創価学会と日蓮正宗大石寺

大石寺というのは、静岡県にある日蓮正宗の総本山です。創価学会は、この寺に所属する信徒団体の1つとして発足しました。
この寺の信徒団体は他にも複数あります。

日蓮正宗という宗派も、大石寺という名前も、創価学会が世間で知られるようになるまでは、ほとんど誰も知らなかったでしょう。それもそのはずで、何の特徴もない寺でした。
特に戦後の農地改革、開放政策により、寺の敷地の多くを失い、小規模な寺院になってしまいました。

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「正宗」という漢字の読み方さえ誰も知らないような、社会から注目されることなどない小さな寺だったのです。もちろん、マスコミに取り上げられるなどということはほとんどありませんでした。

1949年(昭和24年)の文化庁の宗教統計調査によると、日蓮正宗の全国の寺院数は、104箇寺にすぎません。信者数は、30万人です。
それに対して日蓮宗は、4474箇寺あります。信者数は、140万人です。
比較のために他の宗派のものを挙げてみると、浄土真宗は本願寺派だけで、10393箇寺あります。信者数は、660万人もいます。

このように比較して見ても、日蓮正宗という教団がいかに小規模なものであったかということが理解できるでしょう。

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その後、40年が経過した1989年(平成元年)にはどのように推移したかを同じく宗教統計調査で見てみます。
日蓮正宗の寺院数は661箇寺、信者数は1780万人となっています。

その後、大石寺側が創価学会を『破門処分』にしました。
創価学会と大石寺とは全く関係のない独立した宗教団体になったのです。法的には、先見の明のあった第2代戸田会長が、創価学会として独立した宗教法人にしていたので全く問題はありませんでした。
したがって、1989年(平成元年)の寺院、信者数は学会が大石寺の中の信徒団体として在籍していた最後の数字です。
40年間の間に、これほど発展した宗教団体は日蓮正宗以外にはありません。

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さらにその後、『破門処分』の統計が反映された1997年(平成9年)の宗教統計調査を見てみる。寺院数は、661箇寺。信者数は、30万人となっています。

創価学会と大石寺との関係については、学会に関する批判情報がいつもそうであるように、様々なものが膨大な量、飛び交っています。しかし、この文化庁の宗教統計調査を見れば、事実は単純で明らかなことが分かるでしょう。
この統計に相違したことを垂れ流している反学会情報は、すべて悪意から作り出されたガセネタなのです。

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統計を見ても明らかなように、大石寺は学会のおかげで発展したのです。小規模で誰からも注目されるようなことがなかった日蓮正宗が、104箇寺から661箇寺になり、信者数は、30万人から1780万人に増えたのです。
この増加した部分は、学会が信徒団体に入ってからのものです。

破門処分にした後、信者数は元の30万人に返っています。寺院については、2016年(平成28年)になっても統計では656箇寺です。増えるどころか減っているのです。
要するに、日蓮正宗大石寺の自力では、信者も寺院も増加させる能力が全くなかったことは明白です。

総本山の大石寺については、学会が様々な大規模な堂宇(どうう)を建設し寄贈しました。
その中でも1972年(昭和47年)に完成した正本堂という建物には、6千席の椅子席があり、1度に6千人もの信者が参拝することができました。参拝者の多い時には、1日に何回も入れ替えて参拝の行事を行っていたものです。

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なお、正本堂は日本建築学会賞を受賞した横山公男氏の設計によって建築されたものでしたが、大石寺側は破門通告後、50億円の費用をかけて解体しました。

創価学会は、寺の敷地についても広大な土地を購入して寄付しました。その結果、農地改革によって失った土地をはるかに超える広さになりました。
それで、1日、1万人を超える参拝者を受け入れることできる大寺院になったのです。

学会は、1963年(昭和38年)には、「300万総登山」という目標を定めて、大石寺へ膨大な人数の参拝を行ないました。
「登山」というのは大石寺にお参りに行くことです。これから見ても、大石寺への参拝者の割合は、ほとんどが学会員だったことは言うまでもありません。日曜や平日に関係なく毎日、参拝はなされたので、仕事や経済的な苦労を乗り越えての参加でした。

