1966年(昭和41年)9月、高校野球で有名な兵庫県の甲子園球場において、関西創価学会が文化祭を開催しました。
開会の予定時間は日没後になっていました。しかし3日前から近づいてきた台風の影響もあり雨が続いていました。予報ではこの日に近畿地方直撃の恐れもありました。
連日の雨のためグランドはぬかるみ、いたるところに水たまりができていました。
開会時間が近づいてきて、雨は小ぶりにはなってきていたが、止むことはありませんでした。
文化祭の執行部は開催か中止かの判断に迷いました。
出演者4万人と観客を含めると10万人が参加する文化祭だったので、軽率な判断はできなかったのです。
池田会長はずいぶん早く会場に到着していました。すぐに小雨の中、グランドの観客席に近いところを1周しました。入場券を持っていた観客は開会予定時間にはまだかなりの時間があったが、ほとんどの人が色とりどりの傘をさして席についていました。
外野スタンドには2万2千人の人文字のメンバーが傘もささずにぬれたまま待機していました。
その前のグランドを会長は自らも濡れながら帽子を振ってゆっくりと歩いて、メンバーを激励しました。人文字担当の会員には、青年や入会間もない人が多くいました。
会長を目の前に見るのは多くの人が初めてでした。会長が近づくと皆、両手を挙げ、歓声をあげて応えました。
時間が経てばたつほど、台風の影響が出てきそうな気象状況でした。
会長は、早く始めて早く終わるという決断をしました。
開会のアナウンスが流れたのは、開会予定時間の1時間以上も前でした。多くの来賓も早々と席に着いていたので、不都合はありませんでした。
本来は暗い中で演じられる演技が、薄暮の中で続けられていきました。
一時は雨が止み、西の雲間から夕日が差し込んでくるほど回復しました。しかし、グランドにはいたるところに水たまりがある状態でした。そのグランドいっぱいに演技が繰り広げられたのです。
青年女子部の演目では、純白のドレスを着た出演者が一斉に地に伏す場面がありました。多くの演者が勢いよく、水たまりに水しぶきはあげてうつぶせになりました。その瞬間、球場内には、天に抜けるような驚きの声が上がりました。そして、泥だらけになったドレスで立ち上がった時、球場内には拍手の音が響き渡りました。
最後の演目であった青年男子部のマスゲームは、2400人が出演しました。
頭から泥水をかぶり、顔が汚れて誰か、わからないくらいになりながら、一糸乱れぬ団結の姿で力強い演技を披露しました。
バックの背景となった野外スタンドの人文字は、色のついたスケッチブックを顔の前に持ち上げ、合図とともに決められた番号の色を2万2千人が一斉に開きました。
巨大な絵巻物が52種類にわたって背景として描かれました。人間業とは思えないほど素晴らしい団結の姿でした。
文化祭は4万人の出演者による、雨と泥の一大芸術作品となりました。
この文化祭は、今も関西創価学会の中で、「雨の関西文化祭」として語り継がれ、伝説にさえなりつつあるものです。
それは、日本の個人主義の意識が強くなった社会の中で、この様な人間の結びつきから創造される文化祭が開催できることを奇跡に近い思いで受け止めさせるものでした。
学会批判者は、
「こんなことができるのは世界の中で、北朝鮮と創価学会しかない」
などと減らず口をたたいていましたが、創価学会の組織の、測り知ることのできないエネルギーに恐れを感じていたことは間違いありません。
後年、池田会長はこの文化祭のことを、
「この時の光景は、最大の誉れと、歴史として、私の脳裏に深く強く鮮烈に刻みつけ、終生忘れることはできない」
と書いています。
「雨の関西文化祭」には国内外から多くのマスコミ関係者が来ていました。70数社、100人を超える報道陣でした。
米国AP通信、UPI通信、CBS放送、フランス国営ITN放送、英国BBC放送、国内NHK、MBS、TBS、YTVなど、また大手4社の新聞社も雨の中、取材に来ていました。
その後、それぞれのマスコミはさまざまな報道をしました。その中で、特集を組んだサンデー毎日は、
