法華経

(A)法華経は釈迦仏教の神髄

仏教を学習する人が、まず最初にわきまえなければならないことは、釈迦の生涯の説法の中で最も優れている経文は、法華経であるということです。

釈迦は五十年ほどの間に膨大な量の経文を説いていますが、多くの経文は、釈迦自身の悟りのわずかな一部分を相手の境涯に合わせて説法をしたものです。

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釈迦自身の悟りのすべてを完成させた法門として説いたのが法華経です。

このことについて釈迦自身が法華経の序に当たる部分で次のように言っています。

「四十余年未顕真実」

(四十余年にはいまだ真実を顕(あらわ)さず)

これから法華経を説こうとしている段階で、釈迦は、

「これまで四十数年間説いてきた経文には、私の真実の悟りの内容は説いていない。これから説く法華経にそれを明確に説く」

と言っているのです。

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これは特に変わったことを言っているのではありません。

例えば、小学一年生に算数を教えるのに、教師はいきなり自分の持っている数学の知識をすべて出すわけがありません。児童の能力に合わせて、少しずつレベルの高いものを教えていくのは当然です。

そして、中学、高校、大学とレベルを上げてゆき、大学院では教授が自分の持っている、ほぼすべての知識を教えようとするでしょう。

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釈迦もこれと同じです。四十数年間、説法してきて、いよいよ時機が到来して、真実の悟りである法華経を説いたのです。

さらに、次のようにも言っています。

「正直捨方便 但説無上道」(しょうじきしゃほうべん たんせつむじょうどう)

(正直に方便を捨てて、ただ無上道を説く)

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方便というのは、仮の教えということで、法華経以前の四十余年間に説いた経文のことです。無上道というのは、最高の教えということで、法華経を指しています。

釈迦は法華経を説いた後、死を目前にして涅槃経を説きました。

涅槃経は悟りの本体を説いたものではなく、補足説明のようなものです。

だから、法華経を依経としていない仏教の教団や宗派はすべて、釈迦が「捨てよ」と言った方便の教えを信じていることになります。

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ここには、仏教を信仰するうえで根本的に押さえなければならないことが書かれています。

それは、釈迦の経文の中で最高の教えが説かれているのが法華経であり、法華経にしか真実の教えはなく、法華経が説かれた後は、他の経文はすべて捨てるべき無用のものであるということです。

例えば、ビルの建設をするとき、まず足場を組みます。やがてビル本体が完成すれば、当然ながら足場は取り払うでしょう。

取り払わなければ、外観も悪いし、様々な不都合も起きます。

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法華経はビル本体であり、それ以外の経文は足場にあたります。このことが理解できるかどうかが、そのまま、仏教が理解できているか、できていないかの判断基準になります。

ただ、前述の「四十余年未顕真実」にしても、「正直捨方便。但説無上道」にしても、釈迦の本来の使い方をわい曲して、

「法華経が最高の経典であるということを表現しているのではない」

と言って自宗の正しさに結び付けようとする仏教関係者もいます。

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所詮(しょせん)、法華経が釈迦にとって最高の経典であるということを否定する人は、全く仏教のことが分かっていないのです。

五時八教といわれる釈迦の経典をしっかり読めば、それぞれの経典の高低浅深が分かり、法華経が頂点に立っていることが理解できるはずです。

それを中途半端な学習しかしないか、あるいは、一つの経典のほんの一部だけを深く研究したりしているから、いっこうに釈迦の真実が理解できないのです。

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法華経が釈迦の最高の教えである、ということを否定する僧侶や仏教学者の書いているものを読むと、具体的にどの経典のどの部分が、法華経より優れている証明になる、というような客観性を持った記述は全くありません。

ほとんどは、教典そのものを勉強したのではなく、未熟な解説者の書いたものを読んで鵜呑(うの)みにしているのにすぎません。

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釈迦は、自分の説いた仏教が死後において、好き勝手に、さまざまな解釈がなされることを予見して次のように言っています。

「依法不依人」(法に依(よ)って人に依らざれ)

(仏教を勉強するときには仏の説いた経文のみをよりどころとすべきであって、研究者や解説者のいうことを用いてはならない)