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非常に大勢の人数が同時に移動するので、会員の利用する駅は増加する乗客に対応して整備をしました。
はじめに利用していたのは、現JRの身延線の富士宮駅でした。大石寺への参拝用の専用団体列車が当時は多数発着していました。会員のスムーズな誘導のために、団体専用の出入り口や待合い室が整えられていました。

全国からのほとんどの会員は専用の夜行列車を利用して、早朝に身延駅に到着しました。会員は最低でも車中で1泊しました。
少しでも横になって眠れるようにするために、通路やデッキに新聞紙を敷いてごろ寝をした人もいました。疲労の多い行程でした。

さらに参拝の学会員が増えてくると、富士宮駅や夜行列車だけでは対応が難しくなってきました。そこで、静岡県富士市の地元や学会の請願によって、東海道新幹線に「新富士駅」という駅を新設することができました。1988年(昭和63年)のことです。

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この駅は、初めから学会の団体客が多く利用することが分かっていたので、バスへの乗り換えなどスムーズに流れるような構造になっていました。これにより、新幹線を利用できる地域からは、日帰りで参拝ができる人も増加しました。学会員の参拝者はうなぎ登りに増えていきました。

その後、大石寺が学会を破門して学会員が参拝しなくなると、新富士駅の利用者は、1日平均約千人に減少しています。

学会員からは1回参拝するごとに参拝料が徴収されることになっていました。その料金も途中で値上げをしていました。膨大な学会員の参拝者によって、大石寺は莫大な収入を得ることができました。
学会から寄進してもらった建物でボロ儲けをしたのです。これによって僧侶の収入は大きく上がりました。

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会員が境内にある宿坊に宿泊すると、宿泊料が坊の住職の収入となりました。
余談になりますが当時、宿坊で宿泊者の世話をしていた女子従業員の職場環境は劣悪そのものでした。
朝早くから夜遅くまで働かされ、食事はあり合わせのものでした。寝る部屋は廊下とガラス戸1枚で隔てられた狭い所で、全員が雑魚寝の状態でした。
給料は安く、何より、坊の住職とその妻には絶対服従で、理不尽なことにも耐えなければなりませんでした。

どうしてそんな職場で我慢しながら仕事を続けたのか。理由は1つです。日蓮大聖人にお仕えするという信仰心から耐えていたのです。大石寺に勤めているといえば、信仰者の間では、うらやましがられる傾向があったので、不満を感じてはいけないという自戒の念があったのです。

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創価学会員の従業員は、学会の純粋で温かい信仰の世界に比べ、住職をはじめとする僧侶関係者の、形式だけで、仕事として宗教行事をこなしている姿を見て、不信感を抱いた人が多くいました。
それに、僧侶関係者の家族や親族の人間関係も醜いことが多かったので、彼女たちは寺院の信仰のあり方に対して疑問を持っていました。
ただ、それは口に出して言えることではありませんでした。
いずれにしても、創価学会の信心の世界と寺の信心の世界とは全くの別物であることは肌身にしみて感じていました。

坊の住職は、いっさい営業活動をしなくても、学会員の宿泊客が次々と訪れて来てくれました。それで、いくらでも金もうけをすることができたのです。会員の参拝者は増加するばかりだったので、収入は年々増えていきました。

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このころのことです。僧侶の乗った高級外車が大石寺周辺に目立ち始めました。さらには、真っ赤な色の高級車まで乗り回している僧侶もいました。
さすがにこれだけは、学会員から苦情を言われたこともあり、寺側が禁止の通達を出したようで、その後、見かけることはなくなりました。

大石寺は日蓮正宗の総本山で、全国各地には末寺がありました。戦後はわずか100箇寺ほどであったのに、学会の発展につれて660箇寺を超えるに至りました。戦後建立されたほとんどの寺院は学会が寄進したものです。
それ以外に大石寺が建立したといっても、学会員の参拝でもうけた金で建造しているわけです。

