現在どうしても叶えたい願いがあります。ご本尊様に真剣にお願いしています。この願いを叶えて、私の大きな体験として友人に話して折伏したいのです。ただ、本当に叶うのかどうか心配です。

言うまでもないことですが、具体的な祈りの内容を定め、
それに向けて唱題の目標を定めて、
実践をすれば、必ず、そうさせまいとする魔の働きがでてきます。
現在の質問者さんの状態がこれです。

「行解既に勤めぬれば、三障四魔
紛然として競い起こる乃至随うべからず、畏るべからず。
これに随えば、人を将いて悪道に向かわしむ。
これを畏るれば、正法を修することを妨ぐ」です。
一歩も引かずにやりきることです。

このことは、世法の道理からも理解できます。
例えば、マラソン選手が自分の記録の限界を超えようと思えば、
様々な困難や不安、すなわち魔を乗り越えなければ達成できません。
それらを乗り越えて達成したならば、
より強い実力のある自分に成長できたということです。
途中で、挫折したとしたら、
以前の自分の運動能力と変わらないということです。

信仰も同じです。
目標を決めて、それを、魔を乗り越えて達成したとき、
今までの自分では為すことができなかったことを
やりきることができる、実力ある自分になれたということです。

創価学会の信仰の素晴らしさは、
また、日蓮仏法の素晴らしさは、
信仰上の目標達成は、そのまま、
現実生活の仕事に影響を与えるということです。
だから、質問者さんが、今の目標をやり切ったならば、
必ず、仕事上で、今までできなかった仕事量を
できる実力を身につけられることになります。

これが、「信心即生活」「仏法即世法」と言うことです。
このことは、創価学会員でない人には、
「夢のまた夢の話」なのです。
それはそうでしょう。創価学会の信仰を
新興宗教か、初詣に行くくらいのものにしか、
理解できていないのですから。

それで、次は「祈の姿勢」と「願いの叶い方」の関係についてです。
まず何よりも、現在の質問者さんの祈りの実践を魔に負けずに、
やりきることです。

大聖人様は、
「法華経の行者の祈りのかなわぬことはあるべからず」
と教えられています。
断じて、自分の弱さ、迷い、不安などの魔に負けずに、
「願いが必ず叶う」の大確信で、実践しぬくことです。

そして、やり抜いた上での結果をどのように受け止めるがです。
大聖人さまは次のように教えられています。

「祈禱においては顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応
冥祈顕応の祈禱有りといえども、
ただ肝要は、この経の信心を致し給い候わば、
現当の所願、満足あるべく候」

これは、大確信で祈り抜き、実践し抜いた結果については、
どのような結果であったとしても、
必ず、人生において最高の、祈りの叶い方になるということです。

学会員の人の多くの人の体験では、
「祈りは、願った通りの結果にはならなかったが、
その時は、少々がっかりしたが、 10数年経って今、
考えると、最高の祈りの叶い方であったことが分かった。
むしろ、あの時、願った通りの形になっていたとしたら、
逆に、その後の人生はうまくいってなかった可能性がある」
と体験談では語っています。
これが、本当の、願いの叶い方です。

考えてもみてください。
質問者さんの「願い」は、言うまでもなく、
今の質問者さんの境涯での「願い」でしょう。

低俗な例えで言えば、
「金が欲しいから、宝くじを買って御本尊に供えて、
当選するように必死で祈った」
こんな境涯の人に、もしも祈りが叶って、お金が手に入ったとしたら、
その人の人生はつまらないものになるでしょう。
逆に、願いが叶わないようにするのが、本人の人生のためになります。

要するに、質問者さんが現在の、願い、祈りの信仰実践を貫いて、
出てきた結果については、
人生における最高の結果であることは間違いないのです。
学会活動をやり抜き、祈り抜き、唱題し抜いた上での結果については、
「ご本尊様にお任せします」
というくらいの気持ちで、悠然と生きていけばよいのです。

最後に、 1つだけ気になることを書いておきましょう。
「この願いを叶えて、私の大きな体験として友人に話して折伏したい」
と書いていますが、これには、
どうも、生命の弱さを感じます。

「体験を積まなければ、折伏できないのか」ということです。
それでは、体験が積めなければ、
いつまでも折伏できないことになります。
逆です。
「体験を積むために折伏をする」
という強い生命になる必要があります。
まあこれは、質問文を読んで、
何となく感じた事ですので参考程度にしてください。


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