釈迦の生涯

(A)家を出る

釈迦が生まれたのは、今からは2500年ほど前、インドの北方のネパールでした。

当時インド周辺は、大小さまざまな部族が、独立した自治国を作っていました。ただ、国と国の境界が厳密に仕切られて、交流ができない状態ではなくて、兵士ではない一般の民衆の行き来は、比較的自由にできました。

人々の生活状態は、都市なども発達していて、人口の集中がある程度進んでいました。

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釈迦は、比較的小さい部族の王の子供として生まれました。

勢力の強い大国の部族は、常に中小の国を自国に取り込もうとする動きをしていました。

釈迦の国も、隣国の大国からの脅威をいつも感じて、肩身の狭い思いをしなければなりませんでした。

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釈迦の母親は、生後すぐに亡くなってしまいました。

幼少期は、叔母によって育てられました。

彼は、生母はいませんでしたが、恵まれた環境の中で成長していきました。

学問所のようなところでは、よく勉強ができる賢明な子供でした。また、物事を深く考えていく性向と感受性の強い性格を持っていました。

表情は、まじめで、一見すると思い詰めているようにも感じられましたが、自然や他人に対する慈しみの心を表すような優しい眼差しをしていました。

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王子なので、やがては、父親の王位を継がなければいけません。その時のために、王として体も鍛え、訓練もしなければなりませんでした。武術や兵法などもしっかりと身につける必要がありました。

しかし成長するにつれて、彼は王という権力者になり、権謀術策を使って、他国を攻めるというようなことは、自分には向いてないと考え始めました。

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純粋な正義感と誠実な行動力は磨かれていきましたが、その目指す方向は、武力による覇権(はけん)ではなくて、人間の苦しみを克服するためにはどうしたらよいのか、という人類救済の目標へ向かっていったのです。

「幼くして母親を亡くさなければならなかったとのはどうしてだろう。父親は小国の王としのいつもさまざまな悩みに振り回されている。果たしてそんな人生でいいのだろうか。また、多くの人々も大小さまざまな悩みを抱えながら生きている。根本的には、誰も皆、いつかは死ななければならないという悲しみを抱えている」

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彼は自他ともに深く見つめていった時、

「人間とは何か、人生とはどのように生きるべきか、幸福とは何か、人は救われるのか」

という根本問題が頭の中に大きく広がりました。

やがて彼は結婚します。

間もなく男の子が生まれました。もし自分が王位を継がなかったとしても、わが子が後を継いでくれる可能性ができました。

彼はこれで、父親への、王位を継承しないという不孝は免れると思いました。

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「人間は、人間として生まれて、最も幸せな人生を歩む権利を持っているに違いない。その権利とは、いったいどのようにすれば万人が手に入れることができるのだろうか。それをつかみ、人々を幸福へと導きたい」

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釈迦の出家への思いが募っていきました。

出家するということは、一時的には、妻や子、父親に対して悲しい思いをさせたり、期待を裏切ることになるかもしれません。

しかし、後に悟りを開いて、すべての人を人間の根本的な不幸から救うことができるようになれば、妻や子を真実の幸福に導くことができ、父親への最高の孝養もできると思えました。

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ある闇夜のこと、釈迦は意を決して、城を出ました。

そして、見つけられて連れ戻されないように、できるだけ母国から離れた遠い国へと旅立ちました。

まだ、二十歳前半の若者でした。

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(B)悟りを開く

まず釈迦は、悟りを開くために、二人のバラモンの仙人を師匠として修行しました。二人とも当時は、バラモンの悟りの最高の境涯を体得していました。

それぞれ、弟子を何百人も持っていました。

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そのうちの一人は、「万物に対して一切、執着心を持たない」という境地に達していました。