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学会の寺院の建立寄進は、国内にとどまらず、海外にも広く行われました。10箇国を超えて建立され、アメリカや台湾などでは1国に多数の寺院も建立しました。
海外の寺院に池田会長が視察をするとき、時々僧侶の代表を招待したことがありました。招待された僧侶は、学会員の集まった説法の場などで、
「池田会長のおかげで、素晴らしい海外旅行ができた。このご恩は一生涯忘れることはない」
などと感動の面持ちで行っていたものです。

金をボロもうけしたのは総本山の大石寺だけではありません。末寺も学会員から金を巻き上げました。
毎月行われる「お講」といわれる、住職の説法する会合には、多いところでは数百人が参加しましたが、入り口では寄付金を集めていました。
参加者が少なくなると、住職は地元の学会の幹部に文句を言ってきました。地元幹部は僧侶に気を使っていたので、気分を害してはいけないと学会の組織で参加者が多くなるように推進したのです。

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また、正月や年間の記念日などの勤行会には多くの学会員が地元の寺に参集して、寄付をしました。
そして、春秋の彼岸法要や、盂蘭盆の勤行会には、5千円以上を出して卒塔婆(そとば)を供養しました。
卒塔婆というのは1メートルほどの細長い板に故人の名前を書いたもので、法要の時に本堂のご本尊の横の方に並べて供養するものです。多い時には何百本と立て掛けられて、置き場所を広げなければならないほどになりました。

時には、勤行の最中に、無理をして立て掛けた卒塔婆が大きな音を出して崩れたこともありました。卒塔婆は数多く立てれば立てるほど、良い事があるということで、普通の日の定時の勤行会の時にも多く供えられていました。

卒塔婆の板は、1度使用したものも、表面をカンナで削って名前を消して再び使用しました。寺によっては、板がペラペラに薄くなるほど、何度も削って使用したところもありました。

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また、会員は様々な機会に、地元寺院のご本尊へのお備えとして、酒を多く寄贈しました。多いときは仏前がいっぱいになり、床にまで並べるほどにもなりました。それらの酒は、宝前から下ろすと、契約している酒店へ運び込まれ、安く売り払って現金化していました。

学会員が増加するにつれて、葬式も多くなりました。僧侶はもったいぶって戒名をつけていましたが、戒名字引みたいなものがあって、それを見て写すだけのことでした。

僧侶には、1度の葬式で20万円前後を渡しました。それ以外に「お車代」として3万円ほどを包むことも習わしでした。
車代をとりながら、僧侶の、寺からの送り迎えは、必ず喪主側が手配しなければいけませんでした。
車が軽自動車だったりすると不機嫌な表情になり、僧侶を迎えるのにもっと高級な車で来い、と言わんばかりの態度でした。

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葬式の後の回忌法要にも僧侶を呼びました。1回の出席に5万円以上を渡しました。そして遺骨を寺に預けると毎年、管理料を払いました。

さまざまな機会に僧侶を中心に読経唱題の勤行を行いました。傲慢な態度やふてぶてしい言動で会員に嫌な思いや気を使わせる者が多くいました。さらに、勤行中に居眠りをする僧侶もいたのです。

学会員の必死の努力によって、新入会者は次々と増えていきました。入会の儀式は寺で僧侶が行いましたが、休日などには1回の儀式に何十人も入会者がいました。それを1日に何回も実施しなければならないくらい多かったのです。そして、1人の入会者につき5千円以上を寺に収めました。

僧侶は信者を増やすことを全くしませんでした。信者の中で僧侶から信仰を勧められた人など皆無でした。僧侶は、人々を日蓮仏教に帰依させて救済する、という本来の活動からは離れてしまって、ひたすら金もうけの行事をこなしていたのです。

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日蓮正宗の末寺は、他の宗派の末寺とは天地雲泥の差で、布教活動を一切しないのに、信徒は増えるし、それに従って驚くほどの金が入ってきました。
有り余る金を何に使ったのか。どの寺にも共通していることは、学会員に分からないように使うことでした。