というくらいの意味です。

後世の僧侶や仏教学者が、仏教の全体像を理解できないまま、法華経以前の40余年に書かれた経文を、「法華経より優れている」などと言い出すことを釈迦は分かっていたのです。

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だから、釈迦の説いた経文そのものから離れてはならないと遺言しているのです。

釈迦の経文そのものを勉強すれば、法華経が最も優れているということは、自(おの)ずから理解できることです。

その労を避けて、知ったかぶりしている仏教関係者の書いた誤ったものを信じるということは、釈迦の教えに根本的に反していることです。

根本が間違った学習方法では一生涯、必死になって仏教を勉強したとしても、釈迦の真意は理解できないということを肝に銘じるべきでしょう。

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(B)法華経を依教としない宗派

それでも当然、「法華経より自宗の依経としている教典の方が優れている」と言い張る宗派はあります。どのような点で優れていると言っているのか、代表的な3つのパターンを挙げておきます。

1つ目は、釈迦の真実の教えは法華経以外のものに伝えられたとするものです。某宗では次のように言っています。

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「釈迦は、真実の教えは教典の中には説かなかった。死ぬ直前に迦葉(かしょう)尊者だけに伝えられた。その証拠は、釈迦は死を目前にして黙ってそばの花を手に取り、ゆっくりとひねりながら周囲の人たちに示したことだ。集まっていた多くの弟子たちは、この暗示的な意味を理解することができなかった。その中で迦葉尊者だけは釈迦と顔を見合わせ、うなずき微笑んだ。この時、以心伝心で真実の教えが迦葉尊者にのみ伝承された」

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この事の証拠として、釈迦は、

「正法眼蔵・涅槃の妙心・実相無相・微妙の法門あり、文字を立てず、教外に別伝して、迦葉に付属する」

と言ったと、「大梵天王問仏決疑経(だいぼんてんのうもんぶつけつぎきょう)」には書いています。

それで、この経を依経として、宗派を立ち上げたわけです。

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だからこの宗派では、「教外別伝。不立文字」として、釈迦の真実の教えは言葉や文字によって明らかにされるものではなく、ただ以心伝心によって直観的に悟りを開くものである、という宗旨になっています。

したがって、「法華経などの経典によって仏教を求めようとする宗派には釈迦の真実の教えは存在しない」というわけです。

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仏教にあまり関係のない人からすると、何やら幽遠で神秘的な話に思え、感心して納得しそうになるかもしれません。

ところが歴史の事実は、それほど甘いものではありません。

この宗派の依経としている「大梵天王問仏決疑経」は、釈迦滅後、弟子たちの記憶によって経典が書かれた中には、存在しなかったのです。そして、だれが漢訳したのかも不明です。

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この経典の名前が仏教界に出てくるようになったのは、釈迦の経典が完成してからずいぶん後のことです。

このことを追及すると、

「非常にありがたいお経である大梵天王問仏決疑経は、秘経とされていたので、世間の表には出ずに、ひそかに伝承したものだ」などと苦しい言い逃れをします。

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結論的には、「大梵天王問仏決疑経」は偽書であるということです。

釈迦の教えと言いながら、実際には仏教関係者が興味本位に作り上げたものです。ちょうど、高級品として有名なブランドの「神戸牛」の包装用紙を使って、中身には安い輸入肉を入れて売っているようなものです。

この法華経否定のパターンをとっている諸宗派は、本来の釈迦の仏教ではない経文を真実の仏教だと偽って宗旨を作り上げています。

常識としては考えられないような気がしますが、実際には新興宗教も含めると、随分多くの宗派や教団が産地偽造を行っているのです。

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2つ目の法華経否定のパターンは、法華経以前の四十余年の経文を依経にしているにもかかわらず、

「我が宗の依経には法華経に無いものが有るので、より優れている」

というものです。たとえば、

「確かに釈迦は、法華経が最高だと言っているが、それを説法していた時の釈迦は仏としての境涯は低いものだ。低い境涯の釈迦が、最高だと言っているだけなので、相対的な評価だ。

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それに対して我が宗の依経を説いた時の境涯は、仏としての最高位の時だ。したがって、法華経以前に説かれた法門が低級だということはあり得ない。

