創価学会の組織については、昔から様々な批判がなされてきました。
典型的なものは、暴力団のような組織である、上位下達の組織である、ファシズムにふさわしい組織である、軍隊組織である、などがあります。いずれも、一つの方向に、個人の自由を束縛して、強制的に向かわせるというイメージのものです。いわゆる、全体主義的なものです。
もともと、組織は何のために作るのかと考えると、当然、目標に向かって、人と人との上下関係などを明確にすることによって、効率的に活動を進めるために必要なものです。
組織の目的は、利益であったり福祉だったり、趣味の共有であったり、町会の運営であったり、と様々です。どちらにしても、人と人との結びつきを深め、それを土台にして成り立っています。
創価学会の組織批判の中で、かなりの割合で、『創価学会の組織』ではなくして、世間一般の人間の組織に対して批判をしているものがあります。
「組織の中で自由がなくなる」とか「組織の中にいると個性が出せなくて、やがて無くなってしまう」
などというものです。
これは、創価学会の組織ではなく、一般的な組織について多かれ少なかれ、言えることです。
こういう人は、人間の社会的な組織自体が嫌いなのです。
しかしふと考えれば、現代社会において、何らかの組織に属さずに生きていくことは不可能です。
完全に、何の組織にも属さずに生きて行こうと思えば、国籍のない無人島で、ただ1人で生活するしかありません。
日本の国で生活していれば、日本国民としての組織に属します。当然ながら、海外に出国しようと思えば、種々の手続きをしなければ許可はおりません。好き勝手に国外に出れば逮捕されます。
家庭でも同じです。親子の組織というのは、親と子、それぞれの状況に応じて、扶養義務があります。それを無視すれば、法律違反です。
職場では、言うまでもなく、様々なしがらみのある組織の中で仕事をしなければなりません。
組織は好きとか嫌いとかで、逃げられるものではありません。無視するならば、現代社会の中で脱落するしかないのです。
わがままが通せるというようなレベルのものではなく、社会人なら当然、身につけていなければならない制度です。
創価学会の組織に対する偏見と悪意から、この一般的な組織論を悪用して、いかにも、学会に入会すれば、自由も個性もなくなるような批判は、組織に対する無知を露呈(ろてい)しています。
組織というのは、人と人との関係性や関わりの明確化であると同時に、様々な状況の中で、人と人とのきずなができる基盤です。
現代人の傾向として、自分以外の人間との関わりを極力、無くしようとする人が増加しています。どうしても係わらなければならない人、例えば仕事上で必要な人間関係など以外は煩(わずら)わしくて退けて、ほんのわずかな気の合う人とだけ付き合うという人が多くなっています。
その結果として、孤独死という、一昔前の日本では考えられなかったようなことが社会問題にまでなってきています。
一度、人間の原点に返ってみて、果たして人間には、他の人間との関係が必要なのかどうかを考えてみます。
まずは、外の世界との関わりについての実験です。
人間を、外界からの刺激を全て無くした中で生活させると、どうなるのかということは、以前、「感覚遮断実験」としてカナダやアメリカの心理学者が研究に力を入れていました。
実験装置は、真っ暗闇で、無音の部屋を作り、できるだけ人間の5感への刺激を無くさせるようになっています。後には、体温と同じ塩水で、人間が軽く動くようにして、重力までも感じさせないようにするものまでできました。
人間をこの装置の中に入れて、時間の経過とともに、どのような心理状態になるのかを実験しました。
様々な形態の実験がなされたわけですが、結果的に共通していることがありました。
まずは、夢と現実の境界が分からなくなるということです。頭の中に様々な事が想念として浮かぶわけですが、それが現実に起きていることなのか、単なる観念なのかという区別ができなくなります。また多くの人が、幻覚を見るのです。
簡単に言えば、自分が今、目が覚めて起きているのか、それとも眠っているのか分からなくなるのです。
