これも時々、勘違いしている人がいますが、仏教は日本の古来の思想ではありません。外来思想です。日本の古来の思想は神道です。
仏教は、諸説はありますが、欽明(きんめい)天皇の550年頃に日本に伝来しました。
神道は、人智の及ばない自然、祖先など、森羅万象全てのものに神が宿ると考えます。そして、祭りなどの神事を通じて、神への祈りをささげるのです。
宗祖や開祖と言われるような人物がいるわけでもなく、教えを説いた経典があるわけでもありません。
それだけに、神秘性が漂っています。
それに対して、仏教は釈迦という教祖が明確であるとともに、教えが多くの経典として伝来してきました。
内容的にも仏教哲学と言われるように、体系的な教義内容になっています。
そして、神道と仏教が、さらにその後の外来思想が、相互に様々な影響を与えながら、日本人の心の中に定着していったのです。
そのなかから、日本人独特の感性や美意識も育ちました。
例えば、わび・さび・幽玄・無常観・神秘性などです。
日本人の感性の特性について、作家の谷崎潤一郎は、「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」という随筆の中で、この随筆は高校の教科書などにも掲載されるものですが、具体的なものを通して述べています。
床の間の箇所では、
「畢竟(ひっきょう)それは陰翳の魔法であって、もし隅々(すみずみ)に作られている蔭を追い除けてしまったら、忽焉(こつえん)としてその床の間はたゞの空白に帰するのである」
と書いています。
すべてを明白に照らし出す明かりの中では、床の間はなんでもない棚のついた工作物に過ぎません。
ところが、光をさえぎり、微妙な影を持たせるようにすると、日本人にとって美的な世界を感じさせる世界が創造されるというのです。
仏教も、この日本人の特殊な感性に添うような形になっていきました。
仏教はインドに発祥して、南伝仏教、北伝仏教と言われるように、広くアジアに伝わりました。
そして、それぞれの国や民族において、独特な捉え方をされました。
そのことは、様々な地域で造られた仏像の顔の表情を見ればよく分ります。
地域の違う仏像を見ると、仏というものの捉え方の相違を、興味深く鑑賞することができます。
日本の仏教は、「床の間はたゞの空白」である釈迦の真実の仏教から、「陰翳の魔法」である日本人の感性に合った仏教へと変遷していったのです。
その一つの代表的なものとして、「無常」ということが挙げられます。
日本人が無常をどのように捉えたかを端的に表現しているのは、平家物語の冒頭部分です。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらはす」
(祇園精舎の寺で打たれる梵鐘の音には、この世に存在する全てのもの、また人間が織りなす全ての行いは、必ずいつかは変化し、滅びゆくものであり、永遠に絶対的な存在として続くものはない、という教えのように響いてくる。
仏が入滅した時に咲いた沙羅双樹の白い花は、いつまでも咲き誇るものではなく、時を経ずして必ず散るように、今は、権勢をほしいままにしている者も、無量の財宝を手中に収めた者も、やがて衰退して全てを失う、という運命から逃れられるものではない)
というくらいの意味です。
ここで使われている無常という言葉は、わびしさ・むなしさ・はかなさ・さびしさなどの感情を意味しています。
無常にこのような感情が移入された背景には、日本古来の神道に、仏教などの外来思想が入ってきて、それらが日本人の心に合致するような形に変化していったことが挙げられます。
特に平家物語の作られた中世鎌倉時代は、仏教の歴史観である末世、すなわちこの世の終わりの時期に当たるとともに、現実の社会の情勢が、乱世の様相を示していた事もあって、無常という言葉を、身近に感じられる感覚に当てはめて使われました。
さらに、当時の自然現象として地震や異常気象が続き、それによって飢饉が追い打ちをかけ、その上、疫病が蔓延(まんえん)するという、人為的にどうすることもできない災難が続いていたことも、日本人独特の無常感を増幅させました。
無常感は、確かにマイナスのイメージの強い言葉ですが、これもまた日本人独特の美意識によって、文学や芸術の理念にまで昇華されました。
中性の文学や芸能の根底には、無常感が漂っているといえます。
「諸行無常」という言葉や、方丈記の冒頭の「行く川のながれは絶えずして」というフレーズに接すると、はかなさと共に何とも言えない感動を呼び起こされるのは、日本人のこれまでの精神風土によって培(つちか)われた感覚です。
余談ですが、この感覚は現在の演歌の世界に引き継がれているような気がします。
最初の演歌といわれる『船頭小唄』の歌詞は、
《俺は河原の枯れすすき
同じお前も枯れすすき