さらに、我が宗には、印と真言という法華経にはない具体的な祈願の方法がある。明らかに法華経より我が宗の経の方が優れていることは明確だ」

というものがあります。

法華経を説いた釈迦は格付けが低い、というのは全く、釈迦一代の説法の順序次第と高低浅深が理解できていないことを意味しています。

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法華経を解いたときの釈迦の境涯が、仏としても最高の悟りを顕現していたことは、素直に一代の経文を読めば、おのずから疑う余地のないことが分かるはずです。

それをゆがめて解釈しなければ、自宗の存在意義がなくなるので、必死になって自己弁護しているのです。

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さらに、「印」というのは、両手をさまざまな形態に動かして祈るものであり、「真言」というのは、呪術の言葉です。

例えば、祈祷師が異様に手や体を動かして、呪文を唱えているようなものです。

どちらにしても、怪しげな雰囲気のするものです。何より、手がうまく動かせなかったり、呪文がはっきり唱えられなかったりしたら、成仏しないというのでしょうか。

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どこまで手の動きができればよいのか、どこまで呪文を正確に唱えられればよいのか、その適格と不適格の境界線は誰が引くのか、などと考えると、仏教とは全く無関係な話になるでしょう。

もともと釈迦は、手をくねらせて呪文を唱えながら祈祷せよ、などとはどこにも書いていません。

法華経よりも自宗の経が劣っている事実を、なんとかごまかそうとして、作為的に作り出した動作です。

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指を動かして、呪文を唱えたら幸せになるなどと、世の中も人生もそんなに甘くはない事は、誰でも分かっています。子供だましみたいなものです。

3つ目は、次のように言っている宗派があります。

「確かに法華経は素晴らしいが、難し過ぎて今の時代の人々には適合しない。千人が信じたとしても一人も成仏することはできない。

それに対しては我が宗の教えは、法華経以前に説かれたものだが、正しく簡単な修行方法が説かれたおり、信じる者は全員、成仏し、幸せになれる」

こんなことを主張している仏教宗派です。

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法華経は、釈迦が説法した中では最も優れているという点については認めているわけですが、それに到達するための方法論が違うというのです。

こういう宗派の代表的なものとして念仏宗があります。

念仏宗は、「念仏を唱えて極楽浄土に行ってから、法華経を悟る教えである」とも言っています。

法華経は余りにもレベルが高すぎる上に、清浄な心でなければ信受することができないので、心の濁った末法の人間には、適合しないというのです。

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だから、

「この世ではまず、不浄の人間でも浄土に行ける念仏を唱えることが.法華経に到着する唯一の道になりる。

そして、結果的には、念仏と法華経とは一体のものであり、法華経を信じることはすなわち念仏を信ずることになり、念仏を信じることはすなわち法華経を信じることになる」

と主張するのです。

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これは、釈迦の教えである、「法華経以前の教えに執着をしてはいけない」という根本に違背をしています。

それを自覚しているからこそ、最もらしい自己正当化の論理を作ったわけです。

分かりやすく例えれば、大きな山の山頂を釈迦の最高の教えであるとします。大きな山なので登山道は何通りもあります。どの道を登って行ったとしても、結果的には同じ山頂に到達をします。

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そのように、釈迦は様々な多くの教えを説いたが、それは数多くの登山道のようなもので、どの経文が正しくてどの経文が間違っているというようなものではなく、いずれも最高の教えに到達するありがたいものだ、という捉え方です。

この論理は、実に分かりやすく納得しやすいので、多くの人たちが、だまされました。

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釈迦は、頂上に登るためには1本の道しかないと明確に言っているのです。それがすなわち法華経の道です。

それ以外の経文は、途中で道が途切れていたり、同じところをグルグルと回るだけの道なのです。

これが分るためには、よほど仏教に対して深い知識を持っていなければ不可能なので、大抵の人は、ごまかされてしまう訳です。

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結論的に言えば、法華経以外の教えを依経にしている教団や宗派は、釈迦の生涯の説法を深く研究し、教義の高低浅深の比較検討がまったくできていないということです。

いたずらに、自宗の教義ばかりを「最高最善」と思い込み、仏教を学ぶといっても、その妄想に支配されて、妄想を証明するための自宗派ばかりの学習となり、いっこうに釈迦の真意に到達できないのです。