学会員は寺や僧侶を守り、発展させようと思う気持ちが非常に強くありました。寺や僧侶が経済的に厳しい様子であれば、生活費を削ってでも寺に寄付をする人が多くいました。
この学会員の心境をよく知っていた僧侶は、会員の目には、いかにも質素な生活をしているというように見せていました。その裏で、隠れて金を使いまくっていたのです。特に僧侶の家族は贅沢三昧でした。

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「小人(しょうじん)閑居して不善をなす」
ということわざがあります。人間として小物な人物は、する事がなくてヒマになると悪い事をする、というくらいの意味です。日蓮正宗の僧侶には、
「小人金をもうけて不善をなす」
という言葉が最適です。

金満になった僧侶たちは、夜になるとかつらを被って、歓楽街に出かけました。中には、飲食店の従業員に婦人の学会員がいて、見つかった僧侶もいました。
後日、その婦人が僧侶に抗議すると、「たまには飲みに行かないと、ストレスが発散できない」と開き直りました。

僧侶たちは、見つかってから後も平気で飲みに行っていました。各末寺で、僧侶の自堕落な生活に対する批判は、学会員の中にくすぶっていましたが、学会本部の指導からの、寺院に対しては、尊敬と誠意を尽くすようにとの指導を守っていました。

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創価学会の、寺院や僧侶に対する考え方は、日蓮大聖人の振る舞いを現代に移すものだと考えていました。だから、深い尊敬の念を以て接し、金品の供養に対しても誠意を尽くしていたのです。
ところが、日蓮正宗の僧侶は根本的に大聖人の魂とは離れた存在でした。
言わば、宗祖に対する深い信仰心から僧侶をやっているのではなくて、仕事としてやっているのでした。それも、努力しなくとも大金が入ってくるわけですから、堕落しない方がおかしいともいえます。

この溝は埋まらないどころか、学会が発展するに従ってさらに深く広くなっていきました。

どうして、創価学会と大石寺は分離することになったのか。ここまで説明してくるとほぼ、予想がつくのではないでしようか。
原因の根本は、寺と信徒団体という関係が成立しなくなったことです。寺は当然ながら、寺が上で学会は下という関係を維持しようとします。
ところが実際の姿は、学会は海外にも広く拡大して1千万人を超える教団になったにもかかわらず、寺は戦前から続く旧態依然とした感覚でした。

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これは、世界的な仏教指導者となった池田会長と、大石寺の姑息な住職という人間のスケールの違いにも明確に現れています。
大石寺の住職というのは、日蓮正宗の責任者も兼ねていました。

寺は、旧態依然としたものを、日蓮大聖人の魂を継承する唯一の法門であるとしていました。それは寺側にしか継承されないものだから、創価学会は信徒として従って当たり前だ、という立場を必死になって守ろうとしました。
いわば、学会員は決して得ることができない、僧侶だけの権威を作り守ろうとしたわけです。

もし、学会が日蓮正宗の僧侶の権威に伏していたとしたら、大きく変わる日本の社会状況や世界のさまざまな国の事情に対応することができずに、発展することはできなかったでしょう。

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寺の時代錯誤の体質を表すものは数多くありますが、その中でも1991年(平成3年)に創価学会と分離することを「破門処分」などと言っていることにもよく表れています。
さらにその翌年、大石寺住職は、月刊の一般の総合雑誌に、「創価学会員に告ぐ」という題の文章を掲載しました。
その雑誌は、広告の中で、最も目立つ太字でこの題名を印刷していました。

これは新聞の広告欄にも出るし、電車の吊り広告にも使われました。学会員が見ても、会員以外の人が見ても、実に違和感のある記事の題名でした。
一般の月刊雑誌が一宗派の住職の書いた、信徒へのお知らせの文章を掲載すること自体が異例でしたが、それを大々的に宣伝するのは、異様でさえありました。

それもそのはずで、この雑誌を発行している、世間からは一流とみられている出版社は長期間に渡り、しつこく学会批判を取り上げているところでした。その取り上げ方は、常軌を逸していました。