次には、客観的な時間の経過が分からなくなります。何人かの被験者が、同じ時間を実験装置の中で過ごしたにもかかわらず、装置から出てきたときに、滞在期間を尋ねると皆、バラバラの時間になります。
時間の物差しが、外の世界ではなく、自分を中心にした感覚で、都合の良い経過時間を感じることになります。
これらのことから分ることの一つは、人間は外からの刺激がなくなると、自分の実態を客観的に正しく把握することができなくなるということです。
例えて言えば、自分の顔は自分で見ることはできませんが、鏡に映すことによって、実際の姿を見ることができます。
鏡は、外界の刺激であり、客観的に自分を見る他者の眼であるといえるでしょう。
これは、教育上では重要な観点になります。
幼少期に親が、我が子を勉強のできる子にしたいということで、友達と遊んだり、喧嘩したり、一緒に作業をするというような時間を減らして、塾通いをさせたりすると、子供は自分を客観的に見ることができなくなります。
子供は他の子供たちと接触する中で、怒られたり、ほめられたり、笑われたりすることによって、無意識のうちに自分の客観的な姿を自覚しているのです。
幼少期にこの体験をしないまま成長すると、自分で自分を見誤ってしまうのです。
その典型は、自分は他の者よりも優れている、という自我意識です。これには親の心が投影しているものが多くあります。
他の子供たちと一緒に活動していると、このような自我意識は友達から攻撃をされて小さくなり、現実の自分の姿を自覚できるようになります。
根拠のない自尊心ばかりが増幅すると、それを傷つけるような現実に直面すると、脆(もろ)くも精神的に崩れてしまうものです。
いくら勉強ができたと言っても、他に、より優れた子供はいくらでもいるわけですから、自尊心を傷付けられる状況はどこにでもあるといえます。
現在まで、30年以上、同じ校種(小中高)の教壇に立っている教員に、
「30年前と現在の子供と何が最も違うか」
と尋ねると、ほとんどの教師は、
「この30年間で、子供の精神が非常に弱くなった。30年前の子供であれば、なんでもなかったような刺激に対して、最近の子供は、すぐに精神が破綻(はたん)してしまう。これは、驚くほどの違いだ」
と答えます。
最近の子供は、子供なりの組織の中で、人間と人間との深い触れ合いが少なくなっています。これは、教育上に大きな欠点を残すことになります。
こういう子供は挫折すると、不登校になる場合があります。さらに年を経ると、不登校の状態が成人になっても続いて、現在、社会問題になっている、中年のひきこもりにまで進んでいく場合もあります。
教育現場は、将来の日本の社会を予測させるものです。過去の小学校の現場を見れば、現在の社会は予測できたものであり、現在を見れば、未来もまた確実に予見できるものです。
中年の引きこもりの人に対する、本格的な調査はまだなされていません。行政としても、社会学的な立場からも、さらに心理学的な面からも、早急な対応が望まれるところです。今後、中年ひきこもりは、何も手を打たずに解決するということはありえません。
それは、小学校、中学校の過去の状況を調べれば分ることです。
中年ひきこもりの調査結果はありませんが、そのうちの多くの人に共通していることがあります。
それは、
「自分が今のようなひきこもりになった原因は、親の育て方にある。自分の人生をこんなにダメにしたのは、親の責任だ。悪いのは全て親だ。取り返すことのできない自分の人生をどうしてくれるんだ」
というものです。
意外に思うかもしれませんが、このような怨念(おんねん)をもって引きこもっている人が、実に多いのです。
こういう人は、自分が世間一般から見て、どのような人間なのかということが分からなくなっています。
客観的に鏡で映し出すような自分の姿を認識することができないのです。
「中年にもなって、親の責任にする者がいったい、どこにいるか。同じような環境で育った者が皆、立派な社会人になっているではないか。自分の不甲斐(ふがい)無さを他人に責任転嫁するのはやめろ」
と言い聞かせても、一向に自分の客観的な社会的姿を認めようとしません。
