相手の人が、どれだけ仏教について正確な認識を持っているのかを調べるのに、最もよい質問があります。
「一念三千の理論と実践について説明せよ」
これです。答えの内容を見れば、その人の仏教の知識がどのようなものか、一目瞭然になります。
3つの答えを想定して、考えてみます。
まず一つ目の答えとしては、
「ナニ、それ?聞いたこともない言葉だ」
と言うのが考えられます。こんな答えがけっこう、多いのではないでしょうか。
実は、仏教について日本人なら、誰でも知っているつもりになっている人が多いのですが、実際には無知の人の方が多いのです。
この一念三千という言葉は、仏教の基本であるとともに根本の教えでもあります。
一念三千を知らないということは、仏教について全く知らないというのと同じです。
釈迦は生涯において、八万法蔵といわれるほど、多くの教えを説いています。もちろんそれを文字化したのは後の弟子たちです。
釈迦は目の前の、苦悩に沈んでいる一人の人のために、苦しみを希望へと転じることができる教えを、精魂込めて説いたのです。
また、教えを求める求道者たちに、その時々に最もふさわしい教えを説きました。だから、内容が多岐にわたり、膨大な量になったことは想像に難くありません。
仏教をあまり知らない人が、知ったか振りをするのによく使うのが、あまり知られていない釈迦の経文や後世の仏教者が書いたものをいかにも、仏教に造詣が深いような顔をして話題にすることです。
枝葉末節の仏教用語は、知らない人が多いのをよいことにして得意になってしゃべり、自分はいかにも他人よりも仏教をよく知っているかのように見せかけるのです。
釈迦が生涯に説いた五時八経といわれる経文は、表面的に読めば、まるで物語りの世界のように思えますが、深く読めば限りなく真理が深まってゆきます。一つの経文だけでも本格的に研究するとなると、生涯のテーマにさえなります。
釈迦は、このような自分の膨大な教えをすべて学び尽くさなければ仏教は分からない、などとは全く言っていません。それもそのはずで、ほとんどの人は、すべての経文を勉強しているうちに人生を終えてしまうでしょう。
そんな理不尽な要求を釈迦がするわけはありません。
仏教は難解で奥深く、専門的に研究した人以外は理解できない、などと思っている人がいます。しかし、これは全くの間違いです。
実際の釈迦は、さまざまな立場の人、さまざまな知識レベルの人に対して、相手がもっとも理解できやすいように教えを説きました。
そのために、擬人法やさまざまな比喩など、文章上の多くの技法を駆使して説法しているのです。釈迦は、これ以上理解しやすいものはない、というくらい分かりやすく仏教を教えたのです。
だから、難しい仏教用語などを使って、難しそうに説明する人は、まったく仏教のことが理解できていないと思って間違いありません。
釈迦は、説法をする相手の境涯をしっかりと把握して、最も心の中に入りやすい内容で教えを説いたわけです。
仏教を専門的に学んでいる者に対しては、仏教用語を使って深く掘り下げ、仏教の知識などない者に対しては、日常で経験する具体的なことを通して教えました。
教え方はさまざまではあったが、教えようとした本体は同じでした。
それが一念三千ということだったのです。釈迦のすべての教えの行き着く先がこれです。
一念三千は、中国天台宗の開祖、天台大師が釈迦仏教の本質にあるものとして表現したものです。このことは宗派を超えて理解されています。
だからもし、一念三千を知らずに仏教を語っている人がいたとすれば、それは仏教ではなく、別の宗教の話であるといえます。
我流の仏教です。
二つ目の答えとして、
「お釈迦様の教えが、たいへん多いことを意味している。三千というのは具体的な数ではなく、非常にたくさんあるという意味だ」
こんな答えをする人もかなりいます。
気軽に聞いていると、「そういうことか」と納得しそうになりますが、非常にいいかげんな答えです。
釈迦は三千という数字が出てくる根拠を明確に示しています。だから何が三千なのかということが説明できなければ、仏教入門にも入っていないといえます。
一般的には、日本人の仏教に対する認識は、驚くほど誤っています。何かつかみ所のない、好き勝手な仏という概念を抱いて、それを信仰の対象にしています。
だから、仏教の根本である仏とは何か、と問われても、おとぎ話のようなものになってしまいます。
いわゆる『仏様』という明確に説明することのできないもの、また説明などする必要のないものが、仏教の根本だと思っています。
ところが、釈迦はあやふやなことなど全く言っていません。理路整然と仏教を説いているのです。
仏教哲学といわれる所以(ゆえん)です。