「それにしても、あの雨の中に、十万人の会員が集まり、ドロだらけになって一糸乱れずゲームを続けたという驚くべきエネルギーは、どうして生まれるのか」
と書いています。マスコミ各社にとって、この文化祭は創価学会の認識に大きな影響を与えるものになったのです。
学会の聖教新聞社も詳細な撮影で記録に残しました。それを8ミリフィルムに編集して記録映画として販売もされました。それが日本各地で映写運動として映され、関西にとどまらず全国に大きな感動を広げました。
さらに、このフィルムは以外な影響をもたらしました。
中国と日本は太平洋戦争後、中国の内戦や台湾を国として認めるかどうかなど、さまざまな壁が存在して、日中国交に至りませんでした。
しかし、日中民間貿易協定などは締結され、経済的な交流は細々ながら続いていました。
そして、周恩来総理は日本との国交を模索していました。中国の政府内に日本の状況を収集する部署までも作って、日本の国内の状況に関心を持っていたのです。
日本人の中国に対する見方は、戦時中の感覚がそのまま残っていました。中国人に対する差別的な軽蔑意識です。
さらに、朝鮮戦争が勃発するに及んで、北朝鮮には中国やロシアなど共産主義国が支援をすることになり、韓国側にはアメリカや日本の自由主義国が支援をする構造になり、中国との距離は縮まりませんでした。
日本の国民の意識としても、ロシアに対しては、「オソロシア(恐ろしや)」などと、共産主義に恐怖心を感じさせるものがありました。
1960年(昭和35年)、東京日比谷公会堂において演説中の日本社会党委員長・浅沼稲次郎氏が右翼の青年に銃剣で刺し殺されるという事件が起きました。
これは一部の特別な思想を持った人によって起こされたものですが、当時の日本の社会全体にも少なからず、社会主義体制に対してさえも嫌悪感を持っていた証でもありました。
なおさら共産主義に対する拒絶感、恐怖感と中国人に対する差別感によって日本と中国は仲良く国交を結ぶという状態ではなかったのです。
このような状況の中で、中国側の、日本の状況を収集する役人に大きな影響を与えたのが「雨の関西文化祭」の記録映画でした。中国の関係者がこれを見て、創価学会という団体に対して、
「大衆を基盤とした団体・日中友好にとって大切な団体」
との認識を持ちました。
このことについては、周総理の通訳だった人が後年、証言をしています。創価学会に対する認識は、当然ながら周総理にも伝えられました。周総理は創価学会に対して、日中友好を進めるうえで重要な存在であると認識したようでした。
1968年(昭和43年)9月、東京の日大講堂で創価学会の大きな会合が開かれました。学会の中にはさまざまな部署がありますが、大学生の集まりは学生部と称されています。
その学生部の第11回総会が行われたのでした。
この総会には全国から2万人を超える大学生の会員が集まってきました。地方の学生たちは前日から夜行列車に乗って上京してきました。参加者には事前の指導会で、
「池田会長は、この総会で命をかけた講演をされる。居眠りなどせずに真剣に聞くように」
ということが徹底されていました。
ただ、講演の内容については知らされませんでした。
総会が始まり、式次第が進んで、池田会長の講演になると、参加者は神経を壇上に集中しました。会長の力強い声が講堂の中いっぱいに響きました。
講演が始まって20数分経過した時でした。
「ここで私は、中国問題について触れておきたい。中国問題については、かねてから、ベトナム戦争が終結すれば、次の焦点は中国であるといわれてきました」
池田会長の声が一段と力強くなりました。
こうして話し始められたのは、中国と日本の国交に関するものでした。
参加者の多くがこの時、命をかけた講演というのが中国問題であるということを知りました。
中国についての内容は40分近くにわたりました。
当時、さまざまな分野で中国と交流しようという小さな流れはあったが、公の場で国交の提言をするということには、国民感情として受け入れられないものがありました。会長自身も当時を振り返って、
「私が国交正常化の提言を行った当時は、中国との友好を口にすることさえ、はばかられる空気があり、ある意味で、現在以上に厳しい状況にあったともいえます」