基本的な精神構造として、幼少期に、他の人間とのぶつかり合いがなかった事によって、自分の客観的な姿が認識できなくなったことにあります。
人間が成長するためには、好き嫌いにかかわらず、他の人間との組織的な関わりが、必要条件となるのです。
組織的な人間との関わりを面倒くさいとか、時間が無駄だとか、自由を束縛されるとかいう理由で、人格形成期に避けると、自分を客観的に見ることができず、自己中心的な見方しかできない人間になってしまいます。
創価学会の組織批判をする人の中には、このような人間の組織に対する誤った認識から、あたかも創価学会が異常な組織であるかのような批判をしている人が結構な割合でいます。
世間に通用しない、批判者本人の社会性のない人格から出てきた批判であるといえます。
続いて、人間という動物は本来、集団行動するものなのか、個体行動するものなのか、考えてみます。
日本は超高齢化社会に突入しています。今までに経験したことのない、様々な社会現象が起きてきます。マスコミも、このテーマをしばしば取り上げています。
国立社会保障・人口問題研究所は、「日本の世帯数の将来推計」を発表しました。
それによると、2040年には、単身世帯が4割に達します。1980年代には、「夫婦と子供」の世帯が4割以上で最も多かったのです。
それを追い越して単身世帯が増える最も大きな原因は、高齢者の単身世帯の増加です。
日本の社会は、高齢者の一人暮らしが急速に増えていく状況にあるわけです。
そこで課題となるのは、高齢者の他人との関わり方です。
日本福祉大学・社会福祉学の調査によると、次のような事が分りました。
他者との交流が、週1回未満の高齢者は、要介護や認知症になる危険性が、毎日、交流している人よりも、約1.4倍に高まる、ということです。
さらに、月1回未満の乏しい交流の高齢者は、認知症の危険性は約1.5倍に増え、死亡リスクも1.3倍となるのです。
これらの結果を踏まえ、研究者は、
「人付き合いをどうするかは、個人の価値観によるが、孤立状態が健康に悪影響を与える可能性があることを知って欲しい」
と述べている。
また、東京医科歯科大学の報告によると、
「1人で食事する高齢の男性は、家族らと一緒に食べる人に比べ、死亡のリスクが1.5倍に高まる」
という研究発表をしています。
さらに、東京大学・保険社会行動学の研究者は、
「日常生活でほとんど笑わない高齢者は、ほぼ毎日笑う高齢者に比べ、脳卒中の経験がある割合が1.6倍、心臓病の割合が1.2倍高い」
という研究結果を発表しています。
これらの調査研究によって明らかな事は、結論的に人間という動物は、個体行動をとるものではなくて、集団行動をとるものであるということです。
人と人との間関係性の中で生きることができる動物なのです。
本来、集団行動をとる動物が、固体行動を取り始めると、どうなるかというと、種族消滅の方向に進むといえるでしょう。
パロディ的に言えば、現在の日本の人口減少は、人間の本来あるべき姿に反して、個体行動をとるようになった結果であるといえます。
人間は何らかの社会的な組織に属して、その中で生きていくのが当然の姿といえます。ところが、現在の日本人の傾向性として、人間関係を楽しみと捉えることができずに、負担に感じる人が増えています。
だから結果的に、必要最低限の人間関係にして、平穏を保とうとしているのです。
これは、小学中学高校で、同級生との人間関係をうまく保つことができずに、トラブルになり、嫌な思いを経験して、できるだけでそういうことから逃れようとする子供の心と同じです。
一昔前までは、「人間関係に悩む」と言えば、大人の世界の話であったのですが、現在では子供たちの間で深刻な問題となっているのです。
そしてその子供たちが成長して、大人の社会の中で生きているから、子供の頃と同じような状況が現在の社会の中に出てきているわけです。
これらの、子供も大人も含めた社会問題の根本には、本来の人間のあるべき集団行動の形態に対して、本来の姿ではない個別行動の方向に、社会全体が進んでいることが大きく関係でしています。
創価学会の組織は、個別行動の傾向性のある人から見ると、批判の対象になります。
しかし、本来の人間のあるべき姿に合った組織形態を形づくっています。
