宗教には宗教的行動が伴います。いわゆる修行です。
哲学にはそれがありません。宗教と哲学の違いは修行があるかないか、とも言えるでしょう。
修行は言うまでもなく、教義に即して出て来るものです。
仏教にも当然、修行が伴います。
不思議なことに、釈迦の真意は一つであるにもかかわらず、現在の仏教関係団体では、千差万別の修行がなされています。
釈迦の寝転がった涅槃像に触ったり、足を撫でたり、絵馬をかけたり、おみくじを引いたり、大きな鈴を鳴らしたり、などなどいくらでもあります。
極めつけは、銭洗い観音などというのがあります。銭洗い弁財天というのは古くからあるので、弁財天があるなら観音があってもおかしくないだろうということで作ったようでした。
いずれも像の前の水でお金を洗うと、何倍にもなって返ってくるというのです。なかには、神道と仏教が混同してしまっているものもあります。
これらも仏道修行のつもりでしょう。
しかし、どれもこれも、仏教とはかけ離れてしまっています。
それも当然です。それぞれの寺の僧侶が勝手に、参拝者を多くしてお布施をたくさんもらおうとして考え出した作戦です。
もし、このような祈願で御利益があるというのなら、仏というのは随分、いいかげんなものだと思えてきます。
もっとも、参拝する方も、御利益があるなどと本気に信じている人はほとんどいないでしょうから、それでいいのかもしれません。
寺側も参拝者も迷信くらいにしか思っていないのでしょう。
しかし、もし釈迦が生きていたら、
「私の名前を騙(かた)って、詐欺商法をするのはやめろ」
と怒りが収まらないでしょう。
少々、修行らしいものとしては、写経、読経、座禅、護摩(ごま)などがあります。
さらに、山岳仏教や修験道においては、険しい山道を登ったり、滝に打たれたり、千日間、山中を走り回ったりするものまであります。
どうしてこのように様々な修行方法が出てきたのかというと、仏教の本質が理解できなかったからにほかなりません。釈迦の教えの真意が分からないのです。
ところが、仏教に迷っている人達であるにもかかわらず、修行僧だといって、ありがたく手を合わす信者や一般の人がいます。
修行の形式は当然、元になる教えに合致したものとして出てきます。しかし教えの本質が体得できていないから、好き勝手な修行方法を考え出して実行することになるのです。
釈迦が今生きていて、この修行の姿を見たならば、これもまた、
「バカじゃないの!」
とあきれ果てることは間違いありません。
特に釈迦でなくても常識的、良識的に考えてもおかしいものがほとんどです。
写経や読経など、時間をかければかけるほど御利益があるというのであれば、朝から晩まで経文を写せばよいし、同じように一日中、声を張り上げて経文を読んでいればよいでしょう。
多くの経文の分量を写せば幸せになるのであれば、手首の丈夫な人は幸せになって、弱くてあまり書けない人は幸せになれないことになります。
同じように声帯の丈夫な人は幸せになり、声を出すのが苦手な人は幸せになれないことになります。
それだったら、手や目の不自由な人や言葉が発声できなくなった人は、一生涯、救われないことになります。
仏教がそんな低級な教えであるわけがありません。
まして、座禅のように、黙って座っていて幸せになれるなら、苦労はしません。仕事がなく暇で一日中、公園のベンチに座って幸せになれたという話など聞いたことがありません。
さらに、護摩壇で火を燃やせば悟りが開けるのであれば昔、かまどで薪を燃やしてご飯を炊いていた時、炊事をするたびに悟りが開けたはずです。
荒行は一見、仏道修行らしく見えますが、釈迦の教えからすれば全く、ナンセンスなのです。
常識的に考えれば、すぐに分かります。
荒行で悟りを開くためには、人一倍、頑強な肉体を持っていなければなりません。そんな人のためだけに釈迦は、説法したわけではありません。
むしろ、病弱で苦しんでいる人をこそ、救うために教えを説いたのです。
本来の正しい仏道修行と頑強な肉体とは無関係な話です。自己満足の悟りを仏教に結び付けるのは、釈迦に対する冒とくです。
とはいえ、
「釈迦も苦行をして悟りを開いたではないか」
と言うかもしれません。
これは時代錯誤も甚だしいと言わざるをえません。しかし、多くの人がこの錯誤に陥っています。
常識的に考えてみても、紀元前500年に行った修行を、21世紀の現在に行うなどとはバカげた話です。
