすると当然、殺人者に罪がないどころか、逆に神にほめられる英雄となります。
日本の太平洋戦争の終盤に、「〇〇万歳」と言って、特攻隊が飛行機で敵艦へ突撃して自爆しました。
自爆することが、国家神道に対する忠誠であり、ほめたたえられるべき英霊となったのです。
どちらにしても、人間を超越した絶対者の存在を認める宗教は、人間としては都合よく責任転嫁することができるものであり、責任を取るべき超越者、絶対者は、科学的合理的に存在を証明することができず、結果的に、どのような深刻な事態になったとしても、誰も責任を取らないということになるのです。
人間を無責任にするのです。
こういう宗教は、必ず、人間を手段化します。人間のための宗教ではなくて、絶対者のための宗教なのです。絶対者のために人間が存在するのです。絶対者が目的で、人間は手段にしか過ぎなくなるのです。
こういう非科学的な、誤った宗教によって、人々は、どれほど多くの殺し合いをしてきたことでしょう。
実に皮肉なことには、絶対者や超越者は、他でもなく、人間本人が作り出したものであるということです。
非科学的な絶対者を信仰する宗教は、人間を不幸にするというのは、歴史が証明してきたところです。当然、豊かな未来の基盤になるような宗教ではありません。
ところがこれまでに、幸福になれると宣伝する宗教が、世の中には多く出てきましたが、それらはすべて、絶対者やそれに類するものの存在を作りあげています。到底、世界宗教として未来に渡って存続し得るものではありません。
ところで、科学的で合理的な宗教というと、これまでの宗教のイメージと変わってくるかもしれません。しかし、科学が発達することによって否定されるような宗教は、これからの時代に存在意義を持つのは、難しいでしょう。
例えば大昔、雷に驚いた人間は、人智をはるかに超えた神が怒っているのだろうと考えました。それで怒りをおさめるために、神の許しを請う祈りに努めました。
ところが、フランクリンが出てきて、科学的に、雷は電気放電であることを証明しました。
そして、被害を防ぐために、神へ祈りを捧げるのではなくて、避雷針を作りました。こうして雷には宗教的なものなどは全くないことが分かりました。
科学の発達によって、雷は神の怒りである、という宗教の存在意義はなくなったのです。
それでもなお、実際には、雷を神の怒りだと信じたい人もいます。これを迷信、狂信、妄信といいます。
科学性や合理性に背中を向けて、時代の流れも無視して手を合わせています。愚かと思うかもしれませんが、現在の多くの宗教施設で行われている行事のほとんどはこの類いのものです。
愚かさを指摘すると、
「何を信じようが自分の勝手だ。信教の自由だ。宗教は個人の人権問題だ。他人が口出しすべきものではない。なにより、信じる、という心が素晴らしいではないか」
などと反撃をしてきます。
確かに、何を信じても個人の自由ですが、それによって個人や社会に大きな迷惑や危険をもたらした宗教団体がいくらでもあったことを忘れてはいけません。
本来、真実の宗教と科学は対立したものではありません。科学が発達するにつれて、宗教の正しさが証明されるものです。
例えば医学と宗教の関係を見ればよく分かります。医学が発達して、肉体についてどれほど解明されたとしても、生命そのものにはまったく届きません。
医学が発達すればするほど生命の奥深さ、不可思議さが明らかになってくるのです。生命の存在は宗教的なものであり、医学の延長線上にはないことが分かってくるのです。
どんなに医学が発達しても、特定の個人の生命が、特定の時期に、特定の場所に、特定の両親から生まれる理由は分かりません。
一人の人の両親を永遠にたどっていくならば、その人の生命がこの世に誕生する確率は、無限に小さくなるでしょう。奇跡と同じです。
その生命に、何の意味があり、何の使命がるのか、ということは、医学の範疇(はんちゅう)ではありません。同時に、医学の発達と矛盾するものでもありません。
そして、自分の存在意義は、もはや宗教的次元でしか捉えることはできないでしょう。
命の存在は、医学や科学が発達すればするほど、不可思議さが深まります。その不思議さを含めて、初めて命とは何かが全体として捉えられます。
