池田会長が本仏であるという会長本仏論は一時、学会批判の目玉のように騒がれた材料でした。
まるで、創価学会の存在が根底から覆(くつがえ)されるような大問題ででもあるかのように攻撃してきました。
大げさな学会批判はどれも同じですが、批判するテーマに対して、学会の存続にかかわる重大問題や事件であるかのように宣伝をします。
これまでにも数多くの「重大事」が出てきました。しかし、どれ一つとして学会を潰すことには繋がりませんでした。
この誇大宣伝は、
《馬のゲリ便》を馬そのものだと言って大騒ぎするのと同じです。
《馬のゲリ便》については、『第一章【概要】(3)ホントとウソ』のところで解説していますので、参考にしてください。
これらの学会批判者に共通していることは、《馬のゲリ便》を馬そのものだと言っても、読者や視聴者を騙(だま)せると思っていることです。
自分たちの「ほら吹き」に影響されて学会批判者が増えると思っているのです。
要するに、読者や視聴者を自分たちに騙されるレベルの人間だ、と蔑視し、睥睨(へいげい)しています。
会長本仏論もその最たるものの一つです。
何より、会長本仏論と言いながら、仏教において仏とはどのようなものであるかを全く理解していないにもかかわらず、本仏という言葉を使っているということです。
「自分たちが仏教に対して無知であったとしても、どうせ読者や視聴者は仏教のことなど、全く知らない愚かな者だから騙して、学会批判者に仕立て上げられる」
と確信しているのです。
学会批判者が、会長本仏論と言っている場合の「本仏」とは、「本物の仏」とか「元の仏」というくらいの意味に使っています。当然ながら、批判者は仏の正確な概念など、まったく理解していません。
釈迦の経文の中には、非常に多くの様々な仏が登場してきます。一人ひとりの仏に、その仏独自の背景と働きを持たせています。
そして、釈迦が全ての仏の位置付けを明確にしているのは法華経においてです。
従って、法華経をもとに、いったい仏教において本仏とはどのようなものなのか、それを明らかにしながら、「会長本仏論」というものがいかに、いいかげんなものであるかを明確にします。
次からの説明は少々、仏教の細かい解釈になりますので、興味のない方は飛ばして、後半に進んでください。それでも、十分に内容は理解できるようになっています。
法華経以前の経文や、派生的な仏教の中にも多くの仏が出てきます。
それぞれの信仰者は、その仏をありがたく拝んでいるわけです。
それらの仏に共通することは、背後からは、後光が射し、金ピカに光り輝き、優雅な金雲やハスの上に乗り、眉間からは人々を救う慈悲の光を放っています。
こんな、見るからに立派で、悩める人々を救ってくれそうな、いわゆる仏様です。
どうして仏が理想的な姿で出現してくるのかといえば、衆生に仏への恋慕や尊敬の念を起こさせて、化導をしやすくするためです。
ほとんどの人が、仏といえばこの様なイメージを抱くでしょう。
しかし、釈迦はこれらの仏を迹仏(しゃくぶつ)と定義して本仏とは言っていないのです。
迹仏と本仏の違いは、例えて言えば大地とそこから生じる植物の関係になります。本仏という大地から、多くの種類の植物が生い茂るように、さまざまな時代や場所や聴衆に合わして、姿や形を変化させて出現するのが迹仏です。
だから、会長本仏論の本仏は法華経以外の経文や、そこから派生して出できた仏教経典の中には存在しないのです。
本仏は、釈迦の最高の経典である法華経の中にしか出現しません。すなわち、本仏というのは、釈迦の究極の悟りの中に存在しているものなのです。
さらに、本仏について調べると、法華経に次のような場面があります。
「その時に、多宝仏、宝塔(ほうとう)の中において、半座を分かち、釈迦牟尼仏(むにぶつ)に与えて、この言をなす。『釈迦牟尼仏、この座に就きたもうべし』。即時に釈迦牟尼仏、その塔中に入り、その半座に坐(ざ)して、結跏趺坐(けっかふざ)したもう」
(世の中のあらゆる宝で飾られた巨大な宝塔が空中にある。その中に多宝仏と呼ばれる仏が座っている。多宝仏は自分の座っている座席を半分ずらして、釈迦の席を作り、『お釈迦様、どうかこの席に着いて下さい』と願う。すると、釈迦はすぐに塔の中に入って行き、その席に仏の座り方で座った)
こんな場面です。
この場面は仏教の本質が理解できていない人には、疑義を抱かせるところです。