現代人に弥生時代の生活をせよ、と言っているのと同じです。もしそうしたら、これまで築き上げてきた文明社会はすべて無駄になってしまいます。
釈迦はそんなことをせよ、などとは一言も言っていません。それが理解できずに、自分勝手な荒行や苦行の修行方法を作って、悟りを得たなどと言っているのです。
まさに反仏教と言わざるを得ません。
さらに、山を走り回って、悟りを得たという僧侶を信者たちが手を合わして拝む、というのは滑稽としか言いようがありません。
現代において、健康なのに、生活費を稼ぐための仕事もせずに仏道修行をする、などということができる人は、ほんのわずかしかいません。
釈迦の教えがもし、そんな人のためであったとしたら、ほんのわずかの人しか救うことができません。
頑健で、金持ちのヒマ人しか実践できない修行方法を釈迦が説くわけがありません。
毎日、時間に追われるように仕事をしても、なお生活が楽にならなくて呻吟(しんぎん)しながら生きています。また、持病を持ちながらも家族の生活のために辛い肉体労働に耐えている人も多くいます。
僧侶が趣味でやる自己満足の荒行よりも、はるかに厳しく苦しい修行といえるでしょう。そういう人のために釈迦は仏教を説いたのです。人生や生活に苦しみながら生きている、多くの民衆のための教えこそが仏教なのです。
時々、勘違いをしている人がいます。
「仏教の専門職である僧侶は厳しい修行を積んで悟りを開く。生活に忙しい在家の信徒は、布施で僧侶の生活を支えると同時に、僧侶の習得した悟りの境涯から仏道に導いてもらう。ギブアンドテイクの関係だ」
この様な考え方を持っている人は非常に多くいます。ところがこれは釈迦の教えとは全く違っています。
釈迦は仏と人間との間にあって、両者の橋渡しをするような者の存在を許していません。
巫女や祈祷師のような者は、仏教においてはあり得ないものなのです。ところが現在の僧侶は巫女や祈祷師のようになっています。
「僧侶に戒名を書いてもらわなければ成仏しない。僧侶にお経をあげてもらわなければ天国に行けない。僧侶を呼んで、決められた法要しなければ、死者が浮かばれない」
この様な類いのことは多く言われていますが、全ては、僧侶に普通の人間には無い力が備わっていると考えているところから出てきています。
これは僧侶が金を稼ぐのに都合よくするために、自分たちを特権階級に仕立て上げたものです。
一般信徒と僧侶を明確に差別化したものです。もし信徒の誰でも法要の導師となって行事を行うことができるとなると、僧侶は必要でなくなり、廃業しなければならないからです。
仏の世界と人間の世界の中間を取り持つ者としての僧侶の存在は、釈迦の教えには無いにもかかわらず、作為的に自分たちに都合よく、作り出したものなのです。
釈迦の弟子として、もちろん僧侶はいました。しかし現在の僧侶とは全く異なった性質のものです。
葬式や法要などはしません。ひたすら民衆の幸せを願って、釈迦の教えを人々に広めるために歩き回る生活であり、人生だったのです。
今の僧侶の中に、人生をかけて仏教を布教している人がどれだけいるでしょうか。いまだかつて、僧侶から仏教を信仰するようにと勧められて入信したという人に出会ったことはありません。
それに対して、創価学会員に入信を進められた、という人は数限りなくいます。この一事をとってみても、学会と他の仏教団体とどちらが釈迦の精神にかなっているかは明白です。
釈迦は生涯をかけて布教に走り回り、足の裏が鉄板のように硬くなっていたとも言われています。人々を救済する布教こそ、仏教の命なのです。
人々に教えを説くにあたって釈迦は、次のように言っています。
「如我等無異」(にょがとうむい)
(我がごとく等しくして、異なること無からしめん)
この経文の意味は、
「仏の目的は、仏である自分と等しい境涯に衆生を導くことにある」
ということです。
仏と信徒と僧侶などという差別は全くないのです。釈迦は悩める人々を自分と同じ仏の境涯に導くことによって、さまざまな苦悩や困難を乗り越えさせ、幸福な人生を送らせようとしたのです。
そして、そうなるための仏道修行の方法を明解に示したのです。
仏教誤解の根本の一つは、この修行方法を釈迦の意図通りに理解することができなかったことによります。
その例が、千差万別の勝手な修行方法を作り出して、悟りを得たなどと言っていることです。