何度も言いますが、創価学会は現実の社会の中にしっかりと根を張った組織です。偽善的な理想郷を作っているわけでもなければ、独善的なカルト教団でもありません。
阿弥陀仏のいる極楽浄土にあるのでもなければ、神様のいる天国に存在しているのでもありません。
四苦八苦しながら生きている生活の場そのものが、学会の組織の土台なのです。
学会の活動家の、日常の行動を見れば、創価学会の組織とは何かがすぐに分かります。
仕事を持っている人も、持ってない人も、本来であれば自分の自由になる時間を学会活動に充てています。
日常的に最も時間を使っているのは、家庭訪問です。訪問する相手は、学会員であるとないとに限りません。
会合などに参加している時間よりも、はるかに訪問にかける時間の方が長いのです。
何のための家庭訪問なのか。目的は一つです。相手に幸せになってもらいたいからです。まだ入会していない人には、学会に入って信仰すれば、様々な苦悩や困難を乗り越えていけるようになる、と勧めます。
入会している人には、様々な相談を受けながら、信仰の力を現実の生活の中に出せるようにアドバイスをします。
もし、政治的に解決するものであれば、公明党の議員につないだりもします。
この基本の活動を地道に、丁寧に繰り返します。「おせっかい」と捉えられることもしばしば、実際にはあります。
しかし、あまり身寄りや友人もなく、訪れる人がほとんどいない独居老人の方への訪問は、非常に喜ばれています。
「おせっかい」と初めは思った人からも、何度も顔を合わしてるうちに、仲良くなり、頼りにされることも多くあります。
学会の活動家の方が、単身世帯の方へ家庭訪問した時、玄関に鍵はかかっているが、何かおかしい事に気づいて、警察官とともに家の中に入ってみると、家の中で倒れているのを発見して、すぐに救急車を呼んで、命拾いしたということも、かなりの頻度(ひんど)であるのです。
残念なことに、孤独死を発見することもあります。
超高齢化社会の中で、単身世帯の方々の様々な相談に乗り、安心して生活できるように、手助けしているのです。個別行動型の人が、自ら孤独な寂しい生活に入っていこうとしているところへ、「おせっかい」と言われながらも、手を差し伸べているのが創価学会なのです。
創価学会の組織が良いとか悪いとか言う前に、実際の、日々の創価学会の組織がどのようなものかを知るべきでしょう。
本来であれば、親兄弟、親戚などがしなければならないようなことも、実際には多くしているのです。そして、お葬式も学会の友人葬として、読経代とか戒名代とか、無意味な出費などをせずに、多くの参加者によって、厳粛に行われています。
また、行政がすべき事も、しばしば、会員の活動家によってなされています。各地域の役所などからは感謝されています。
交通の危険なところに、信号や歩道、カーブミラーなど、住民のための様々な設備の設置などの段取りをしていることは、該当の地域住民の人がよく知っています。
これが創価学会の組織です。
組織というイメージから出てくる、人間を外から規制をしていくようなものとは全く違います。逆に、人間を幸せにするための組織なのです。すなわち、組織のための組織ではなく、人間のための組織なのです。
組織である以上当然、みんなで話し合って目標などを設定します。
その目標は、組織のための目標ではなく、人々に幸せになってもらうための目標なのです。この点が、なかなか理解されないところです。
所詮(しょせん)、人間にとって、組織は必要不可欠なものです。組織がなければ人間社会は、成り立ちません。と同時に、個人の人間としても、組織の中で能力が発揮されるものです。
よく、組織の中に入ると個性がなくなる、と言いますが、これは大きな錯覚です。
なぜなら、個性というのは相対的なもので、組織の中で他と比べて評価されるものだからです。
無人島に1人だけが住んでいるとすれば、個性という言葉さえ必要はありません。
人間は人間の中でしか幸せになれません。人間は人間の中でしか人間的な成長はできません。
人間の中とはすなわち、組織のことです。
学会の組織は、人間の成長と幸福のために作られたものなのです。