一つの疑問は、釈迦は唯一最高の仏であるはずなのに、多宝仏と並んで座るというのは仏としての位を低めることになってしまうのではないかということです。
もう一つは、この後の場面に描かれていますが、2仏が並んで座ることによって、説法を受けていた無数の弟子たちも立ち位置が明確になり、歓喜します。
そして宝塔という説法の場が完成されることになります。
この場面では、釈迦と多宝仏は宝塔を完成させるための要素になっています。
本来、「天上天下、唯我独尊」と言われる釈迦は、宝塔の本体そのものであるべきはずなのに、宝塔の働きを担うものになっているのは到底、納得できるものではない、ということです。
これまでの釈迦に対する仏様のイメージからすれば、理解も納得もできないかもしれませんが、厳然と法華経には記述されています。
この2仏が並座し、宝塔が完成されることの本義を解説できなければ、仏教を理解したなどとは到底、言えないのです。
この事について日蓮大聖人は次のように言っています。
「されば釈迦、多宝の二仏というも用(ゆう)の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては候へ」
「用」というのは、「体」に対する言葉で、本体の作用として出てくる働きをいっています。
これは迹仏と本仏の関係と同じです。
分かりやすく言えば、母親が子供にお使いをさせる時、母親が本体であり本仏です。その指示を受けてさまざまな買い物に行く子供は、迹仏であり用の姿になります。
したがって、釈迦や多宝仏も仏の本体ではなく、仏の働きの一面を担っているものです。そして本体である本仏は、「妙法蓮華経」となります。
それでは、本仏である「妙法蓮華経」とは何かということについては、次のように言っています。
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり。然れば釈迦仏は、我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず、返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」
「凡夫」というのは、悟りを開いた仏ではない、一般の平凡な民衆のことです。「三身」というのは、一つの生命の働きを三つに分析した表現です。
「主師親の三徳」というのは、「主」は主人の徳で、衆生を守る力と働きです。「師」とは衆生を指導する力と働きです。「親」とは衆生を慈愛する働きです。
この三つの徳を備えているのが仏です。
さらに、大聖人は明確に次のようにも言っている。
「本仏というは凡夫なり。迹仏といふは仏なり」
ここで明言されていることは、仏教史上、驚くべき内容です。
いわゆる仏様といわれものと普通の民衆とを対比してみると、普通の民衆が本仏すなわち仏の本体であり、仏様は本仏から出てきた作用にすぎない、というのです。
これは仏教の一大革命です。
しかも、釈迦はこの事を宝塔の場面を通して、明確に表現しているのです。
いったいどのような事なのか、単純化して考えるとわかりやすいと思います。
仏が世の中に出現して、仏の働きをするためには当然、救済すべき相手である凡夫、一般民衆が必要です。
もし、釈迦が民衆から離れて、誰もいないヒマラヤの深い山中に行き、そこで悟りを開いて仏になったとします。
しかし、説法する相手もいないので、誰も救済せずに死んだとするならば、全く何の意味もないことになります。
仏という存在は、救済されるべき民衆が居て、初めて存在意義が発生するものなのです。
別の言い方をすれば、凡夫が仏を生み出している母体になるわけです。凡夫が居るからこそ仏の存在が可能であり、凡夫が居なければ仏の存在もあり得ないといえます。
このことを、「本仏というは凡夫なり。迹仏といふは仏なり」と言ったのです。そして、凡夫こそ本仏である「妙法蓮華経」だと言っています。
仏である釈迦は、凡夫を超越した絶対的な仏であるように見えますが実は、凡夫に内在している働きの一つとして現出しているのです。
このことは、よほど徹底して、法華経を読み込まないと理解できません。
たいていの人は、法華経を読めば読むほど、ある種のもどかしさを感じるものです。
それは、
「それじゃ、法華経は結論として、いったい、何をどのように信仰せよ、と言っているのか分からない」