どうせ二人はこの世では
花の咲かない枯れすすき》(野口雨情作詞)
というものです。
自然現象である枯れすすきに感情移入して、むなしい自らの人生の中に、美意識を見いだしているのです。
「諸行無常」に感動を覚える文学意識と相通じるものがあります。
このような日本人独特の感性に、異論を唱えるものではありませんが、釈迦が諸行無常を説いた意図は、実は全く違うのです。
諸行無常が出てくる経文は、釈迦が最後に説いた涅槃経です。その中で、偈(げ)として説かれています。
偈というのは、仏の徳や法門を、韻律を伴った文で分かりやすく述べたものです。
源氏物語には、散文の中に多くの、韻文である和歌が挿入されています。
それぞれの場面の情感を凝縮したものです。散文の平たんな説明では読者に伝えきれない感動を、和歌よって実感させる働きがあります。
偈も同じように、釈迦の法門を凝縮して分かりやすく、また情感にも訴えるように書かれているものです。
諸行無常の偈は、次の4句です。
諸行無常(しょぎょうむじょう)
是生滅法(ぜしょうめっぽう)
生滅滅已(しょうめつめっち)
寂滅為楽 (じゃくめついらく)
訓読みすると、
(諸行は無常にして、これ生滅の法なり
生滅を滅しおわって、寂滅を楽となす)
というくらいになります。
意訳すると、
(あらゆる存在や現象は、絶対的なものでもなければ、永遠に続くものでもない。
常に、生まれたり死んだり、生じたり滅したりしている。すなわち、生滅の法則に支配されている。
そのような無常な物事に、執着する人生を送ることは、どこに行くかわからない浮き草のようなものであり、不幸なことである。
変転極まりない世界に執着する心を無くして、それらに惑わされることがなくなった時、迷いの人生を超越して、仏の境涯となり、最高の幸福な人生になる)
というくらいになるでしょう。
現実に即して考えてみますと、
(名誉、地位、財産などといった、何かのきっかけで失ってしまうようなものを人生の目的にして生きてゆくと、浅はかな生き方となり、真の幸せを掴むことはできない。
欲望などに惑わされることなく、普遍的な人間としての真実の生き方に、人生の軌道を定めるとき、最高の幸福境涯を得ることができる)
ということになるでしょう。
これで分るように、釈迦が諸行無常と言ったのは、わびしさやむなしさを訴えるためではなくて、物事の存在や現象の真実の姿を表現したものだったのです。
諸行無常の現象にこだわるのは表層的な生き方であり、それを超越して本質的な人生の捉え方が必要だ、と言っているのです。
すなわち、諸行無常なものに執着することを否定しているのです。
それを、釈迦の教えとは違って、日本人独特の好みに合った情感にしてしまったのです。
このことは、諸行無常に限らず、仏教全体に通じることです。釈迦の真意から離れて、いわば「日本の偽仏教」を作ってしまったのです。
谷崎潤一郎の「たゞの空白」という仏教本来の姿を、「陰翳の魔法」によって造り変えられた虚像を真実の仏教だと勘違いをしているのです。
鎌倉時代に日蓮大聖人が出現して日蓮仏教を広めました。いわば、当時の新興仏教でした。
それに対峙(たいじ)したのは、いわば既成仏教でした。
日蓮仏教は、釈迦の真実の仏教であり、それに対して既成仏教は、日本製の偽仏教です。
ここに対立闘争が起きるのは至極、当然であったといえます。
この対立構図は、現在まで続いています。ただ現在の既成仏教の中心は、創価学会を分離した日蓮正宗富士大石寺になっています。
それに対して、真実の仏教を掲げて、世界の人々の幸福を願って活動しているのは、創価学会です。
創価学会と日蓮正宗との分離の原因は、様々な事柄が挙げられますが、根本には、学会が世界のすべての民族に通用する真実の釈迦仏教すなわち、日蓮仏教を広めようとしていたのに対して、日蓮正宗は古い日本人の嗜好(しこう)に合わせて変造した偽仏教に固執したのです。
谷崎の「たゞの空白」は、世界の様々な国や民族に受け入れられる時、それぞれの状況に応じて、適切な陰翳をともなって受容することができます。
それに対して「陰翳の魔法」は、日本人的な体質の人にしか、受け入れられません。
言うまでもなく、日蓮大聖人の仏教は、全世界の人々が受け入れることのできる、色のついていない「たゞの空白」なのです。
それを日蓮正宗は、日本人の一部の世代にしか通じないものに、「陰翳の魔法」で変質させてしまったのです。
創価学会は、普遍性のある日蓮仏教を、各国の状況に合わせて受け入れられるように広めていったのです。だからこそこれだけの世界的な広がりを持つことができたわけです。
日蓮正宗は、日蓮仏教とは離れてしまった、日本製偽仏教を世界の人々に押し付けようとしているです。
その象徴のような出来事が、正本堂への対応に出てきました。