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(C)法華経に対する疑義

それでは続いて、別の観点から法華経について考えてみます。

羅什三蔵(らじゅうさんぞう)の漢訳法華経は、分量としては、四百字詰原稿用紙二百五十枚ほどのものです。

使われている漢字は一般的で分かりやすく、高校程度の漢文読解力があれば、書き下し文を読むと一応、文意が理解できます。

根詰めて読めば、一日あれば十分読了できます。

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この法華経についても様々な疑義が出されています。

代表的な2つをあげると、

「法華経は、本当に釈迦が説いたものなのか。また、弟子たちが誤って伝えていないのか」

「訳者の羅什三蔵は、梵語を漢訳する時に、間違わなかったのか」

というものがあります。

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実にもっともな疑問ともいえます。

しかし、仏教の本質論から言えば、枝葉末節のことです。

どうしてかというと、もし、釈迦が説いたものでなかったり、弟子が誤ったり、誤訳があったりしたとしても、現在の羅什三蔵の法華経が、経典の中で最も優れているということが証明されれば、全く問題ではなくなるからです。

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現代は、学問的研究や科学的思考が非常に発達して、仏教経典を比較検討する力量は十分にあります。宗派の派閥を超えて、純粋に経典の教理の深さを研究すれば、法華経が最高峰であるということは、容易に判明することなのです。

そうすると、作者不明だとか、誤訳や誤記などということは、どうでもよいことになります。今目の前にある法華経を説いた人が最も優れた仏教者であり、それを釈迦と呼んでいるのです。

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考えてみれば、紀元前5世紀頃の記録映画があるわけでもなければ、実際に会った人が今生きているわけでもありません。皆、おぼろげな資料や経典に基づいて、釈迦の人物像を想像しているだけなのです。

その人物と法華経を説いた人物とが合致する必要はなく、最高の仏教を説いた人物こそが釈迦であると考えるのが道理でしょう。

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また、法華経の成立や細かい部分についての様々な疑問については、源氏物語の歴史的な経緯と対比して見れば、ほぼ納得ができるのではないかと思います。

源氏物語は紫式部が作者となっていますが、原本はなく、もちろん紫式部が書いているのを目前に見て、証明書を発行した第三者が居るわけでもありません。

さまざまな後世の資料をもとに紫式部作と考えているわけです。

関連歴史資料を精査する中で、作者は紫式部ではない、と主張する学者もいます。あるいは、本文の一部については、別人の作であるという説もあります。

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特に作品の最後のところは、「宇治十帖(じょう)」と言われる部分ですが、古文を少しでも読み慣れた人であれば、明らかにそれまでのところとは違いがあるのが読み取れます。

言葉の使い方、文章のリズム、全体的な雰囲気など、とても同一人物が書いたものとは思われません。もし同一人物が書いたとしたならば、前の部分を書いた後、随分多くの年月が過ぎ去って、その間に文章の書き方や心に変化が起きた上で書いたと思われます。

だから、最後の部分は別人が付け加えたとする説が有力になっています。

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また、原本は紛失して存在しないので、写本を読むしかありません。多くの人たちの手によって書かれた、多くの写本があります。

どれほどあるか正確には分かりませんが、代表的なものだけでも百冊以上はあります。

その中には写本の写本というように、何度も写されたものもあります。言うまでもなく、写本を比較すると、いたるところに相違があります。

膨大な量の源氏物語を一字一句間違えずに写すというのは至難の技です。むしろ不可能です。誤写があって当然です。

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さて、この様な源氏物語の評価ですが、

「作者が誰か確証がない上に、複数の人物が書いていた可能性もあり、文学的価値は低い」

と言うでしょうか。

さらに、

「原文を誤写しているところが多く、文学作品としての価値は極めて低い」

などと言うでしょうか。

こんなことを言えば、文学関係者から物笑いにされるでしょう。

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現に今、存在している源氏物語は中古文学の最高峰であることは間違いないのです。それにとどまらず、現代文学が夢にも手に入れることのできない、優れた文学世界が現出されていることも真実です。