ということです。
写経や読経、合掌礼拝や供養など、さまざまな信仰形態は書かれていますが、ピントボケした映像のような表現になっています。
読む者にすれば、明瞭な映像がみたいのですが、どうしても見えてこないのです。
このもどかしさがすなわち、釈迦が本仏でない証左であるといえます。
それでは、法華経には仏教の本質が説かれていないのかといえば、そうではありません。
釈迦が表現したピントボケの映像を通して、釈迦の真意である明瞭な本仏を感得することができるかどうかは、読む者の境涯にかかっているのです。
「本仏というは凡夫なり。迹仏といふは仏なり」
という洞察は、時代や国家を超えた、優れた真理を表しています。
この文は、すべての宗教は、人間の幸福のために存在することを明確に表しているものです。
元をたどれば、世の中のすべての宗教は、人間が作り出したものです。
神や仏など、超越的で絶対的な存在も人間によって作り出されたことは、言うまでもありません。人間が神や仏を作り出した母体なのです。
人間が居なければ神や仏も存在しません。神や仏よりも人間の方が本体なのです。
人間が居なくても、神や仏、絶対者が存在するというのは、欺瞞(ぎまん)です。
元々、そういう物の見方、考え方自体が、外ならぬ、人間が考え出した事ではないですか。
人間の、他の動物よりも発展した精神作用が作りあげた妄想であり、虚像です。
話は変わりますが、ずいぶん以前に、三島由紀夫の死霊が乗り移ったと言って、マスコミに取り上げられた人がいました。
憑依(ひょうい)した状態で、ペンを持つと、勝手に指が動いて、死後の三島由紀夫が言いたいことが書かれるというものでした。
テレビなどで、大きな話題となりました。
しかし、その内容は三島由紀夫を少しでも研究した人から見れば、デタラメなものであることがすぐに分かりました。
この人はその後マスコミに取り上げられることはありませんでした。
時々、宗教についても、これと似たようなことを言う人がいます。
「確かに教祖が、教えを書いたかもしれないが、それは外面的なことで、書かせたのは絶対者である神や仏が、教祖を通して書かせたものである」
というものです。あるいは、
「教祖はすでに人間ではなく、神や仏と同等であるから、教えの内容は神や仏のものである」
などというものです。
ふと考えれば、バカバカしい話ですが、だまされやすい人は信じてしまうこともあります。
もし、人間をはるかに超えた神や仏など絶対者がいるとしたならば、それよりも劣った人間の存在はどうなるでしょうか。
言うまでもなく方法論となるでしょう。絶対者が目的であり、人間は目的のための方法として、使い捨てられる存在になります。
本来あるべきはずであった、「人間のための宗教」が、「絶対者のための宗教」になってしまいます。
絶対者のために人間の命を粗末にするというのは、「イスラム国」や十字軍をあげるまでもなく、絶対者を祭り上げる宗教の宿命といえます。
真実の仏教は、何よりも大切なのは、凡夫すなわち人間であり、民衆であると断言しています。
人間の幸福が唯一最大の目標であり、仏はそれを手助けする方法なのです。
絶対的な仏を作り上げて、人間がその前にひざまずき、ひたすら救いを求めて合掌して拝み、ぬかずくというのは、釈迦の真意からはかけ離れたものなのです。
「仏が本仏なのではなく、人間こそが本仏である」
これが法華経また仏教の神髄であるとともに、すべての宗教の根本精神でなければなりません。
さて、「会長本仏論」ですが、これに使われている本仏という言葉は、仏教の本来の意味をわきまえたうえでは使っていないということは、これまでの説明で十分かと思います。
もともと、会長本仏論が出てきたきっかけは、学会の最高幹部の一人が、池田会長を神格化や仏格化しようとしたところから出てきました。
これは、関係者には周知の事実です。仏教の本義から出てきた理論ではありません。後にこの幹部は退会した後、創価学会批判勢力に利用されました。
学会批判者の会長本仏論を調べると、二面性があることが分かります。
一面は、学会批判者が使う本仏というのは、カリスマ、ドグマの象徴、独裁者、絶対者などのイメージを持たせています。
だから、会長本仏論といえば、池田会長が人間を超えて、絶対的な神か仏のような存在であることを意味しています。