と述べています。
学会に対して悪意のある人からすれば、
「創価学会の本音は共産主義だ」などと批判の材料にするにはもってこいの講演だったともいえます。現に、この講演の後、会長の自宅周辺に右翼の街宣車が連日のごとく集合して、わめきたてるという事態が続きました。
会長は、
「毎日、ご苦労なことだ。コーヒーでも出してあげなさい」と言われたとも聞いています。
この講演が、「日中国交正常化提言」として、後々にまで語り継がれる歴史的な提言となったのです。当然ながらこの内容は中国政府、周総理にも伝わり、高く評価されました。
そして6年後の1974年(昭和49年)12月、中国を訪問した会長は、周総理と会見をしました。この時の周総理は重い病に伏していて、医師からは会見を見合わせるように言われていたようです。
しかし周総理は、池田会長と会うことを極めて重要なことと考え、北京の3〇5病院の中で一期一会の出会いを刻むことになりました。
ここで周総理は日中友好の万代に渡るかけ橋を会長に託しました。そして2年後の1976年(昭和51年)1月に周総理は亡くなられました。
会長は、その後も周総理夫人のトウ・エイチョウ女史との語らいをさまざまな場所で8回も続けました。
最後はトウ・エイチョウ女史の自宅で、入院中だったにもかかわらず車いすで退院してきて、会長夫妻と会っています。トウ・エイチョウ女史が一貫して言っていたのは、
「中日友好を発展させるために尽力された池田先生の精神に学んで、ともどもに友情をさらに固めた」
ということでした。
1972年(昭和47年)竹入義勝元公明党委員長が訪中して、長時間にわたって、何度も周総理と会談をしました。その時、周総理は中国の考え方の基本を示しました。
その中で特に、いつも喉に刺さる棘のような台湾問題についても、条件付きで譲歩することを明言しました。
帰国した元委員長の報告を田中角栄総理は聞いて、訪中することを決意したとも言われています。
公明党の竹入元委員長の訪中をきっかけとして、1972年、田中総理大臣は訪中して、周恩来総理と「日中共同声明」に調印を交わしました。
それから6年後、1978年、「日中平和友好条約」が調印されました。
この間に池田会長は、「日中国交正常化提言」が行われた6年後、1974年、池田会長を団長とする最初の訪中団が中国へ渡りました。それから、1997年(平成9)までに十回の訪中を果たしています。
その間、多くの大学から名誉称号を受賞しています。また、北京大学では3回の記念講演も行い、大学内には「池田大作研究会」が設置されています。
また、1975年(昭和50年)新中国からの官費留学生を日本で初めて創価大学が受け入れました。そのうちの1人であるリ・ハイさんは、母校の講演で次のように言っています。
「私は中国外交部に入り、通訳の予備軍として、日本への留学にそなえていました。しかし、日本で受け入れて下さる大学が見つからず、ある大学の聴講生になったものの、日本語特訓を目指す私達にとって、理想の学習環境にはほど遠いものでした。中国大使館の方からそうした状況を聞かれた池田先生は、すぐ私たちの保証人になり、先生が創立された創価大学への正式な入学を決断して下さいました。(中略)
1975年4月、新中国からの第1期国費留学生6人は、桜花爛漫の美しき創価大学のキャンパスに到着しました。私たちを池田先生が先頭に立って出迎えて下さり、熱烈歓迎の拍手と歓声、多くの先生方と学生達の笑顔に囲まれての入学となりました。日本に来て以来、これほどの歓迎をうけたのは初めてで、胸が熱くなったのを覚えております」
後年、この6人のうちから在日本中国大使と中日友好協会副会長も誕生して、日中友好に力を尽くす人生を歩んでいます。
池田会長のこれらの功績に対し、中国文化部から、両国の文化交流事業を推進貢献したことに対して「文化交流貢献賞」が授与されました。ちなみにこの賞は、池田会長が第1号でした。
池田会長の日中友好に対する功績は誰が見ても明らかです。
ところが、学会批判者にとっては歴史的事実であるだけに不都合極まりないものだったのです。そこで、学会批判者は頭から、池田会長の功績を無かったものにしようとしました。