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ここに学会批判の典型があります。
もしも創価学会が正しいとしたら、一流の出版社が批判記事を大々的に掲載するわけがない、と思う心理を利用したものです。

「破門処分」「創価学会員に告ぐ」などという言葉を使うところは、言語に対して少しでも造詣(ぞうけい)のある人であれば、何と時代錯誤も甚だしい団体であることか、とすぐに感じられるでしょう。
普通、破門といえば破門する側が正統的な大きな組織で、破門される側は少数の異端者であるのが当たり前です。ところが創価学会と大石寺とはどうでしょうか。

破門することによって、寺の信者は1780万人から30万人に減っています。どちらが本体だったのかといえば、創価学会が本体で、大石寺はそのほんの1部だったのが実態でした。だから本来は、創価学会が大石寺を破門したといった方が、形態としては合っているのです。

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例えば、大企業の社内で、全体の50分の1以下の業務を行っている部署があるとします。その部署の人たちが、「会社のやり方は気に食わないから、この部署だけ会社から出て独立しよう」と言っているのと同じです。

本来、これだけ大きく世界に発展した創価学会の組織が、破門処分などという前時代的な言葉が通用するような組織運営をしていると思っていること自体が、現代社会の実情がまったく理解できていないといえます。
おそらく、大石寺の僧侶は、江戸時代の殿様のような妄想を抱いて現代を生きている珍しい集団であるに違いありません。

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それもそのはずで、僧侶個人としては、現実社会の中で生活するために必死に汗水たらして働くこともなく、宗派としては、一般企業のように生き残るために全身全霊を傾けて営業成績を伸ばそうとする努力もしなくて、創価学会員からの有り余る布施によって、贅沢三昧の生活をしているわけですから、現実社会の感覚など分かるわけがないのです。

「破門処分」という言葉の中にその体質がよく見えます。大石寺が捉えている、破門処分を行う側と受ける側との関係は、

「大石寺住職は、日蓮大聖人の魂を正しく受け継ぐ唯一の僧侶である。住職の指導はすなわち、日蓮大聖人の教えである。創価学会は大石寺の信徒団体の1つにすぎないのだから当然、住職の指導に従わねばならない。それに反した言動をするということは、日蓮大聖人に敵対することであり、破門になって当たり前だ」
ということになります。

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世界で活躍し、多くの機関から称号を受賞している池田会長と一宗派の住職と比較すれば、その力量は天地雲泥の差があることは誰でもわかります。
これが住職にとっては最も気に食わないところだったのです。だから、「創価学会や池田会長が、どんなに発展し優れた人物になろうとも、決して住職より上の立場になることはあり得ないのだ」
という特権を必死になって守ろうとしたのです。

これは組織上、頂点にある人が、下のものよりも人間的にも実力的にも劣ることを自覚する時、自己防衛と保身のために使う古臭い論理です。
「破門処分」の根本には、住職の会長に対する嫉妬心があったことは間違いないでしょう。

嫉妬心と憶病な慢心に燃え上がった住職は、さらに現状と時代を錯誤した文章を書きました。それが「創価学会員に告ぐ」です。
この題名を読んだだけで、学校で日本史を習った人はすぐにピンときたことでしょう。

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1936年(昭和11年)、陸軍青年将校らを中心とした1500名ほどの兵士が社会と政治の変革を求めて、政府首脳への襲撃を行ったクーデター未遂事件がありました。
よく知られている『2・26事件』といわれるものです。
この時に、立てこもる反乱軍の兵士に対して厳戒司令部が発表したのが「兵に告ぐ」という文章です。

これはラジオ放送されるとともに、内容を短くまとめた「下士官兵に告ぐ」という見出しのビラにして飛行機からもばらまかれました。

大石寺住職の書いた「創価学会員に告ぐ」と厳戒司令部が発表した「兵に告ぐ」という見出しは、実によく似ています。
似ているのは見出しだけではありません。内容も論調もそっくりです。