修業方法は座禅を中心に行われていました。

釈迦は、どの弟子よりもまじめにまた、積極的に修行に励みました。

その結果、ずいぶん早く、師匠と同じ境地を獲得することができました。

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しかし、釈迦は満足できませんでした。

確かに、すべての物に執着しなければ、欲望から出てくる悩みは減少するでしょうが、それは人間の苦しみのわずかな部分でしかありません。

しかも、それを人々に説いた時、個人的な自己満足として、幸福を感じることはできるでしょうが、すべての人に強要することは自由の束縛になります。

何より、欲望を消してしまえば、働く意欲もなくしてしまうと思えました。

釈迦は、一人目の仙人のところ去りました。

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二人目に仕えた仙人は、「無我の境地」を悟った者でした。

その教えは、

「物事の真実の姿をとらえるためには、どうしたらよいのか。思索すること自体がすでに人為的であり、その思索によって得られる境地は、人為的にならざるを得なく、すでに真実から離れてしまう。

だから、思索する自分自身をも無にして、無我の境地で物事を見たときに真実を把握できる」

というようなものでした。

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釈迦は、二人目の仙人にも全力で仕えて修行しました。

その結果また、他の弟子たちよりもはるかに早く師匠と同じ境地に達しました。

しかし、釈迦は無我の境地にも納得できませんでした。

無我の境地は、どこまでも、観念論でした。

無我の境地になって真理を見たとしても、現実の生活の中に戻れば、苦悩が渦巻いています。その苦悩を解決するためには観念論では何の役にも立ちません。

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釈迦は、二人目の仙人のところからも去りました。

世間で、最高の悟りを得たと言われている二人の仙人に教えを受けても、万人を救える教えを得ることができなかったので、釈迦はバラモンに師事することをやめました。

そして今度は、自ら悟りを開くために苦行することを決意したのです。

彼は多くの求道者たちが苦行していた林の中へと入って行きました。

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それからさまざまな苦行に、全力で取り組みました。

苦行の目的は、汚れた肉体を苦しめ抜いて精神を分離させ、それで肉体に拘束されない精神の自由を得ようとするものでした。そのために、肉体を苦しめる非常に多くの方法が考え出されていたのです。

例えば、食事を一切取らないこと。爪や髪の毛を切らないこと。片手を真上にあげたまま、何年も下ろさないこと。口や鼻で呼吸をしないこと、等々です。

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真剣に苦行に取り組むと、十人中九人は死んでしまいました。

汚れた肉体を滅ぼしたわけですから、悟りを開いたことになります。しかし同時にこの世からも消えてしまったわけです。

釈迦は、多くの苦行者の中で、だれよりも激しく自分の肉体を痛めつけました。

共に苦行をしていた者たちは、おそらく釈迦は死ぬだろうと思っていました。

ところが、普通の者であれば死んでしまうような苦行にも耐え抜いて死ななかったのです。

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周囲の者たちは、

「間違いなく釈迦は、生きながら、素晴らしい悟りを開くだろう」

と多くの修行者が集まり期待をするようになっていきました。

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ところがある日、釈迦は突然、苦行を止めてしまいました。そして、

「苦行によって悟りを開くことは、海に猿を取りに行くようなもので、全くあり得ないことだ。もともと、肉体を不浄なものとして忌(い)み嫌うこと自体が、すでに人間としての最高の悟りから離れてしまっている」

と宣言をしたのです。

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釈迦は苦行の林を悠然として出て行きました。

この時、釈迦の威厳にあふれた姿に感動して、苦行を止めて釈迦に従って行った者も多くいました。

彼らは、釈迦はおそらく、間もなく素晴らしい悟りを開くだろう、と期待をして付いて行ったのです。

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釈迦は自分を慕ってくる人々と共に、さらに求道の旅を続けました。

やがてガンジス川の支流のほとりにたどり着きました。

彼はそこで苦行で汚れきっていた体を清めました。だれよりも厳しい苦行に耐えた体は、まさに、骨と皮だけでした。

すでに立ち上がることさえできないほど衰弱してきていました。そこに、地元の長者の娘が、牛乳で炊いた粥(かゆ)を供養として持参してくれました。彼はそれを食べて体力を回復していきました。

