特定の場所・物の崇拝

宗教とは本来、すべての人々の救済を目標にすべきものです。

ところが実際には、特定の地域、特定の民族、男女の特定など、さまざまな差別を作っているものがあります。

これらの宗教は、教義自体にすでに矛盾を抱えているものであり、自宗とそれ以外の世界との間に摩擦を生じ、紛争の原因ともなっています。人々を分断するものです。

人類救済の宗教とはかけ離れた低級なものといえます。

CL-SOC-AN-001

宗教に対して「低級」という言葉は、少々違和感があるかもしれません。しかし、個人の、物事を尊崇するという信仰心を低級と言っているわけではありません。

宗教の教え、そのものについての評価です。

「鰯(いわし)の頭も信心から」と言われるような宗教から高等宗教まで、教義に高低浅深があるのは当然でしょう。

宗教のレベルを判断する確実な一つの基準として、その教えの中に特定の場所に行ったり、特定の物を拝まなければ幸せになれない、などという教えがあるかどうかが挙げられます。

CL-SOC-AN-002

もしあれば、それは原始的な宗教であるといえます。

例えば、聖地などといって、世界で唯一その場所にのみ信仰成就の道があるとか、世界でただ一つの本尊があって、それを拝まなければ信仰の目的が達成されない、などというものです。

社会には、聴覚や視覚や身体に障害のある人も多くいます。また、だれでも高齢になれば、どこかに障害が出でくるのは当然です。

もし、特定の物を見て拝まなければ幸せになれないのであれば、視覚障害者は救われないことになります。

CL-SOC-AN-004

もし、特定の拝む言葉を音声として発生しなければ幸せになれないのであれば、聴覚障害者や言語障害者は救われないことになります。

もし、特定の場所に行かなければ幸せになれないのであれば、移動が難しい身体障害者や寝たきりの病人は救われことになります。

人を救うべき宗教が、対象を差別して切り捨てています。

教義の中に、救われない人の存在の可能性があるような宗教は、すでに破たんしているといえます。

CL-SOC-VO-005

特定の場所や物が絶対化されているのは、常識的に考えても納得できる宗教ではありません。

例えば、戦争によって、聖地ともいえるべき特定の場所や建物が完全に破壊されることもあります。

同じように絶対的な本尊である特定の物が、ミサイルによって粉々になることもあります。

あるいは、大規模な自然災害で、聖地も本尊も跡形も無くなってしまう事もあるでしょう。

CL-SOC-AN-005

そうすると特定の場所や物を絶対化する宗教は、存在の土台が無くなってしまいます。

すなわち、その宗教は、この世から永遠に消滅してしまうことになります。まったく、絶対的ではなかったわけです。

これで、絶対化したものは、実は虚像であり、人間が都合よく勝手に作り上げたものであるということが証明されます。もし、全知全能の絶対者が存在する場所であり、物であるのであれば、自然災害や人間の仕業によって、破壊されるわけがありません。

CL-SOC-AN-007

このことは、釈迦の布教の軌跡をたどっても分かります。

釈迦は決して、大きな建物を建ててそこに多くの人々を集め、説法して布教したのではありません。

信者から寄進された寺院などは、僧侶を養成するために使われました。

人々への布教は、自らが民衆の中へ出向いて教えを説きました。季節的に外出ができる時期には常に説法の旅を続けました。

生涯、人々の救済のために歩き続けたのです。

釈迦の行くところがすなわち、救いの場でした。

歩き続けた釈迦の足の裏は鉄板のように硬くなっていたとも伝えられています。

CL-SOC-SD-001

このことから考えても、寺院に出向いて行かなければ救われないなどというのは、邪道です。寺などの建物や本尊に釈迦の教えがあるわけではありません。

釈迦が、今の日本の堕落した僧侶を見たならば、

「本当に、仏教によって人々を救おうと思うのならば、寺にこもっておらず、足の裏が鉄板のようになるほど民衆の中に入って行け」

と怒り心頭に発するでしょう。

CL-SOC-SD-002

確かに、これまでに仏教の信仰を勧められたことのある人に、勧めた人は誰なのかと問えば、僧侶からという人はほとんどいないでしょう。

それに対して、創価学会員から仏教の話を聞いたという人は圧倒的に多いでしょう。このことだけを単純に見ても、学会の活動は、釈迦の布教の軌跡に合っているといえます。

CL-SOC-SD-003

釈迦は悩める人々と一対一の対話を深めながら、苦悩を乗り越え幸福へと歩んで行くための教えを説きました。

ここで誤ってはならないのは、釈迦は、救われるためには釈迦自身を拝め、と言っているのでは決してないということです。釈迦の教えすなわち、仏教を信じなさいと言っているのです。