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「兵に告ぐ」には次のような部分があります。
「天皇陛下にそむき奉り、逆賊としての汚名を永久に受けるようなことがあってはならない。今からでも決して遅くはないから、ただちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰するようにせよ。そうしたら今までの罪も許されるのである」

大石寺の住職が言いたいことは、
「自分は日蓮大聖人の魂が宿った生き仏だから、自分の言うことに従わないということは、大聖人に反抗することになる。池田会長を中心に創価学会は大聖人に弓を引いた。できるだけ早く創価学会をやめて、寺の信徒になるならば、仏のお咎(とが)めも許される」
というくらいのことです。

住職が自分を、絶対的存在である天皇と同じ権威権力が有る者だと錯覚していることがよく分かります。

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さらに、「兵に告ぐ」で「今からでも決して遅くはない」と反乱兵士に猶予を与えているところまで、大石寺が学会員に対して取った対策とよく似ています。
日蓮正宗は学会を「破門処分」にしながら、それ以降6年間の間は、「学会員も寺の信徒として認め、大石寺へ参拝することを許す」などと言ったのです。
その間に、「反省して学会を退会し、寺に来い」というわけです。なんとか、学会員を多く確保して、供養の金を多くしたいという苦肉の策です。

「破門処分」「創価学会員に告ぐ」などという時代錯誤も甚だしい寺の体質にあきれるばかりですが、さらに極めつけは、
「学会員が『第九』を歌うことを禁止する」
と言って来たことです。
『第九』というのは言うまでもなく、ベートーベンの交響曲第九番合唱付きのことです。

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学会では年末になるとさまざまな会合で、1年間の活動の祝意として『歓喜の歌』をよく歌っていました。それがどうしていけないのかというと、
「『歓喜の歌』はキリスト教を賛嘆する歌であり、それを認めることは日蓮大聖人の教えに敵対することである」
というわけです。

『歓喜の歌』はヨーロッパ全体を称える歌として『欧州の歌』にも採択もされています。日本では1918年(大正7年)、徳島県の捕虜収容所に収容されていたドイツ兵によって、初めて演奏されたといわれています。
このことは、映画化もされたりして有名です。収容所のあったところでは毎年、記念の日を『第九の日』として、定期演奏会を開いています。

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当然ながら、『歓喜の歌』は全世界で歌われ、賛嘆されている世界最高傑作の音楽です。
それに対して「大聖人の教えに敵対する」というのです。
この一事をとってみても、日蓮正宗大石寺という教団がいかなるものであるのか明確に想像ができるでしょう。

創価学会と日蓮正宗大石寺が分離した時に、さまざまな見解がさまざまなメディアを通じて飛び交いました。それらのほとんどは創価学会批判に利用されました。
しかし事実は、空虚な宗教的権威の下に、創価学会を従属させて、僧侶がいい思いをしようとしたにすぎないのです。
学会員を寺の思い通りに利用して、金を巻き上げようとしていたのです。

本来、大石寺との分離について、本質的には学会が批判される筋合いは全くなかったのですが、大石寺側はあらゆる策略を弄(ろう)して結果的に、「破門処分」に行き着いたのです。その結果は、寺側は信者の激減という致命傷を受けてしまいました。

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「破門処分」は巨大な団体の分離独立になりました。
実際にそこに至るまでには、さまざまな紆余曲折があったことは言うまでもありません。
それは、一住職の書いた文章が一流の月刊雑誌に掲載されるということを見ても想像できるでしょう。

大石寺の住職が自分の原稿を出版社に持ち込んだとしてもまず、取り上げられることはありません。当然ながら、出版社と住職の間に入って仲介した人がいたのです。
実はこの仲介者の仲間が学会と大石寺の分離に至るまでに様々な暗躍をなして、複雑怪奇な分離騒動にしてしまったのです。

巨大な集団が、自然の成り行きで、なんとなく分離するということはあり得ません。
旧満州事件の発端が柳条湖事件という自作自演の鉄道爆破事件を謀略に使うことによってぼっ発したことに似ています。日本軍は中国軍に爆破されたと正当性を主張して侵略攻撃を始めることができたのです。