だから、作者は誰であっても、また多くの箇所に表記の相違があったとしても、今ある源氏物語を書いた人こそが、優れた作家なのです。

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仏教も同じです。

「法門そのものの高低浅深」こそが仏教の判断基準の最重要な要素です。それ以外の基準は、学問的な研究材料にはなったとしても、枝葉末節です。

このことが理解できずに、法華経を批判している仏教関係者は、仏教を利用して金儲けをしているか、仏教に対して幼児的な興味を持って研究しているだけで、仏教の発展には何の役にも立ちません。

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釈迦は仏教の高低浅深は、どこまでも経文自体の法門のレベルによって判断すべきであることを、「依法不依人」と言ったのです。

源氏物語に対して様々な観点から、多くの疑問があるにもかかわらず、高い文学的評価は変わらないように、法華経に対しての疑義も、法華経自体の評価を低めることにはならないのです。

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(D)真実の法華経の信仰

ここで、法華経について、多くの人が勘違いしていることについて、確認しておきます。

世の中には、「法華経は優れた経典である」と主張する人が多くいます。

中には、社会的に有名な人もいたりします。

そして、法華経を賛嘆する単行本なども数多く出版されていて、人気を博してもいます。

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ところが、法華経賛嘆者のほとんどの人は法華経が理解できていないのです。

「論語読みの論語知らず」ということわざがありますが、まさにその通りなのです。

いわば、「源氏物語は風俗小説として面白い」と言っているようなものです。

例えば、「現代人にとって最適の精神修養の書物になる」とか「深い人生哲学が含まれていて、どのような生き方が良いのかの解答がある」などと、現代社会の中に生きる人々にとっても十分に役立つようなことを言っていますが、実はまったく法華経が分かっていないのです。

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さらに、「法華経が仏教の中で最高峰の教えであることがよくわかる書」というようなものも数多くあります。

中には、日蓮大聖人と関連付けて、「日蓮が命にも及ぶような迫害を受けたにもかかわらず、鎌倉幕府に対して宗教的信念を貫いたエネルギーは法華経にあった」などということを書いているものもあります。

ついには、「真実の法華経の読み方を通して、釈迦の真意を理解する」というものまであります。

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これらは、法華経に対してさまざまな観点から、さまざまな賛嘆がなされていますが、いずれも法華経の誤解から出てきた空想論です。

それも、法華経の入り口でつまずいてしまっています。その誤りに気がつかずに、法華経を自分の偏狭な仏教知識や狭小な人生経験から、都合が良いように解釈をしています。

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そしてそれを、いかにも難解な法華経を正しく読み解いたと自慢をしているのです。

法華経を自分勝手に解釈をして褒(ほ)めるという現象は、今に始まったことではありません。

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平安時代、法華経に精通していた伝教大師最澄は、次のように言っています。

「雖讃法華経還死法華心」

「法華経を讃(さん)すと雖(いえども)も還(かえ)って法華の心を死(ころ)す」

この経文は、

「法華経を最高の経典だと賛嘆するが、釈迦の真意が理解できていなくて、我流の解釈からくる、ほめ言葉になっている。だから、それを聞いた人に法華経を誤って認識させることになり、結果的に釈迦の真意を踏みにじることになる」

という意味です。

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現在の法華経を取り巻く状況もまったく同じです。

「源氏物語は風俗小説として面白い」と言っているのと同じなのです。

現在、出版されている単行本やインターネット上の法華経に対する記述のほとんどは、最澄の警告の対象になるものです。

よく勘違いされているものに、「法華経を信仰する」というものがあります。

一見、間違ったことではないように思えるかもしれませんが、実は法華経を理解できていない人から出てくる言葉なのです。

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言葉通りに考えれば、法華経の経典を神棚にでも祭って、手を合わして拝むということになるのでしょうか。そんなことを釈迦が言うはずはありません。

あるいは、法華経の教えを信じる、ということにもなるのでしょうか。

ところが、これもおかしな話で、法華経の中には、物語的な要素や詩的な文章のところも多くあり、それら全部を信じるといっても、取り留めもない話になります。

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また、法華経には、受持、読誦(どくじゅ)、書写、弘経(ぐきょう)などをせよ、と言っていますが、具体的に何をどうすればよいのか、いくら表面的に読んでも出てきません。