その絶対者の、言うことや行動は人智の及ばないもので、絶対的な正義であり、他の人が意見するものではない、ということになります。
そうすると、創価学会という巨大な組織は、池田会長の鶴の一声で、すべてが決定し、動かされることになります。
会員も、会長の言うことには全く疑いを挟まずに従うので、何百万人という人間が同じ方向へ動くことになります。
学会批判者が使う会長本仏論は、創価学会がこのような、危険で異様な宗教団体であるということを世間に広めて、学会員を減らし、公明党の勢力を弱めることが狙いでした。
そのために、会長本仏論を社会問題や政治問題に意図的に作り上げて、学会や公明党への批判の好材料にしたのです。
宗教的な本仏の意義などはどうでもよく、また会長本仏論が正しいのか間違っているのかさえも、どうでもよかったのです。とにかく学会・公明党への恰好(かっこう)な攻撃材料として飛び付きました。
一時は、学会の存続に関わる一大事であるかのように大騒ぎをしながら、話題性がなくなると、全く取り上げなくなるという、無責任なものでした。
とかく、学会批判の多くには、こうした無責任な言いっ放しの共通点があります。
もう一面は、創価学会と同じく日蓮仏教を信仰の対象としている教団や集団が、学会は会長本仏論であると批判中傷するためのものでした。
要するに、
「本来、信仰の対象は、日蓮大聖人であるのに、恐れ多くも、会長をそれ以上の本仏にしようとしている」
というものです。
集団自体は、社会的にも全く影響力もない弱小なものです。
それが、創価学会を批判することによって存在価値が認められ、それによってメシを食って生きている集団です。
こういう、学会のおかげで生活できる寄生植物のような教団や集団が、学会が大きくなればなるほど、増えてきました。
政治利用しようとする団体とは違って、仏教学的な論点も少々入っていますが、前述のような、本仏の意義を明確にしたうえでの批判は皆無です。
陳腐な仏教知識を引っ張り出してきて、池田会長を批判するだけです。
「仏教における仏とは何か」がまったく理解できていないのに、いかにも知ったかぶりして、批判しているだけです。
この二面共に、池田会長の、これまでに書いたものや講演した内容の中の、ほんの一部分を引用して、「会長本仏論を証明するものである」などと、鬼の首を取ったように喜んだりしています。
これは、文章の意味を理解する能力が低すぎるので、基本的な国語学習からやり直した方がよいと思えるものばかりです。
大聖人の教えを読めば、いたるところに表現の矛盾があることは誰でも分かります。
例えば、命について述べられたところには、ある箇所では、次のように言っています。
「人身は受けがたし爪の上の土。人身は持ちがたし草の上の露。百二十まで持(たも)ちて名をくたして死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」
(自分の名前を汚すような人生なら、百二十歳まで生きても仕方がない。それよりは、一日だけでも生きて、称賛されるような生き方にするべきだ)
こんな主意ですが、別の箇所には次のようにあります。
「命と申すものは、一身、第一の珍宝なり。一日なりとも、これを延ぶるならば、千万両の金にもすぎたり」
(人の命は、何よりも大切な宝物である。1日でも生きている間が延びるならば、数えきれないほどのお金の値打ちよりも、大きい価値がある)
この二つは、表面的には矛盾しているように見えますが、大聖人の教えを少しでも学べば、全く矛盾していないことはすぐに理解できます。
池田会長の著作や講演は、日蓮仏教を根底に行われていることは、言うまでもありません。当然、上述の矛盾と見えるような表現があります。
その真意が分からずに、会長の言葉の一部分を切り取って、会長本仏論と称して批判する人には、日蓮仏教を理解することは不可能でしょう。
否、この程度のことが分からないようでは、一般的な文章を正確に読解するのも無理でしょう。
中には、創価学会に会長本仏論などという批判は当てはまらないということを知っていながら、為(ため)にする、質(たち)の悪い批判者もいます。
そもそも、仏教学的にも、組織の論理的にも、創価学会には会長本仏論などというものが入る余地はないのです。
それを、批判のための批判として無理やりでっち上げたに過ぎないのです。