釈迦の教えの素晴らしさは、仏教を時空を超えて永遠に流れ通わそうとしたところにあります。
釈迦は、自分が生きている間だけ、人々を救うために経を説いたのでもなければ、その後の弟子たちが活躍する期間だけのものでもありません。
驚くべきことに、釈迦は自分の在世期間中から死後、数千年さらには未来永劫にわたる仏教の存在と流布の形態を説いているのです。
しかもそれは、童話や夢物語のような空想の話としてではなく、それぞれの時代の、現実の人間社会の中で、どのように仏教信仰を保つのがよいのかを説いているのです。
これは信じがたいことです。紀元前500年の人間が、2500年後の人間の社会や生活を把握して、信仰のあり方を説いているのですから。
現在の人が、西暦4500年に生きる人々のことを想像することはほとんど不可能にです。
それを実際に釈迦という人は成したわけですから、釈迦のことを仏、仏陀、釈尊などと尊称で呼ばれるのです。
いずれも「悟った人・覚者」という意味です。
釈迦は奇跡の人のようにも思えますが、別の観点から考えると、奇跡というよりも道理の人のようにも思えます。
釈迦が悟ったのは何かといえば、人間存在の真理です。
当然、人間が存在するためにはその物理的な場が必要な訳ですから、おのずと宇宙の存在との関わりも含まれることになります。
人間存在の真理は、人間が存在している限り、どれほど時が経過しようが不変なものです。釈迦は人間存在の不変の真理に基づいて未来にわたって、人々が幸福になるための仏教を説いたのです。
釈迦は当然、時代の経過とともに科学、医学、産業など人間社会の変遷があることも悟っていたでしょう。
そのうえでの教えであるがゆえに、現代社会においても仏教信仰が可能になっているのです。
釈迦は、悟った不変の真理に基づいて、様々な時代における具体的な仏道修行の方法を明確に教えています。
これもまた釈迦の優れた達観です。いくら真理だからといっても、原理だけを振り回していたのでは益をもたらしません。
人間の社会生活に応じて真理が具現化されてこそ、人間や社会に益するものとなります。だから、釈迦はそれぞれの時代にふさわしい修行方法を示したのです。実に道理に適っていると言えます。
釈迦の経典から、現代に合致した仏道修行を洞察できるかどうかが、釈迦の真意にかなった仏教信仰であるかどうかの決定的なポイントとなります。
言うまでも無く、紀元前500年前や千年も前に行われていたような仏道修行を現代社会の中で行うこと自体、非常識であり時代錯誤です。
その典型が荒行です。
釈迦は自分が苦行したからといって、2500年も後の人々に同じように修行せよ、などとは一言も言っていません。逆に、教えに反して時代にそぐわない荒行などをすることに対して、釈迦は仏教を破壊するものだと厳しく戒めているのです。
日蓮大聖人も、時を間違えた誤った仏道修行をする者に対して、
「しかるに、摂受(しょうじゅ)たる修行を今の時、行ずるならば冬、種子を下して春、菓を求る者にあらずや。鶏(にわとり)の暁(あかつき)に鳴くは用(よう)なり。宵に鳴くは物怪(もののけ)なり、権実(ごんじつ)雑乱の時、法華経の御敵を責めずして山林に閉じ籠り摂受を修行せんは豈(あに)法華経修行の時を失う物怪にあらずや」
と言われています。誤った修行をする者は、鶏が夜になって鳴くようなもので何の役にも立たないどころか、気持ちの悪い妖怪のようなものだ、という意味です。
少しでも冷静になって考えてみれば、荒行などというのは、自虐趣味にほかならないことが分かります。
別の意味から言えば、自虐によって悟りが開けるものなら、そんな簡単なことはありません。
悟りを開いたと思っているのは幻覚症状にほかならないのです。そういう人を、有り難いと言って拝む信者もまた妖怪です。
現在の寺院で行われている荒行以外の様々な仏教行事もまた、妖怪のすること以外の何物でもありません。
すべては釈迦の真意が分からない愚かさからきたものです。愚行に過ぎないのです。
誤った修行や法事をいくら行なったとしても、仏教の素晴らしさは全く分からないし、悟りを開くなど、とんでもないことです。
仏教の無限の可能性を現実生活の中に蘇生させていくためには、釈迦の提示した通りの、現代に合った仏道修行をすることが最も大切なことです。
それを実践しているのが、創価学会なのです。