さらに、法華経の中には、いたるところに、「仏を敬う」部分があるということで、奈良や京都の仏閣に行って、仏像を拝むことが法華経の信仰になるのでしょうか。

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釈迦は法華経を遊びや趣味で説いたのではありません。また、死後に成仏して幸せになるために説いたものでもありません。

現実生活の中で生きる人々が、生老病死という人生の根本的な苦しみに直面して苦悩に沈む運命を、逆に悠然と楽しんでいける人生に自己変革するために説いたものです。

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夢物語ではなく、実生活上に効果の現れる信仰です。

だから、法華経には幸福になるための具体的な修行方法が明確に説かれています。

この一点を解読することができずに法華経を論じるのは、「雖讃法華経還死法華心」の見本のようなものです。

職業僧としての金もうけか、学者としての興味本位か、漠然としたありがたがり屋の信仰者か、いずれにしてもこれらの人々は、釈迦が法華経を説いた魂とは縁遠い人たちです。

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それでは、釈迦は法華経を通して何を信仰せよと言っているのでしょうか。

それこそ「本仏」にほかなりません。法華経に至って初めて本仏が出現するのです。

本仏がどういうものか、次のように書いています。

「我、実に成仏してよりこのかた、無量無辺百千万億那佗劫(なゆたこう)なり」

我というのは、釈迦自身のことです。無量無辺百千万億那佗劫というのは、はるかに遠い過去という意味です。

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これは、インドに生まれた釈迦が出家し、仏道修行して三十歳のころに悟りを開いて仏になった、と言ったのは、迹仏としての立場ではあったことを明確にしています。

迹仏というのは、本仏が本体とすれば、影のような者です。

法華経において、本仏としての釈迦は、はるか昔から存在していたのだと明確に示しているところです。

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このあたりの経文の意味が分かりにくいのは、迹仏という現象論から、本仏という生命論に転換しているからです。生命論への展開の原理が理解できれば、矛盾なく納得することができます。

いずれにしても、法華経のこの部分において本仏が現出したわけです。この経文の後には次のような文が続いています。

「これよりこのかた、我、常にこの娑婆(しゃば)世界にあって、説法教化す」

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娑婆世界というのは現実の社会のことです。

釈迦は遠い過去に悟りを開いて本仏となって以来、いつも現実の社会の中で、苦しむ人々と共に生きて、苦悩を乗り越える教えを説いてきた、ということです。

これは非常に重要な言葉です。釈迦は民衆救済のために、常に民衆の中に入り、法門を広めてきたのです。

民衆救済もせずに、仏教研究ばかりしている学者や、金のための法事しかしない僧侶は、いかに釈迦の魂を忘れ去ってしまっているかを知るべきです。

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さらに、少し後の経文には次のようにあります。

 「如来(にょらい)の演(の)ぶるところの経典は、皆、衆生を度脱(どだつ)せんが為なり」

仏が説法する教えはすべて、人間の根本の苦しみである四苦に悩む人々を幸せにするためのものである、ということです。

これも実に大切な根本の教えです。

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仏教を金もうけのために利用したり、枝葉末節の研究に現(うつつ)を抜かすなどということは、釈迦の精神に反することは明白です。

ましてや、学会批判をして喜んでいるような人は、釈迦から厳しく叱責されるでしょう。そんな暇があったら、仕事に一生懸命に取り組んだ方がよほど有意義な人生になるでしょう。

最後に、現代において、法華経を信仰する人とは、具体的にはどの様な人なのかを、明確にしておきます。

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言うまでもなく、法華経は釈迦が自己満足のために説いたのでもなければ、後世の人々にとっても、学問的な研究対象や単に心を慰めるために説かれたのでもありません。

現実の社会の中で、苦しみながら生活している人々を幸福へと人生を転換させるために説かれたものです。

これは釈迦が生きていた在世も、没後二千五百年も経過した末法といわれる現在も、その意義は全く変わりません。

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現代において法華経を広めて人々を救うことが、どれほど困難であるかということについて、釈迦は次のように言っています。

「もし、有頂(うちょう)に立って、衆のために、無量の余経を演説せんも、また、いまだ難しとせず。もし仏の滅後に、悪世の中において、よくこの経を説かん、これすなわち難しとす」