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元気になるとまた、求道の旅は続きました。

やがてブッダガヤーの地方に行き着きました。

釈迦はそこに生えていた一本の大きな菩提樹の木の下で座禅を組みました。

夕暮れ間近のことでした。

それから、静かにこれまでの求道のあり方を総括していきました

釈迦の心に現れてきたのは、魔のささやきでした。

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「釈迦よ、お前は何と無意味なことをしていることか。全人類救済の悟りを開くなどと、そんな大それた悟りが、あるわけでもなければ、成就することなどできるはずがない。

つまらない無駄骨を折るよりも、早く、故国に帰れ。そうすれば、妻や子も喜ぶし、父親も安堵(あんど)するだろう。親として子供として、立派に生きることのできない者に、どうして悟りが開けるだろうか。そんなことできるはずがないのだ」

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釈迦の求道に対する熱意をことごとく打ち砕くような誘惑や脅しや説得が、永遠と続きました。

時間は流れてゆき、深夜を過ぎました。

釈迦は心の中で、必死になってそれらの魔の働きと戦いました。

そして、よく晴れた東の空が白みかけた時、釈迦は生命が歓喜に躍るような悟りを実感しました。

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夜がすっかり明けた時、彼はゆっくりと立ち上がり、川で沐浴(もよく)をしました。そして、共について来てくれた修行者たちに語りました。

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「私は、ついに、悟りを開くことができた。その悟りとは、宇宙森羅万象すべてのものは、根本において一体不二の関連性の下に存在しているということだよ。

この関連性が、本来の姿を保っている限り、存在しているものはすべて最も素晴らしい輝きを発揮するものなのだ。

ところが現実には、さまざまな歪みにより、本来の最良の関連性から外れてしまうことが多くあるのだよ。ここに、多くの不幸の根本原因がある。私は、その歪んだ関連性を本来の関連性へと回帰させる方法を悟ることができたのだよ」

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釈迦は前日までとは明らかに違った覚者の風貌を身につけていました。

修行者たちは皆、釈迦が仏の悟りを体得したと確信し、弟子としての礼儀をもって、その前にひざまずきました。釈迦は続けて言いました。

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「だが、この悟りも実は観念にすぎないのだよ。真実の悟りは、悩める人々の中に飛び込んで行き、救済活動をすること自体の中に、深まっていくものだ。

悩める人々と共に悩み、手を取り合って共に幸福への道を歩むところに、真実の仏が存在するんだよ。そこに求道者の最高の歓喜を得ることができるのだ。

だから、究極の悟りとは、固定された到達点ではなくて、救済の過程そのものを言うんだ。仏は、仏の行動を為して初めて仏と言える。仏の行動をしない仏は、もともと仏ではないんだよ」

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釈迦の言葉には、存在の真実の姿を述べる響きがありました。

修行者たちは皆、真実の仏の弟子になれることを喜びましだ。

時に、釈迦は三十歳でした。

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(C)布教

ブッダガヤーで悟りを開いた釈迦は、最初の布教の地として、隣国のサールナートという町を選びましだ。

サールナートは、当時の宗教界、思想界の発信地として有名な町でした。

物流や経済の中心的な町とは別に、最先端の精神性を競う町が存在したということは、インドという国がいかに人の内面を重視する国民性であったかが分かります。

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サールナートには、多くの宗教家、思想家、哲学者などが集まり、共同生活をしながら、活発に、法論を戦わせて、高低浅深を競い合っていました。

釈迦は、多くの人々を救うためには、当然ながら、自分と同じ悟りに達した人たちをできるだけ多く育成しなければならないと思っていました。

だから多くの修行者が集まっているサールナートを選んだのでした。

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釈迦は、この地で正式な初説法を行いました。

集まったのは、ブッダガヤーから従ってきた弟子たちと居合わせた修行者たちで、百人ほどでした。この初説法で釈迦への評価は、非常に高まりました。

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「今まで、会ったこともなかった深い悟りを開いた仏だ」

という評判は瞬く間にサールナートの修行者たちに広まりました。

それからは説法会を開くたびに参加人数が急増していきました。弟子入りする者も次々と増えました。

数年後には、千人近くが弟子となっていました。

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ここで弟子入りした人たちの中には、大富豪も多くおり、釈迦の布教活動を経済的に支援しました。