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どうして学会と寺は分離したのか。簡単に言えば、仲介者たちが、学会と日蓮正宗の両方を乗っ取り、自由に牛耳ようとした謀略だったのです。
それによって仲介者たちは、巨万の富みと権威と権力を得ようと考えたのです。

仲介者がとった柳条湖事件にあたるものは、とにかく学会と寺の間の憎しみを増幅させる方法でした。そのために週刊誌などマスコミも最大限に利用しました。
そして、それを収めることができるのは自分たちしかいないという、仲介者の立ち位置を最も高いところに置こうとしたのです。
そうして、大石寺の住職と学会の池田会長を自由に操り、日蓮正宗と創価学会を支配しようとしたのです。

こんなことを言うと、映画やテレビドラマの作り話のように思えるかもしれません。しかし、明らかな事実なのです。

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学会の最前線にもこの影響は出てきました。
末寺に集まって説法を聞く会合の時などに、住職は週刊誌の記事をもとに激しく池田会長や創価学会を誹謗する話をしました。
また当時、朝夕のお勤めで読む勤行要典という小冊子を学会が作成していましたが、寺での勤行中に、若い所化は参加者の間を縫うように歩き回って、それを持っている参加者を見つけると大声でどう喝しました。そして寺が作った勤行要典に取り換えるように強要したのです。

学会員は寺の会合に参加する度に、非常に嫌な思いをさせられることが重なりました。
それなのにどうして寺の会合に参加したのか。それは、学会としてはあくまでも、寺や僧侶とは仲良く団結をして、布教活動に進むべきだと考えていたので、会員には我慢して寺に行くように勧めていたからです。

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ところが、ある時期から僧侶が全く学会や会長の悪口を言わなくなったこともありました。
その時期には学会と大石寺の代表が話し合いをして、お互いに攻撃し合うことをやめることで話し合いがついた期間でした。
その時は、大石寺から末寺に対して、「今後、いっさい会合の席で会長や学会を誹謗してはいけない」という通達を出しました。
学会側も会員に、「僧侶とは仲良くするように」という連絡事項を最前線まで徹底しました。

もともと学会は大石寺から分離独立するなどということは考えにありませんでした。どうしてかといえば、日本人に根付いている寺や僧侶に対する尊崇の念を考慮してのことでした。
日本人には、江戸時代の檀家制度が戸籍制度を兼ねていたような時代を通して、寺院というものに対して特別な感情が培われてきました。

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それは、仏教は寺院によって受け継がれ、儀式を実行できるのは僧侶に限られる、という考え方でした。ほとんどの人が、仏教は寺や僧侶の中にのみ存在するものであり、在家の者はそれらを拝むことによって仏教に触れることができると思っていたのです。

この仏教観からすれば当然、新たに学会に入会しようとする人には、学会が寺の信徒団体であるという位置付けがある方が安心して入ることができました。もし、学会が寺院とは関係のない宗教団体だとすれば、多くの人がいわゆる、新興宗教団体として軽く見たに違いありません。

釈迦や日蓮大聖人の教えからすれば、寺院という建物や特権階級の僧侶などというものが無くても、いくらでも仏教の存在は可能なのですが、学会としては人々の仏教観を認めながら布教活動をしていたのです。
寺の古い感覚と世界に通じる学会の新しい感覚とは、油と水のように相容れないようなものになってはいましたが、学会としては寺と仲良く進むのが最善の方法だと考えていました。

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学会と大石寺とが不協和音を響かせていた時、最前線の学会員が不思議に思うことが何度かありました。それは前述のように、僧侶が激しい学会批判して地元の学会員と対決状態になる時もあるが逆に、僧侶が全く批判をしなくなり、会員への対応もよくなる時期もあるということでした。数年間の間、何度かこんな状態を繰り返したうえでの「破門処分」だったのです。

実は学会としては何度も寺側と話し合いをして和解をしてきました。その都度、学会と寺は仲直りをして、新しく信頼関係を築いて出発をしました。ところが、その信頼関係が何度でも崩されてしまったのです。