その中心的な理論が一念三千ということになります。
理論ですから、三千とはそれぞれ具体的に何を指しているのかも明確に説いています。
それを理解せずに、「たくさん」というくらいの意味にしか捉えられていない人は、仏教が哲学として理論化されていることが理解できていない人です。
三つ目の答えですが、これが最も多いのではないかと思います。
「お釈迦様の教えが深く、ありがたいことを意味している」
とにかく、何んでもありがたい話にしてしまうのです。
こういう類いの人にかかると、なんでもない石ころ一つにも、仏教に関係があるなどと言って、ありがたく拝まされることにもなります。
寺院に行くと、必ず何ヶ所も拝むところを構えています。それぞれの謂(いわ)れを聞くと、子供だましのような由来の話が作られています。
中には大木を拝んだり、洞穴を拝んだりするものもあります。
「これは全て仏教に関係があって、ありがたいものだから拝め」
というのです。
また、三度の食事のたびに経文を唱えて、感謝の心を表してから箸をつけるというようなところもあります。
これらの行為が仏教と間違われやすい原因は、
「どちらにしても人間として良いことではないか」
というあやふやな仏教観からきています。
だから、一念三千も単純に「ありがたいことだ」と捉えてしまいます。
これでは釈迦の教えも自然崇拝も、原始宗教も同レベルのものになってしまいます。
一念三千という仏教の根本理念の捉え方が、まったく論理的でなく、勝手に情感的なものにされてしまっているのです。
はなはだしく、仏教が誤解されています。
誤解されているのに、「一念三千の実践」について考えることは、崩れた土台の上に建物を建てるようなものです。
それでも、一念三千の実践について簡単に触れておきたいと思います。
一般的に哲学と宗教の違いは、実践を伴うのか伴わないのか、というところにあります。
当然、仏教は宗教ですから、信仰には実践が伴います。
釈迦の経文は、行動を中心に書かれています。だから、多くの部分が分かりやすい物語のようになっているのです。
釈迦が最も重要視したのは信仰実践です。それが教えの根本です。
現在の仏教教団の中には、実践のない仏教のようなものが多く存在しています。それらは、釈迦の外形を真似ているだけで、真実の心は全く通っていません。
それでは、釈迦が説いた実践とはどのようなものなのか。それが、「一念三千の実践」です。
様々な仏教が乱立している中で、釈迦の心にかなったものか、どうかを見分けるのは、「一念三千の実践」があるかどうかを見れば明確になります。
それは、どのような実践なのか。難しいことではなく、釈迦の原点に帰れば簡単に理解できることです。
釈迦は何のために教えを説いたのか。言うまでもなく、人々を救うためです。経文には、
「如我等無異」(にょがとうむい)
と述べられています。
「我がごとく等しくして異なることなからしめん」
という読み方です。意味は、
「仏の目的は、仏である自分と等しい境涯に衆生を導くことにある」
ということです。
これが、釈迦の人生をかけたすべての願いであるとも述べています。
釈迦は人々に自分と同じように、他人を救う行動ができる境涯になることを願っていました。
すなわち、救済する側に成長することです。
考えれば、自分だけが幸せになれば、他の人はどうでもよい、というような宗教は似非(えせ)宗教でしょう。
仏教の大きな特徴は、自分が救われることと他人を救うこととが一体不ニであるということです。他人を救うことによって自分も救われることになるのです。
何をもって救うのかといえば、「一念三千の実践」をもって救うのです。
これを日々、実行している人が、仏教の真実の信仰者です。この実践なくして、どのような正論を叫ぼうが、深甚な法門を説こうが、それは全くの虚構です。
日蓮仏教は、「一念三千の実践」の教えです。だから、創価学会員は布教即ち救済の活動をするのです。
布教する側は、信仰の信念に基づく使命感をもって救済活動をしますが、受ける側は、「救済」という言葉に不愉快になる上、押しつけがましく、しつこいために、迷惑に感じるわけです。
それでもなお、なぜ勧めるのかと言えば、多くの人たちが入会し、結果的に逆に感謝されるという経験と確信があるからにほかなりません。
今、日本の仏教界にとって、また一般の人々の仏教観にとって、最大の問題点は、仏教の真贋(しんがん)が見分けられないことです。
その原因は、「一念三千の実践」に迷っているからです。
日蓮仏教を実践すれば、明確にその答えが出てくることでしょう。
なお、ここでは、一念三千の理論的な説明については、原稿量が増加するため、省略しました。