また、評判を聞きつけて釈迦の親戚縁者たちも弟子入りしています。その中には、従弟(いとこ)のデーヴァダッタ(提婆達多)がいました。

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弟子たちの多くは、釈迦の悟りの根本である救済活動の行動へと進んでいきました。

活動の中心地は、サールナートから南西、中インドのあたりにあるヴァーラーナシーでした。ヴァーラーナシーは、中インドでは最強国の首都であり、交通の要衝地で経済活動も盛んで、人口も大変多かったのです。

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釈迦も、修行者や弟子たちを相手に説法することと同時に、人生に迷い苦しむ人々の中に飛び込み、一対一の対話を通して救済活動に励みました。

彼は、弟子の育成と一人ひとりの救済という二つの活動を車の両輪のごとく、生涯を通して行なっています。

千人近い弟子たちが、人口密集地の都市へ布教に行くわけですから、信者は急速に増えていきました。そして一大宗教教団に発展しました。

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ヴァーラーナシーで、教団が発展し続ける基礎を築き得たと確信した釈迦は、少数の弟子とともに次の布教地へと向かいました。

釈迦の目標は、もちろん、一地域の人々の救済だけではありません。空間的には全世界であり、時間的には永遠に、人々を苦悩から救っていくことでした。

それぞれの布教の地で人材を育成して、未来において永く布教が進むような教団に組織が出来上がると次の土地へと出発しました。

こうしてインド中に仏教の流れを興せば、自分が死んだ後も、同じような原理で今度はインドから全世界へと仏教流布(るふ)が進むであろうと確信していたのです。

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釈迦が布教した中で、国全体が仏教を信奉するようになったものに、マカダ国があります。

ガンジス川流域の広い流域を有している大国の一つでした。

マカダ国では、王も信徒になりました。

さらに後年、釈迦が布教を進めるうえで大活躍をする弟子たちも、この時に門人となっています。

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また、釈迦がやって来るまでは、国の中心になっていたバラモンの多くの指導者が、釈迦との論争の末に弟子となりました。

それぞれの指導者には数百人のバラモン教徒が門人としていたので、彼らも皆一度に弟子となりました。

釈迦の一貫した信念である、苦しむ人の救済という実践に数千人の弟子たちが、マカダ国のあらゆる所で精進をしました。その結果、国民の多くの人々が釈迦の信徒となったのです。

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王は、大きくなった釈迦教団に、広大な竹林を修行の場として提供しました。これが、竹林精舎(しょうじゃ)といわれるものです。

釈迦にとって国王が帰依者となり、全面的な支援をしてくれることは、仏教の布教に大きなはずみ与えてくれるものとなりました。

やがて仏教は、インド全体に大河の流れのように浸透していきました。特に多くの信徒が誕生した国では、国民の三分の一が釈迦の門下となり、三分の一が釈迦の支援者となり、三分の一は釈迦のことを知らない、といわれるほど仏教が民衆の間に根を張っていました。

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仏教は、釈迦の深い悟りと民衆救済への思いが、理想的な布教教団の体制を形作り、インド最大の宗教として定着していきました。

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(D)大難

釈迦の布教が、全国的な大河のような流れになるにつれて、それに比例するように妨害する動きも次々と出てきました。

代表的なものを列挙してみると次のようなものです。

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(1)一人の娘が反仏教集団の僧侶にそそのかされて、釈迦と肉体関係があったとあちらこちらで言いふらして、清廉潔白な宗教者としての釈迦の社会的な信用を失墜させようとしました。

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(2)釈迦が弟子をつれて、バラモンの富豪のところへ托鉢(たくはつ)の修行に行きました。その家の女中が出てきて、腐った残飯を鉢(はち)の中へ入れ、