学会と寺が仲良くなって損をするのは誰か。言うまでもなく仲介者たちでした。仲介者は、和解が成立すると、学会と寺との間に入って両方に、お互いが激怒するようなガセネタを流していったのです。
それがいかにも真実であるかのように見せるために週刊誌も利用しました。特に大石寺側は、住職と若手僧侶の集団が仲介者の手玉に取られ、右往左往したというのが実情です。

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学会側は、仲介者たちの悪質な動きは早くから把握していたので、何度も直接、寺側との話し合いを持ちました。
しかし結果的に、仲介者たちと寺側の、創価学会員を配下に置きたいという思惑が重なって「破門処分」という結論を出しました。

その後、仲介者たちは、池田会長を中心にした堅固な創価学会には手が出せないことを悟って、大石寺の乗っ取りのための陰謀を企てました。
しかしさすがに、仲介者の悪質な陰謀に気づいた、大石寺からも排斥されることになりました。
結果的に仲介者たちは、何も得なかったどころか、正体をさらけ出すことになり、身をひそめるしかありませんでした。

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大石寺側は現在、
「創価学会のご本尊は偽物で、拝んでも功徳がない。大石寺のご本尊は本物で参拝すれば功徳がある」
などと言っています。
もともとご本尊に対する寺の姿勢は間違っていたのです。

「本物のご本尊」ということを盾にとって、純真な信徒である学会員から巨額の金を巻き上げていたのです。
日蓮大聖人は後世の人々が悪い宿命を転換し、幸福になるためにご本尊を表されました。そのご本尊を金もうけのネタにしている大石寺を大聖人様は許すはずがないでしょう。「本物のご本尊」どころか、商売道具にしてしまって、本来の大聖人のご本尊の働きをしていないのです。

大聖人はご本尊が本来の働きをなすか、あるいは、まったくご本尊の役割を果たさないかは、信じる人の心の状態によって決められるものだと言っています。
だから、同じご本尊であったとしても、それを信じて大聖人の教えの通りに実践する信者が居るかどうかで、ご本尊の働きがあるかどうかが決まるのです。

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大石寺が学会に対して、鬼の首でも取ったように主張している本尊論というのは、例えて言えば、次のようなことです。

ここに一幅(ぷく)の、墨で紙に書写された本尊があるとします。寺はそれを本物の本尊と主張しています。
それでは、墨を含ませた筆で、その本尊を少しずつ塗りつぶしていったとします。
果たして本尊は、書かれている紙面の何パーセントとまで塗りつぶすと、本物の本尊ではなくなるのか。
この質問に対して寺の答えは、全く本尊の姿が見えなくなるまで塗りつぶしたとしても、本物の本尊だと言っているのと同じなのです。

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「大石寺には、金科玉条(きんかぎょくじょう)にしている日蓮大聖人直筆のご本尊がある。このご本尊こそ本物で、これに参拝しなければ日蓮信者でもなく、功徳もない」
と宣伝しています。そして創価学会員は学会を退会して、寺の信徒になれば参拝できる、などと言っているのです。

やはり、現在も大石寺はご本尊を金もうけの道具に使っているのです。
もし大きな地震が大石寺を襲って、その唯一の直筆のご本尊が跡形もなく壊れて無くなったとしても、大石寺は欠片でも見つけてきて、
「これが日蓮大聖人の唯一無二の本物のご本尊だ。これ以外は偽物だ」
と主張して、金もうけの道具を必死になって確保することでしょう。

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大石寺は寺のご本尊に対して、大聖人の遺文などを取り出してきて、なんだかんだと正統性を主張しています。
しかし、現実を見れば分かるように、奇弁をろうしているだけで、金もうけとそのための信者を獲得する道具にしているだけの話なのです。

要するに、日蓮仏教の理解ができていない人をうまくだまして、信者を増やそうとしているのです。
日蓮大聖人が、現在の大石寺の現状を見たら、どれほどお怒りになるか計り知れません。


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