ずいぶん昔には、創価学会への勧誘に、
四箇格言の話をすると納得する人が多かったですねー。
それで入会を決意した人もかなりいます。
ところが現在、四箇格言の話をしたら、
「なんじゃらほい」とばかり、不思議な顔をするばかりですねー。
しかしそれは、言葉が、現代的でなくて通じないだけで、
内容は、現代人にも十分に当てはまるものなのです。
推理作家だったが松本清張氏は、
四箇格言について次のように書いていますねぇ。
四箇格言――念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊から論じる。
すなわち、 念仏無間とは、念仏を唱うれば
無間地獄に堕ちるという意味であって、
浄土宗が法華経をもって凡人に至難の難行道となす、
正法誹謗の大罪によって無間地獄に堕ちるというのである。
禅天魔とは禅道は天魔であるとの意味で、
禅は不立文字、以心伝心のみを説いて法華経を軽視している点で、
増上慢の天魔であるという。
真言亡国とは真言は国を亡ぼすというのであって、
真言宗が釈尊一代の教を顕密二代に判じ、法華経を
顕教として卑近説とし、大日如来の密教を深甚とするのは、
自国の主を棄てて他国の間者となるに等しい点を攻撃したのである。
律国賊とは、律宗が小乗の四分律(四律の一、六十巻、
五部中曇無徳部の律蔵である。
四部にして完結したので四分律という)によって
外に持戒を装いつつ内部は堕落しているのを罵ったものである。
(松本清張著「日蓮のこと」)
松本清張氏は、創価学会にも、日蓮仏教にも、
たいへん、理解の深かった人ですねー。
また、「創価学会と日本共産党は、仲良くやろう」
という「創共協定」の仲立ちをした人でもありますねー。
四箇格言の教義的な意味は、松本氏が書いている通りですねー。
よくこれだけ正確に理解していたものだと、
感動さえ覚えますねぇ。
ただ、現代人はこれでは、「なんじゃらほい」ですので、
現代に通じるように解釈してみましょう。
①念仏無間
人間は誰でも、人生を生きる上に置いて、
また具体的な仕事や生活において、
様々な山や川という難題に接します。
その時に、どうしても諦めてしまう傾向性のある人のことです。
積極的に打って出る生き方ではなくして、
消極的に流れに任せてしまうわけですねー。
結局、受け身の苦しみが、永遠に続いてしまいます。
なかには、この世は苦しいのだと諦めて、
死後の世界に希望を見出す人さえいますねぇ。
②禅天魔
禅というのは、外界の世界から閉ざされた、
自分だけの思考能力の中で、様々な事柄を
あーでもない、こーでもないと考えるものですねぇ。
だから、異様な妄想に陥ったとしても、
客観的に見ることができずに、それが正しいと思い込むわけです。
それで、すぐにかっとして、取り返しのつかないことをしたりします。
それで人生を潰したりする人も、結構、いますねぇ。
精神的に異常な状態になりやすい人ですねー。
③真言亡国
これは、会社や団体の中心者になった時、
責任を全うする精神状態ではない人ですねー。
要するに、将来にたいする確実な見通しが立てられない、
頼りないタイプですねー。
信念が弱い上に、周囲の様々な影響に振り回されますねぇ。
同時に、自分が中心者にならなかった場合は、
中心者をつぶしていく動きをする人ですねー。
基本的に、先を見通せず、
今を楽しめば良いという、のんきなタイプですねー。
④律国賊
これは、人間性を抑圧したり、偽善的な要素が、
主流となる個人や社会は、発展せず、滅びてしまうということですねー。
律とは戒律のことですねぇ。
「 〇〇をしてはいけない」というものですねぇ。
戒律は男性二百五十戒、女性三百四十八戒ありますよ。
さらに、もっと厳しい戒律も出てきました。
それで究極的には、戒律を完全に守ると、
生きていること自体が否定されると言うことにさえなりましたねぇ。
さすがにそこまではできないので、偽善的にならざるを得ません。
結局、自分の人生を、生活全般を戒律的に捉えることによって、
発展、成長させることができずに、つぶしてしまうことになります。
このように説明すると、よく納得してもらえますねぇ。
四箇格言は、人生をつまらないものさせるものですねー。
創価学会の信仰は、このような人生を阻害するものを、
大きく広く伸ばしていけるように自己変革するものですねぇ。
これを人間革命とも言い、宿命転換とも言うわけですよ 。
このように考えれば、四箇格言は現在でも通用する、
意義の深い教義であると言えるでしょうねぇ。
創価学会は今でも、四箇格言を主張しているのか。
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