「これが供養だ、食べよ」と言いました。

そして、主人が出てきて、

「これは、前世にぜいたくな食事をして、食べ物を粗末にした報いだ」とののしりました。

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(3)仏教をよく思わない国の王が、説法を聞かせてくれと言って釈迦と弟子たち五百人を城に招待しました。

ところが、王は釈迦たちを接待せずに、遊楽にふけっていました。そのため、釈迦一行は九十日の間、馬の食べる麦を食料として過ごさなければなりませんでしたた。

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(4)釈迦の父親が国王をしている故国が、息子が仏教を広めているということを口実に、隣国の大国から攻められて滅ぼされました。

その時、釈迦の一族も皆、殺害されました。

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(5)釈迦が弟子とともに、ある国に布教活動に行きました。国王は反仏教者で、国民に一切の供養を禁じました。

さらに、説法を聞く者には、罰金を科して邪魔をしたので、食事もできず、誰にも説法をすることができませんでした。

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(6)一人の遊女が、腹の中に鉢を入れて、釈迦のところへやってきました。そして、釈迦の子を身ごもったと言って誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)しました。

こんなことが釈迦の身の回りには、しばしば起きていました。

さらに、釈迦に対する迫害で最も激しかったのは、いとこのデーヴァダッタの反逆でした。

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デーヴァダッタは釈迦が悟りを開いてから、間もなく弟子になった親戚でした。

デーヴァダッタは初めのうちは純真な信仰心から釈迦の教えを忠実に実践し、教団の中でも幹部として力を持つ存在になっていました。

デーヴァダッタを狂わせたのは、名聞名利の野心と権力欲でした。

彼は釈迦の親戚であり、統率力もあったので、周囲の門下たちからも一目を置かれる存在でした。

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それで気を良くした彼は思い上がって、釈迦を失踪(しっそう)させて教団を乗っ取る事を画策したのです。

ある時、多くの弟子たちが集まっている説法の席で、デーヴァダッタは釈迦に教団の運営を自分に任せるように迫りました。

釈迦はこれに対し、厳しく批判し、信仰心よりも野心があることを皆の前で叱責したのです。

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デーヴァダッタはこの時、親戚でもある自分に大恥をかかせたと恨みに思い、徹底した反逆の人生を歩むことになりました。

まずデーヴァダッタがやったのは、地元の国の王子に取り入ることでした。

現在の王は、仏教の慈悲を政治の根本理念において国を治めていたので、国民から非常に人気があり、長期政権となっていました。

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王子はいつまでたっても自分に王位が譲られないことを不満に思っていました。そこにデーヴァダッタは目をつけたのです。

デーヴァダッタは王子のもとへ行き、

「王の悪評を教団の組織を使って流し、王位を王子に譲らねばならないようにする」

と約束しました。

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その代わり、自分にはしっかりと供養をお願いしたいと要求したのです。

悪評が流れ始めると、王子は種々の大量の金品をデーヴァダッタに供養しました。

釈迦の弟子たちの中には、そんなぜいたくな生活をうらやましく思うような者たちも出てきました。

デーヴァダッタはそれらの門弟を仲間に引き込んで、教団の切り崩しを画策しました。

釈迦は逆に、名利や欲望が仏道修行の障害になることを説いて、厳しく戒めました。

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王は悪評が流れてもなかなか退座しませんでした。それでデーヴァダッタは王子に王殺害の謀略を授けました。

王子はそれに従って、王をだまして地下牢に入れて、餓死させました。

そうして、王子は王位を継いだのです。新しい王は、デーヴァダッタを全面的に支援する信者となりました。

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デーヴァダッタは、城の兵士を使って釈迦を殺害するように頼みました。

しかし、兵士たちは釈迦に近づいたところ、全員が釈迦の覚者としての威厳に心を打たれて、殺害することができませんでした。

デーヴァダッタは悔しがって、今度は自分自身が釈迦を殺害する行動に出ました。

釈迦が崖の下で説法している時に、裏山から崖の頂きに上り、下の釈迦をめがけて大きな石を転がり落としたのです。石は途中で砕けてバラバラになり、命に及ぶことはありませんでしたが、破片が釈迦の足の小指に当たり出血しました。