「会長の『日中国交正常化提言』や訪中は学会内においてはまるで、会長が日中友好の立役者のように思い込まされているが、実は全くそうではない。会長が、提言や訪中をしなかったとしても国交正常化はできたのだ。会長以外の多くの人たちが力を尽くして道を開いてきた結果なのだ。これが客観的な事実だ。学会員は、会長を祭り上げるために事実を隠して洗脳されているだけだ」
こんなデマを飛ばしています。さらに、公明党の委員長として訪中した竹入元委員長までもが、
「日中友好は自分の功績である。創価学会とは政教一致であり、ずいぶん苦しまされた」
などと新聞に手記を発表して、手柄を横取りしようとしました。
所詮、学会批判者にとっては池田会長や学会の功績は、すべて虚偽にしたいのです。
「学会内で、会員には素晴らしい業績だと言っているが、それは客観的な事実からすれば嘘である。会員は事実を知らされずにだまされている」
これが学会批判者の口癖です。
学会批判者が言う「客観的な事実」というのは、様々な都合のよい、それらしい事柄を並べたてていますが、ほとんど全てと言ってよいほど、全く逆の虚偽なのです。
それこそ、一般の人たちが、詳しいことを知らないのをよいことに、いかにも真実であるかのように嘘を並べたてているのです。
学会批判者の言っていることは、実際には白いものであったとしても、それが学会や池田会長を称賛するものであればすべて、
「学会は白だと言っているが、客観的事実は黒なのだ」
と平気で言うのです。
その裏には、
「事実を知っている人には嘘であるのはすぐにバレるが、関係者以外の多くの人は本当かもしれないと思うから、反学会勢力を増すことになる」
という打算があるのです。
だから、これまでの長い学会批判の歴史の中で、同じようなパターンの虚偽宣伝が飽きもせずに何度でも繰り返されてきたのです。
日中友好の功績についても懲(こ)りもせず、あれやこれやと関係者からみればバカバカしい虚偽の根拠を挙げて、まるで学会の発表がすべて誇大宣伝であるかのごとくの印象を作っているのです。
これらの批判の特徴を例えてみると、《馬のゲリ便》のようなものです。学会批判者は、下痢をした馬の肛門のあたりを見て、
「馬というのは赤くただれた皮膚に悪臭のする粘液がくっついたものだ」
と言うのと同じです。
それに対して学会が、
「それは馬の実態ではなく、ほんの1部の部分を全体かのごとくにごまかしているに過ぎない」
と反論すると、
「ごまかしているのは学会側だ。《馬のゲリ便》は虚偽ではなく事実ではないか。都合の悪い事実は隠して学会員には言わずに、池田会長を崇拝させるような作り事ばかりを学会内に流しているのが真実だろう」
と、どこまでも自己の欺瞞性を認めようとはしません。
真に客観的で一般的な良識から見れば、学会批判者の言っていることは、
「批判のための批判であり、真実味はない」
というのはすぐに分かるのだが、批判者自身は善悪や真偽に関係なく、学会批判をすることをメシの種にしたり、生きがいにしているのだから救いようがありません。と同時に、これほど罪の重いものはないでしょう。
昨年(2016年・平成28年)8月28・29日の両日にわたり、中国の国営テレビ、中国中央電視台系列のCATV老故事が、池田会長の日中友好の業績を特集するドキュメンタリー番組を放映しました。
「一生一次的会見」と題する30分ものの番組は合計6回放映されました。
番組では、池田会長と周総理夫妻との交流が映され、総理が重病を押して池田会長と会見されたことについては、
「周総理は長年、中日友好を主張してきた池田大作先生、ならびに池田先生が代表する日本の創価学会に大変、注目していました」
と説明した。また、「日中国交正常化提言」やその後の10回に及ぶ訪中など、日中友好のために尽くしてきた業績を伝えて、
「池田先生は、中日両国人民の心に『友好の橋』を築きあげたのです」
と解説をしました。
創価学会や池田会長の業績を、事実をねじ曲げて批判材料に作り替え、矮小化する学会批判者は、人間の生き方として、自らの人生を穢(けが)していることを知るべきでしょう。