>1人の法主から、次の1人の法主への秘法の相承こそ、宗派の最重要事であり、存在意義である
このことを日蓮正宗では瓶(かめ)から瓶に水を移(写)すように完全に引き継がれてきたという意味で「法水写甁(ほっすいしゃびょう)」の奥義(おうぎ)と言っていますね。「富士の清流700年」とも言っています。
>寺が火災になり、焼死した法主までいます。「秘法の相承」などする暇などあるわけがありません。
これについては、次のような変則的な「相承」で対処したようです。
1935年(昭和10年)10月2日 – 第61世日隆より法の付嘱を受け、大石寺第62世日恭として登座。
1945年(昭和20年)6月17日、大石寺の火災に巻き込まれ75歳で焼死、遷化しました。そのため第61世日隆が再登座します。
1946年(昭和21年)1月25日、再登座した第61世日隆により第63世日満へ付嘱相承されました。
>日蓮正宗というところは、どうしてこんなに、幼稚な馬鹿げたことを信じるのでしょうか。
宗門(教団トップ)からの洗脳によるとしか言いようがないですよね。
あるいは、事実かどうかは関係なく教団としてなり立つための「教義」として「そういうことにしよう」と決めたということでしょう。
前法主・日顕と元法主・日達との相承儀式が行われなかったことは、様々な状況証拠によって明らかにされていますが、現法主の68世・日如につても67世の日顕から相承を受けていないことも、その物証としての「相承箱」が総本山・大石寺に存在しないことで明白です。肝心の「相承箱」がないため儀式が出来なかったのです。
相承書と系譜図が入っている「相承箱」は66世の日達が生前に娘婿の菅野慈雲の大宣寺に預けて、菅野は日顕の登座に協力はしましたが、相承箱だけは渡しませんでした。現在は大宣寺現住職の日達の孫の細井玉道が死守しています。
阿部信雄(日顕)は早瀬義寛(現法主・日如)を連れて大宣寺を襲撃し相承箱奪還を試みましたが、菅野慈雲に日如は小僧扱いされ、日顕は「御相承を受けられたんですよね?」と詰問され追い返されたとのことです。
日達との相承の儀式をちゃんとやったことが「日記に書いてある」と裁判でも苦し紛れに言っていた日顕ですが、その30年後に逝くまでその日記とやらを提示できないままでしたね。
また歴史をさかのぼれば、謳い文句「富士の清流700年」がウソであることも分かってきます。
大石寺(現在の正宗)を含む興門派の管長(法主)は各本山の持ち回りが長く続いた歴史がございます。
(数字は就任年)
1876要法寺 釈 日貫(臨時)
1876要法寺 釈 日貫
1879伊豆実成寺 大井日完
1880富士妙蓮寺 堀 日善
1881大石寺 日布上人
1882西山本門寺 寿 日顗
1883 小泉久遠寺 富士 日霊
1884 北山本門寺 天野 日観
1885 西山本門寺 高橋 日恩
1887 北山本門寺 天野 日観
1888 保田妙本寺 富士 日勧
1888 小泉久遠寺 富士 日霊
1889 富士妙蓮寺 稲葉 日穏
1890 伊豆実成寺 大井 日住
1891 大石寺 日応上人
1892 京都要法寺 坂本 日珠
1893 小泉久遠寺 妙高 日海
1864 西山本門寺 寿 日顗
1895 小泉久遠寺 富士 日霊
1896 北山本門寺 芦名 日善
1897 富士妙蓮寺 稲葉 日穏
1898 伊豆実成寺 大井 日住
ここに明らかなように、宗門・大石寺は長い間“謗法の管長”の支配下にあったのです。けっして「富士の清流」などではありませんね。
(miyaさん)
日蓮正宗という宗派は、自宗のみが、日蓮大聖人から真実の秘法を受け継いだ、唯一絶対の教団であると主張しています。その根拠について、1人の法主から、次の1人の法主への秘法の相承こそ、宗派の最重要事であり、存在意義である、と言っています。ところが、現法主から次の法主へ「秘法の相承」がなされないまま、現法主がなくなるということが、何回かありました。なかには、寺が火災になり、焼死した法主までいます。「秘法の相承」などする暇などあるわけがありません。また、前法主の日顕という坊さんは、「秘法の相承を自分が受けたと、嘘を言って、法主になった」と、内部から訴えられ、最高裁まで争われました。日蓮正宗というところは、どうしてこんなに、幼稚な馬鹿げたことを信じるのでしょうか。
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