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さらに、デーヴァダッタは、釈迦が弟子たちと布教の地へ行く途中で待ち伏せをして、凶暴な像に酒を飲ませ、釈迦一行に襲いかからせました。

釈迦は逃れたものの、何人もの弟子が踏み殺されてしまいました。

結局、デーヴァダッタの謀略はすべて失敗に終わりました。

彼は、仏に反逆した罰により生きたまま、血を吐いて地獄に落ちました。

それを哀れに思った釈迦は、神通力を使ってデーヴァダッタを救ってやりました。

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また、デーヴァダッタにそそのかされて釈迦を迫害した王は、後に改心して、釈迦滅後、仏典の収集に尽力することになります。

釈迦はさまざまな迫害に対して、

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「難は大きければ大きいほど、素晴らしい仏であるということを証明してくれるんだよ。仏とは、いかなる大難が来ようとも、悠然として乗り越えられる人のことだ。それが真実の幸福者の姿だよ。

そうだろう、幸せというのは何も苦難がないことではないのだよ。どのような困難がやってこようとも、それを乗り越えられる自分に変わることが幸福になるということなんだ。

そういう意味で言えば、私が仏であることを証明してくれたのは、デーヴァダッタ以外に誰もいないね」

と言いました。

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(E)入滅

釈迦は生涯、布教と民衆救済のために旅を続けました。

信者が多くなり、多くの寺院なども寄進を受けたましたが、そこを利用するのは雨期の期間だけでした。

常に歩き常に説法をし、人々の幸せに奉仕する行動者でした。

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八十歳になった時、釈迦は自らの人生の終わりが近づいていることを自覚しました。

それでも、竹林精舎で雨期を過ごした後、北方への布教の旅へと出発しました。目指す方向は、すでに滅ぼされていましたが、故国(ここく)でした。

釈迦一行は、ガンジス川を渡ってさらに北の方向へと進みました。

その間にもそれぞれの地域で説法をし、また、会う人ごとに苦悩を乗り越え幸福へと進む道を教えました。

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釈迦に接した人々は皆、威厳の中に誠実さと温和さを供えた釈迦の人間性にひかれ、さまざまな供養をしました。また多くの人が、釈迦一行を歓迎するための食事会を開いてくれました。

まさに釈迦は、国民的に慕われる指導者となっていました。

釈迦の体力はさらに弱まり、ガンジス川から数日間歩いて行った所の村で、体を動かすことができなくなりました。

多くの弟子たちが心配して集まった時、釈迦は、

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「弟子たちよ。よくお聞き。私はあなたたちに教えることはすべて教えた。私はあなたたちに隠しているものは何もない。これからは、今までの教えが私のすべてと思い、自分の責任のもとに、布教、救済活動をしていきなさい」

と静かに語りました。

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この後、釈迦は沙羅双樹(さらそうじゅ)といわれる二本の樹木の間に簡素な床を作らせ、そこに横たわりました。

釈迦は死が近づいているのを自覚していました。

そこに一人の農夫がやってきました。農夫は、釈迦が近所に来ているということを聞きつけて、ぜひとも教えを受けたいと思って来たのでした。

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弟子は、臨終の近い師を守ろうと、農夫を止めて押し問答をしていました。それを聞きつけた釈迦は弟子に、「止めなくてもよい」と言って農夫を近くまで呼びました。

そして、苦悩を乗り越え幸福へと進む道を説いたのです。農夫は歓喜して何度も感謝の礼拝をなして帰って行きました。

釈迦は臨終の直前まで、一人の庶民のために尽くす生き方を貫いたのです。

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やがて臨終の時がきました。

沙羅双樹は開花の季節でもないのに花が咲き、満開となりました。

花びらは、人類救済の礎を築いた釈迦仏を賛嘆するかのように降り注ぎました。

偉大な釈迦の八十年の人生は終わりを告げました。

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(この項目は種々の資料、情報をもとに創作しました)


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