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(もし、世界の最も高い場所に立って、全民衆のために、法華経以外の膨大な量の経典をすべて説法するとしたとしても、それはまだ困難であるとはいえないのだ。もし、釈迦の死後、末法といわれる悪世の時代に、法華経のみを説法するとしたら、そちらの方がはるかに困難といえるのである)

こんな意味です。さらにまた、次のようにも言っています。

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「四衆の中に、瞋恚(しんに)を生じ、心不浄なる者あり。悪口罵詈(あっくめり)し、(中略)衆人、杖木、瓦石を持って、これを打擲(ちょうちゃく)す」

(法華経信仰を仏教関係者に対して勧めると、不浄な心に憎しみと怒りを増幅させて、悪口を言い、大声でののしる。法華経信仰を民衆に勧めると、逆上して、つえや木切れを持って殴りかかり、瓦や石を投げつけて、痛めつけようとする)

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この部分は、釈迦が法華経を信仰するということは、どういうことなのかを明確に示している部分です。

法華経を賛嘆する言葉を言ったり、そのような書籍を出版している人の中で、誰が末法である今の時代に、難事中の難事である法華経を広めて、人々を救っているでしょうか。

そしてまた、法華経を広めることによって仏教関係者からののしられたり、民衆から暴力をふるわれそうになったでしょうか。

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このような経験のない人が、法華経を理解したなどと言ったら、釈迦から、「愚か者」と怒鳴られることは間違いありません。

法華経を、単なる教養書としたり、興味本位に研究たり、生活の糧にしたり、というような捉え方は、釈迦の魂を汚していることを知るべきです。

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法華経を理解するというのは、釈迦の魂を理解することです。法華経は、釈迦が全生涯をかけて、時代や国を超えて、苦悩する人々を救済するために説いたものです。

その行動をとらずに、法華経や仏教に対して、なんだかんだと解説する人は、釈迦とは無関係な人です。

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例えば、リンゴのおいしさと豊富な栄養を実証しようとする時のことを考えてみましょう。

Aさんは、リンゴの優良さを知るために、それを育てた地域や農家の育成状況から調べます。そして、外面の色合いや形などの美しさを確認します。

さらに、リンゴを化学的に分析して、有機酸やペクチンが多く含まれていて健康によいことを明らかにします。糖度も高くておいしいこともよく分かります。

このようにAさんは、調査と分析をしてリンゴの優良さを知りました。

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それに対してBさんは、リンゴを実際に食べました。おいしさに満足すると同時に、豊富な栄養が体に吸収された。

この二人、いったいどちらがリンゴの優良さを理解しているといえるでしょうか。言うまでもなくBさんでしょう。Aさんのようにいくら能書きを並べたとしても、おいしさは実感できないし、もちろん体の栄養にもなりません。

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法華経の講釈をたれる人もAさんと同じです。実際には何も分かってはいないし、ましてや他人の幸福の役になど全く立っていません。

いや逆に、「雖讃法華経還死法華心」で、人々に法華経を誤って理解させ、真実の仏教から遠ざけることになるでしょう。

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日蓮大聖人はこの事について次のように言っています。

「法華経を余人の読み候(そうろう)は、口ばかり。言葉ばかりは読めども、心は読まず。心は読めども身に読まず。色心(しきしん)二法、共にあそばされたるこそ貴く候へ」

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(釈迦の真意が分からない人が、法華経を読むというのは、口先ばかりで読んでいるだけだ。また、言葉を理解して読んでいると言っても、言葉の奥にある法華経の哲学が把握できていない。

さらに、哲学が掴めていると言っても、仏の究極の目的である人々の救済という行動ができていない。法華経への深い理解とそれに相応しい救済行動の二つが揃って、初めて法華経を読んだと言えるのである。これこそ貴いことだ)

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この大聖人の教えを鏡とすれば、現在、世の中に多く出ている法華経関連の書籍がいかに、まやかしの内容であるかが明瞭に映し出されるでしょう。

また、人格ぶった僧侶や仏教関係者が、いかに、釈迦の心に反した偽善者であるかが、浮き彫りになるでしょう。

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創価学会の布教活動は、釈迦が生きていた時に徹底して民衆の中に入り、救済活動に走り抜いた生き様をそのまま、現代によみがえらせたものなのです。


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