正本堂というのは、大石寺に学会が寄進した寺院のことです。寺院といっても、昔風の寺のような建物ではなくて、近代的な宗教建築でした。
まるで鶴が大空へ飛び立とうとしているかのような外観で、国内外から称賛を受けた優れた建造物でした。
高さが66m 、建築面積39000㎡、信徒用の座席が5400席、僧侶用の席が600席ありました。
建築費用には学会員が中心となり、350億円を拠出して、昭和47年(1972年)に完成しました。
設計者は、日本建築学会賞も受賞した横山公男さんで、耐用年数、千年ともいわれる堅牢(けんろう)なものでした。
この正本堂を、その後に大石寺の住職を引き継いでいた故日顕住職は、平成10年(1998年)、わずか建築後26年にして、解体をしたのです。
理由は簡単です。池田会長の発願により建造されたことが、気に食わなかったのです。また、建物自体も日顕住職の好みと違っていたのです。
池田会長は、日蓮仏教を世界に広めるため、様々な国の学会員が大石寺へ参拝に来た時、違和感なく、喜んで礼拝できる寺院として正本堂を建造しました。
特定の国の特徴を持たせたものではなく、世界に通じる仏道修行の場として構想され、完成したものでした。
偽仏教を海外の学会員にも強制的に押し付けようとした日顕住職にとっては、正本堂は極めて世界的.人類的で、彼の思惑には全くふさわしくないものだったのです。
正本堂を破壊した動機は実は、単純だったのです。池田会長への嫌悪感と古い日本の寺院への憧れからでした。
不届きな自分の動機を隠すために、日顕住職は.耐震性に問題がある、コンクリートと混合した砂に塩分がある、日蓮大聖人の教えに違背している等々、あらゆる言い訳を並べ立てて、必死になって、正本堂破壊の正当性を主張しました。
人間の行動の動機はたいてい、単純なものなのです。それを、知恵や知識が様々な、複雑で高尚らしく見える理由を作り出して正当化し、外に向かって宣伝するのです。
例えば、国会議員が、「国民のため、国のため」としきりに言って、様々な立派そうな言動でアピールをします。
ところが真実は、「自分が得をするため」という単純な動機のもとに発動している言動がほとんどです。真実の動機を隠そうとすればするほど、いかにも滅私奉公らしいアピールが目立つようになるのです。
有権者は、その演技の上手さについつい、だまされてしまうのです。
日顕住職は単純に、日本人特有の感性の「諸行無常」や「陰翳の魔法」が性に合っていたわけです。
そしてそれにふさわしい雰囲気のする、これもまた古い日本の寺院の建築物が好みに合っていたのです。
彼にとっては、日蓮仏教を人類救済の世界宗教にして、日蓮大聖人のご遺命を実現するよりも、自分の嗜好(しこう)に合わして矮小(わいしょう)化し、好きなように私物化する方が重要だったのです。
その1つの証拠として、日顕住職は、日蓮大聖人の教えに違背して、平成元年(1989年)、福島県の白山寺という禅宗の寺にお墓を建て、自らが開眼法要をしたことが挙げられます。
500万円以上もしたと言われる墓石の表には、自分の書いた南無妙法蓮華経の文字を刻み、裏には、「為先祖代々菩提 建立之 日顕 花押」と刻まれています。
誰もが認めている事実です。
日蓮大聖人は、禅宗について、
「(禅宗)の学者等、大慢を成して、教外別伝等と称し、一切経を蔑如す。天魔の所為なり」
と書いています。
禅宗は、「教外別伝 不立文字」という教義を掲げています。
これは、
「釈迦の教えの真意は、文字などによって伝えられるものではなく、心から心へ伝心されていくものである。禅宗はその真意の心を受け継いる宗派である」
ということです。
だから、経文などに頼らずに、「黙って座る」ことによって悟りが開けるなどという、バカバカしい修行方法になるわけです。
日蓮大聖人は禅宗に対して、釈迦が言葉によって民衆救済をし、後世に文字として伝え、永遠に人類救済をなそうとする事を破壊する魔物の働きである、と厳しく破折しているのです。
日蓮大聖人の精神に反して、日蓮正宗という一宗の最高責任者が、禅宗の寺に墓を建て、法要をしたということは、自らの宗教的信念の破壊であり、速やかに宗派の責任者という立場を辞めるべきでした。
このことについて創価学会から厳しく追及されると、日顕住職は、ありとあらゆる言い訳と、虚偽と詭弁(きべん)を弄(ろう)して、正当性を主張しました。
しかし何を言おうが、墓石に刻まれた文字は厳然と存在しています。
要するに、日顕住職は、古い日本の寺に、そこに周囲よりも立派な墓石を立てて、自分の権勢を示すということが、嬉しいのです。
その程度の人間だったのです。
所詮(しょせん)、世界の民衆の幸福のために命をささげて活動し抜く池田会長とは、共に論じられるような人物ではなかったのです。
決定打は、解体した正本堂跡に建ったものが、古い日本の寺だったことです。