だから、科学である医学は宗教を否定するものではなく、むしろ、2者が一体となって、実感をともなった生命の実体が把握されるものです。
また宇宙の存在も同じです。どれほど宇宙科学が進歩したとしても、宇宙の存在そのものを解き明かすことはできません。
人間の、さまざまな科学技術を用いて宇宙を見る目は、いくら高性能になろうとも、無限を見ることはできません。
宇宙は無限であると同時に、さまざまな星々が生滅を繰り返し、膨大なエネルギーの変換を持続しながら、永遠に存在しています。絶対的な存在ともいえるでしょう。
いったい、宇宙本体は、何をエネルギーに生々滅々を永遠に繰り返しているのでしょう。有るとか無いとかの科学的な観点から捉えられるものではありません、
そうすれば、まさに宗教的な捉え方がなければ、どうすることもできない存在です。
科学の進歩によって、次世代にも生きる宗教の方向性が明確になってきます。
その過程において、科学によって切り捨てられた宗教は、低俗さ故であり、現在から未来にわたって人々に満足をもたらすものではないことを意味しています。
科学の最先端のさらにその先にあるものは、「信じる」ことによってしか存在の確信をつかむことはできません。宗教が宗教たる所以(ゆえん)は、どこまでいっても「信じる」ことが根本になっています。
信じる精神作用がなければ、それは宗教とは言わないでしょう。
ただ、妄信や迷信のような信じ方をするのではありません。科学的な裏付けが、信じる働きの根拠になります。
それは例えてみると、アインシュタインが相対性理論を発表した時の様子に似ています。
ニュートン力学が物理学の常識として定着していた当時の学界にとっては、相対性理論は突飛な発想で、ほとんど信じる者はいませんでした。
しかし彼の、相対性理論の正しさを証明するための理論的な構築によって、徐々に人々の信用も得ることになりました。
提示された物理学の世界は信じられる範囲を超えたものでしたが、理性によって納得させる緻密な理論によって、人々は信じるに足るものではないかと思い始めたのです。
さらに、彼の理論が正しいことを全面的に認めさせたのは、日食などの観測を通して実証した実験でした。これにより、ニュートン力学の常識は覆(くつがえ)され、物質や宇宙の存在の認識に一大変革をもたらしたのです。
人間が何かを信じるためには、納得し得る理論的な、理性による裏付けがなければならないのは当然です。
時々、創価学会員はご本尊を迷信や妄信のように単純に信じている、と思っている人がいます。
また、学会本部の指導や方針に対してしても、一点の疑いもなく盲目的に従っている、と思われがちです。
こういう見方をする人たちは、人間や人間集団に対して、浅薄な考えの持ち主です。人間がそんなに簡単にものごとを信じるわけがないでしょう。
「このご本尊に題目を唱えれば、願いがかなう」
ご本尊とは、紙に書いた文字です。題目とは南無妙法蓮華経のことです。紙に書いた文字に南無妙法蓮華経と唱えたならば願いがかなう、などということを誰が信じるでしょうか。
学会や学会員に対する見方の基本的な誤りは、学会員が皆、簡単にご本尊を信じ込んで題目を唱えている、と思うことです。
このような見方をすること自体が、学会員に対する軽蔑の感情があることを示しているともいえます。
「学会員は愚かだから、あんなことが信じられるのだ」
一昔前の学会批判者にはこういう人が多くいました。
ニュートン力学から一歩も踏み出すことができない自分の愚かさが分からずに、学会員を見下しているのです。
学会員がご本尊や題目を信じるのは、それに納得できる科学的な裏付けがあるからです。理性に基づいた判断なのです。
「ご本尊は紙に書いた文字にすぎないではないか」
と批判する人がいます。
簡単な話ですが、もし「紙に書いた文字」には値打ちがないのであれば、書道などは無価値なものになります。
書道展などに行くと、優れた書に引き付けられて、いつまでも作品を見ていたいような気持ちにもなります。一文字一文字の筆の使いに感動することもしばしばあります。
書かれた世界に共感して、創作者の魂に触れたような喜びを感じる時もあります。これが無価値といえるでしょうか。
次元は少し違いますがが、ピカソの絵を見て、
「なんじゃこれは?子供の落書きだ。画布がもったいない」
などと思う人もいます。もちろん同じ絵に対して、億単位のお金を支払って購入する人もいます。この場合、ピカソの絵には価値があるのでしょうか、ないのでしょうか。
「猫に小判」
ということわざがあります。対象物に対して、その価値を理解できない人にとっては、無価値であり、意味を持たないものです。
ピカソの未発表の絵が見つかり、作者を公表せずに作品だけを展示して、不特定多数の人に見てもらい評価をしてもらったとします。
おそらく大多数の人は価値無しになるでしょう。高い評価をした人はほんの一部の、絵画に知識のある人に過ぎないでしょう。
この場合、多数決に従って、絵の評価は価値無しにするのが正しい評価といえるでしょうか。
そんなことはないのは誰でも分かることです。
絵や書の評価は、それぞれの分野に専門的な知識がある人ができるのであって、造詣(ぞうけい)のない人は評価する資格がないといえるます。まして、多数決で評価を決めるなどというのとは次元が違う話です。
日蓮大聖人はご本尊について、
「此の経の文字は皆ことごとく生身妙覚(みょうかく)の御仏なり。然れども我等は、肉眼なれば文字と見るなり。例せば餓鬼(がき)は恒河(こうが)を火と見る。人は水と見る。天人は甘露(かんろ)と見る。水は一なれども果報(かほう)にしたがつて別別なり」
と書かれています。内容を簡単に説明します。
恒河とはガンジス川のことですが、そこに流れている同じ水であっても、見る側の人間によって様々に見える、というのです。餓鬼というのは、欲望が満たされず、常に耐え難い飢餓感にさいなまれている人間のことです。
そういう人が見ると、滔々(とうとう)と流れる広大な川の水が、飢餓感をさらに燃え上がらせる炎のように見えるのです。普通の人は当たり前に水に見えます。
天人というのは、幸福感に満ちた人のことです。その人は命を育む不老不死の飲み物と見えます。
どうしてこのように、一つの水に対する見方が変化するのかといえば、果報が違うからだと教えています。果報というのは境涯であり、造詣(ぞうけい)の深さともいえるでしょう。
心の貧しい人にとっては、芸術などというのは無価値なものに思えますが、反対に、教養の深い人には素晴らしい芸術作品として享受することができます。
ご本尊をどのように見るのかも同じです。境涯が低く、本尊というものに対して造詣の無い人が見れば、無価値な紙に書いた文字にしか見えないのです。
「学会員は紙に書いた文字を拝む愚かな人間だ」
などという人は、自らの無知と精神の貧しさを自覚する必要があります。
学会員がご本尊を信じるというのは、ご本尊がどのようなものであるかを、科学的論理的に納得できるからです。誰かから「信じよ」と言われて、訳も分からないものを信じる人など、現代社会に居るわけがありません。居るとすれば迷信者、妄信者の類です。
また、学会員が題目を唱えることについて、
「オームのように同じ言葉を繰り返し唱えて、何の役に立つのか」
と非難する人がいます。これもご本尊に対する評価と同じです。
人間が音声を発するということには、どのような意味や働きがあるのか、また、同じ言葉を何度も唱えることにはどのような作用が含まれるのか、これらのことを本格的に研究すれば、題目を唱えることの意義が簡単に理解されるはずです。
単純な話ですが、音声を発することに意味がないのであれば、どうしてカラオケで歌を歌いたがる人が多いのでしょう。
同じ言葉を繰り返すのが無意味なのであれば、どうして同じ曲を何回も歌いたがるのでしょう。
声に出して題目を何度も唱える意義も、次元は違いますが、これと相通じるものがあります。
また、言霊(ことだま)信仰というものが、日本はもとより、世界の各地にあります。
例えば、記念すべき時に、神主がさまざまな状況の中で、神に対して祝詞(のりと)を奏上することなどがその一例です。
逆に、悪霊の働きを強める呪術的な言葉で、呪いをかけるということもあります。
身近なところでは、結婚式における忌み言葉なども挙げられるでしょう。
二人のめでたい結婚式に「別れる」などの言葉を使ってスピーチをすると、その影響で将来二人が分かれるようなことになってはいけないと縁起を担ぐのです。
日常的にも「おめでとう」という言葉を何回も言ってあいさつしていると、何となく、めでたくなったような気持ちがするものです。
またクラブ活動などで、試合の時に全員が声を合わせて、「頑張るぞ」と大声を上げれば気合が入るものです。
いずれも、音声として発する言葉というものは、単なる意思の伝達手段ではなく、それ以上の、目に見えない働きが備わっていると信じられているところからきています。
南無妙法蓮華経という題目も外形的には言葉を発声しているだけですが、そこには人間が音声を発することによって出てくる根源的な働きを伴っているものです。
学会のご本尊に向かって、題目を唱えることが科学的、道理的に納得できるからこそ、普遍性を持ち、多くの信者が誕生しているのです。
現在では、国として宗教を規制しているところ以外は、全世界のほとんどの国に学会員がいます。一千数百万人を超える人々が学会員として信仰に励んでいます。
人種、民族、国家を越えて、同じ本尊に、同じ題目を唱えているのです。
そして、それぞれが信仰の素晴らしさを実感できるからこそ、会員が増えているのです。
最後に、優れた宗教は、科学に反しないどころか、相通じるものがあることを見ておきます。
先程挙げたアインシュタインの相対性理論は、宇宙のすべてのものは、相対的な世界の中で存在しているということを示しています。
時間、重さ、体積なども、不変的で絶対的な基準はありえないのです。今、身の回りにある、時間の長さや物の重さや大きさなどは、絶対的なものではなく、宇宙の中で、地球という相対的な世界の中での数値に他なりません。
地球上のものを今度は、動いている別の星から見れば、時間、重さ、体積などもすべて変化します。
さらに、高速に近づけば、無限に時間は遅くなり、重さは無限大に重くなり、体積は無限に小さくなります。これを絶対的基準と言ってもいいのですが、「無限」ですから、確定値として表せるものではありません。
これが、実に大ざっぱな話ですが、相対性理論です。
ポイントは、宇宙という世界には、このような法則が存在しているということです。この法則性からは、宇宙にあるいかなる存在物も逃れられるものではありません。
宇宙は漠然として存在しているのではなくて、極めて厳格な、絶対的な法則性に基づいて運行しているということです。
翻って、日蓮仏教を見てみます。
題目の、南無妙法蓮華経は、梵語の漢訳です。元の梵語の読みは次のようになります。
「ナムサダルマフンダリキャソタラン」
表現の小さな違いは文献によって、いろいろあります。
「ナム」は、音をそのまま写して(音写)いますので、「南無」に当たります。
ポイントは次の「妙法」です。「サダルマ」です。日蓮仏教において妙法とは、宇宙の存在の根源をとらえたものです。
宇宙を「ダルマ」と捉える宗教は他にもありますが、当然ながら、内容的に高低浅深があります。ここでは、詳細は避けます。
日蓮仏教は、宇宙の本質を「法」ととらえたのです。しかもその法は、妙(たえ)なる法なのです。
法とは、狭い意味で言えば、法則と考えても良いでしょう。
アインシュタインは、宇宙を相対性理論という法則で捉えました。日蓮仏教は、宇宙を妙法という法則で捉えました。
この二つは、次元は全く違うのですが、捉え方の原理としては相通じるものがあります。
さらに、アインシュタインの光速についてのとらえ方は、日蓮仏教の題目の捉え方にも通じるものがあります。
アインシュタインの科学は、日蓮仏教の一部の特質を解き明かしてくれたとも言えます。
すなわち、科学の発達が、優れた宗教の正しさを証明することになっているのです。
ところで、大正11年(1922年)11月、アインシュタインは出版社の招待で来日しました。
そして、慶応義塾大学の講堂で、相対性理論について、講演をおこないました。
この時、51歳だった創価学会の初代牧口会長と22歳だった第2代戸田会長は、一緒に参加していました。
まだ、2人とも日蓮仏教への入信もしていなければ、当然、創価学会の創立もなかった頃のことです。