釈迦は偶像を拝むことを否定しています。

それは道理です。もし、寺に行って仏像を拝んで幸せになるのであれば、こんなもうけ話はありません。

CL-SOC-SD-004

博物館で多くの仏像を展示する催しがある時、まとめてたくさんの像を拝めば、多くの功徳がある、などということがあるはずがありません。

もともと、仏像を拝んだ者は幸せになり、拝まない者は不幸せになる、ということ自体、人間を単純な行為で区別するわけで、慈悲の心に反しています。

釈迦の教えとは全く関係のない次元の話です。

このように現在の日本では、仏教がいつのまにか釈迦の真意と離れてしまって、特定の場所で特定の物を拝むことを仏教のように思わされてしまっています。

だから、創価学会の仏教観が理解しづらいのです。

CL-SOC-SD-005

それでは、これまでのことを基本にして、真実の宗教像を描いてみると、意外なことになります。

それは、宗教行事をする場所や建物も必要ではなく、拝む対象も無くて、目に見える形としては何もない、ということになります。

一見、不思議に思えますが、これが正解です。

真実の宗教は言うまでもなく、縦にも横にも永遠性がなければなりません。

一部の地域や一部の人、一部の時代にしか通用しないものは、真実の宗教ではありません。

CL-SOC-SD-007

そのためには宗教の本体を、目に見える形あるものとして作ることはできません。なぜなら、形あるものはどれほど堅固に作ったとしても何時か、崩れ去るものだからです。

しかしそうかと言って、全く何もなければ宗教の体(てい)を成しません。

ここに宗教の本質論があります。

例えて言えば、画家の心の世界と作品、そして鑑賞者の関係のようなものです。

画家はでき得る限り正確に、心の世界を目に見える画像として描こうとします。

見る者は、その画像の正確な鑑賞を通して、画家の心の世界を知ることができます。

CL-SOC-SD-009

画像がなければ、画家の心の世界が他人に知られることはありません。また、画像を鑑賞する者がいなければ、画家の心の世界を認めるものは誰もいません。

宗教も同じで、どんなに素晴らしいものだと言っても、目に見える信仰の形として表現されないものは存在しないのと同じです。

また、表現されたものが宗教の心を正確に反映していなかったとしたならば、無価値なものになります。

創価学会の信仰には、この心と形の関係性が正確に貫かれています。

宗教の本来の姿と学会の信仰形態は見事に合致しています。だからこそ、多くの人たちが入会しているのです。

CL-SOC-SD-010

少々、分りにくい説明になりましたので、具体的な事柄で考えてみます。

日蓮大聖人は、ご本尊のことについて次のように書いています。

「この御本尊、全く余所(よそ)に求むる事なかれ。ただ、我れら、衆生の法華経を持ちて、南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」

意味は、

「礼拝する対象のご本尊といっても、決して、人間から離れたどこか別の世界に、探し求めてはいけない。

私たち、普通の人々が、題目を唱える生命の中に存在するものである」

ということです。

CL-SOC-SD-011

ご本尊は、人間の手を離れた絶対的で唯一の存在物ではなく、全ての人々の生命の中に存在しているのです。

だから、戦争や異常気象などによって消滅するものでもありません。人類が続く限り、存在し続けるものです。

日蓮大聖人は、生命の中に存在する本尊を文字を使って、見える形に表したのです。

その事を、

「日蓮が魂を墨に染(そ)めながして、書きて候ぞ、信じさせ給へ」

と表現しています。ご本尊は、大聖人の生命の中にある魂すなわち、仏の境涯を文字として表したものなのです。それはまた、全ての人々の生命の中に存在するものです。

CL-SOC-SD-012

さらに、文字で表されているが故に、当時でも書写して複製が可能であり、全ての人々に信仰の門戸を広げているのです。

だから、唯一絶対のご本尊があって、それを置いている場所に行き、拝まなければ信仰ができないなどとは、一言も言っていないのです。

これが、日蓮仏教であり、釈迦仏教の真髄です。

これは実に優れた、万人に開かれた宗教哲学です。

CL-SOC-SD-013

唯一無二の聖地や本尊を設定する宗教教団は、必ず、自宗の権威化をすると同時に、特権階級を作ります。

聖地を守るための宗教関係者や本尊に仕える宗教者など、一般の信者よりも宗教上の身分の高い階層を作ってしまうのです。

そしてこれらの特権階級の人々は必ず、特権を利用して私腹を肥やし、腐敗堕落して結果的に、一般信者を食い物にするというのは、幾多の歴史が証明しているところです。

日蓮仏教、釈迦仏教は、これを厳然と否定しています。

CL-SOC-SD-014

創価学会から分離した日蓮正宗富士大石寺は、どのような立場なのか見ていきます。

余談ですが、「分離」といっても、もともと創価学会は独立宗教法人になっていますから、大石寺から「解散しろ」などと言われる筋合いは全くないのです。それができると思っているのは、大石寺の妄想です。

大石寺の主張は、

「静岡県に建っている大石寺に参詣して、そこに安置している大ご本尊を参拝しなければ、信仰は成り立たない」

と言っているのです。

CL-SOC-SD-015

まさに、「特定の場所・物の崇拝」をしなければ信仰をしていることにはならない、と必死になって宣伝しています。

大石寺に、1人でも多くの創価学会員が檀家として入って欲しいのです。それで、こんな邪道を唱えているのです。

現在の大石寺の主張は、ちょうど、釈迦の真意が全く分からずに、我流の修行方法を作り出して、金儲けをしている既成仏教と全く同じです。

日蓮仏教にも釈迦仏教にも、完全に違背した道をたどっています。

どうして、創価学会が大石寺と分離したのか、その一つの大きな理由はここにあります。

CL-SOC-SD-017

このことを理解して学会批判をしている人は、皆無に近いほどです。

いかに学会批判者が、検証に困難を要する本質論から逃れて、労力のいらない軽薄な口先だけの批判に終始しているかが分かります。

さて最後に、老婆心ながら、勘違いをされないためにアドバイスをしておきます。

これまで述べてきたことと運動論とは次元が違うということです。

例えば、創価学会の会館で多くの人が集まって行う勤行と、自宅で1人で行う勤行と、勤行は同じであっても、当然ながら多くの人たちとともに行う勤行にはそれなりの意義があります。

CL-SOC-VO-001

「同じ勤行するのに、わざわざ、会館の勤行会に行く必要はない」

という類のことを言っているのではありませんので、注意してください。

運動論は、組織体にとって必須条件です。


投稿日

投稿者: