創価学会批判者の心理状態についてみておきたいと思います。
一般的なことは、第一章【概要】のところで書いていますので、ここでは、以下の二つの具体的な例についてみていきます。
一つは、池田会長に対するものです。
学会批判者のインターネット上の画像や動画などを見ると、池田会長の写真やそれが掲載されている聖教新聞に対して、侮辱する行為をなすものがあります。
中には、呪いのような言葉を言いながら、会長の写真をカッターやはさみで切り裂いたりするものまであります。
二つは、ご本尊に対するものです。
学会員が朝夕に拝んでいるご本尊を、反学会運動の者が運転する車の窓から、紐でたらしてヒラヒラさせながら走らせているのです。
そしてマイクで、口汚く学会を批判するのです。
またインターネットの画像にも、ご本尊を不敬(ふけい)するものが多くあります。
それらのご本尊はおそらく、退会した人が提供したものでしょう。
池田会長は言うまでもなく、学会員が人生の師匠として仰ぐ、最も尊敬している人物です。それぞれの会員の人生の中で、様々な問題で苦悩に沈んでいたり、大きな壁に突き当たって悩んでいた時、池田会長の激励の言葉によって再び.希望の出発ができた人は数限りなくいます。
人生の恩人とでも言える人です。
また世界的に、人道と平和の社会を創設するために、寸暇を惜しんで、命を削るようにして尽くしている人です。
こういう会長に対して、どういう人物なのか正確に理解もしてない人が異常な行為で、侮辱するということは、いったい何を意味するでしょうか。
また、ご本尊は、我が身の命と同じように大切なものでありさらに、生身の仏様と同じものと信じて最も大切にしている信仰の根本です。
それを、街宣車の窓からぶら下げて、市中引き回しのさらし首のようにして走らせているのです。
世界の千数百万人の信仰を保っている人々が、この行状を見れば、どのような感情を沸き立たせるでしょうか。
これらの行動をなす人の、精神状態はどのようなものか、考えてみます。
例えば時々、乗用車の新車ばかりを傷つけるという器物損壊の犯罪者がいます。所有者は、一生懸命に働き、生活を切り詰めながらお金を貯めて、さらにローンで買ったような車です。
それを、犯人は足がつかないように、様々にカムフラージュして傷つけます。
傷つけられた所有者の憎しみや悔しさは計り知れません。怒りをぶつけようにも相手が分からないだけになおさら悔しさが募ります。
この無念さは、簡単には忘れられないものになるでしょう。
犯人は、被害者の苦しみが大きければ大きいほど、絶望的になればなるほど、比例して喜びが増幅します。
こういう性格異常の犯罪者が時々います。
会長の写真を切り刻んだり、本尊を車の窓からぶら下げて走らせるのは、これと全く同じ精神状態です。
車の所有者は一人ですが、ご本尊を信じ、会長を尊敬している学会員は1千万人います。1千万人の人を苦しめて喜ぶという、狂気の行動です。
以前にフランスで、イスラム教預言者ムハンマドの風刺画をしつこく掲載していた週刊誌の出版社を、信者が襲撃し、12人が殺害されるという事件が発生しました。さらに、それに関連した事件では、17人も亡くなりました。
この事件に対して様々な意見はありますが、宗教における最も尊敬されるべき対象を冒涜されることが、どれほど信者の魂を傷つけるかを表している事件でもありました。
学会員の魂であるご本尊を作為的にごみくずのように扱い、しかもそれを多くの学会の内外の人々に見せるようにするのは、公衆の面前でコーランを焼いたり、週刊誌でムハンマドをおとしめるのと同じ精神レベルです。
否、それ以上に悪質なのは、反学会の街宣車を走らせている人は、
「日本の社会の中で良識的な団体として定着してきた創価学会が、自分たちに対して暴行事件などを起こすはずはない」
という確信犯的な人たちであるということです。
このような学会批判者は現在、全世界が危機意識を高めているテロリストと同じです。
自爆テロをする人は、まだ自らの命をかけていますが、ご本尊に対して不敬をなす人は、ニヤニヤ笑いながら車を走らせています。
極めて許しがたい、憶病で卑怯な人たちです。
本来、こういう人は通常の社会の中に存在を許すべき人間ではありません。
わずかの人間によって多数の人々の人生を破壊するテロリストと同じです。
攻撃する対象を正確に理解しようともせず、感情的に異常行動を繰り返す学会批判者の精神は、まともではありません。
できるだけ多くの人々の魂に、できるだけ深い傷を負わせると、それだけ喜びが増すというのは、いったいどういう精神状態なのでしょうか。
ここで、人間の精神のレベルについて、考えてみましょう。
人間の心の状態として、最も低いレベル1というのは、
自分で自分自身の心を拘束し、苦悩に沈んで身動きできない状況です。自由になることができずに、全てのものが、苦しみへと結びついていきます。しかも、時間が限定されることなく、同じ状態が無限に続いていくと感じられます。
この心の状態は、自滅的要素が強いだけに、他への働きかけをするというエネルギーを生み出すこともありません。
従って、自分の外の世界に対して、批判をしたり攻撃をしたりするようなこともできません。ひたすら、自分の世界の中に閉じこもるだけです。
次のレベル2は、
常に、激しい欲望に支配されて、それが満たされないという状態です。
欲望には金欲、食欲、性欲、名誉欲など、あらゆる人間の欲望が含まれます。その貪欲に心が振り回されて、身も心も囚われているという状態です。
簡単に言えば、ひどい空腹で、ひたすら食べ物だけを求めて生きているようなものです。
精神的には単純な構造で、ただ欲望を満たそうとする一点にすべての言動が集約されます。他者への批判や攻撃も、欲望を満たすことを邪魔するものに対して集中して行われます。
次にレベル3です。
ある程度、心身ともの活動範囲は広がりますが、本能が基盤となっています。
全ての行動は、本能的要求に振り回されて、知性や理性、意志や思惟(しゆい)などといった精神性に裏打ちされたものからは離れています。
目先のことだけにとらわれて、後先の事は考えられず、刹那的に行動してしまいます。
この状態の大きな特徴は、強いものには弱く、弱い者には強いということです。従って、権力者などには反抗できないくせに、立場の弱いものに対しては居丈高(いだけだか)に接するというものです。
次はレベル4です。
この段階は、自我意識が出てきますが、自己中心的なものとなります。
常に、他のものよりも自分が優れているという意識に貫かれています。客観的に正しく、他のものを見ていくことができずに、睥睨(へいげい)しておごり高ぶっています。
簡単に言えば、心がひねくれ曲がっているため、人間としての善意や正義に対して、徹底して批判、攻撃をして、自己の優位性の満足を得ようとするものです。
いくら、客観的な正義や真実を提示したとしても、それに納得するどころか逆に、怒りをあらわにする心の状態です。
次のレベル5は、いわゆる、普通の人間的な精神状態です。
性格異常的な学会批判者は、たいていレベル4の精神状態の人が多いようです。
レベル1から3の人は、自分の外の人に対する影響はあまり強くはありません。ところが、レベル4の人は、自分の憤懣を外の世界へ強く吐き出していくという性質があります。
それだけに、被害が広く、深くなります。多くの人に迷惑をかける精神の持ち主です。
こういう学会批判者は、自分のいびつな精神からくる攻撃性を、レベル1から3の人よりもはるかに、悪知恵を働かせて、世の中への影響力を大きくさせます。
何より手に負えないのは、いくら、本人の言っていることが誤っていることを客観的に証明するもので示したとしても、見向きもしないことです。
「1+1は2だ」と言っても「いや違う、1+1は15だ」というのです。
救いようがない、というのはこのような人たちのことです。
実におおざっぱな話ですが、性格異常的な学会批判者の、表層的なものではなく、実態を調べると、次の3つの共通点があることが分かります。
1、世の中をなめている
2、世の中から嫌われている
3、偏執癖がある
この3つです。
それぞれについて、具体的な複数の人物を念頭にして記述をします。だから、個別性を持った表現になりますが、しかしそれは批判者においては、同類なものなので、普遍性を持つものです。
批判者の個別的な状況を通して、同類の批判者一般に通じるものを考えてみます。もちろん、個人への攻撃ではないことは当然です。
1つ目の「世の中をなめている」というのは、予断で自分に都合のよい見方をして、客観的に現実を理解することができないということです。
世の中の実態がつかめていないから、仕事においては、成果を出すことができません。まともに仕事もできないのに、口では一人前なことを言って自己弁護するので、責任のあるポストや、業績を上げなければならないような部署にはつかせてもらえません。
自らの人間的なレベルが分からずに、自分を優れた人間だと妄想し、他人は自分より劣っていると確信しています。
そして、その妄想から社会や世の中の出来事を自分流に解釈をします。だから、様々なことに、あれこれと口出しをします。
本人は正しいと思って、意気込んで主張しますが、他人が聞けば、相手にしても仕方がないような内容ばかりです。
ところで、学会批判者の本当の姿はどんなものか、ということを知るためには一週間、一緒に生活してみればよく分かります。
もっともらしいことを言ったり、書いたりしていますが、実際の生活は、社会に対して何か正義を主張するような、そんな高尚なレベルの日常ではありません。
つまらない日常を、不満をたらたらと垂れ流しながら生活しているのが実態です。
創価学会のことについても、全く理解できていないにもかかわらず、浅はかな自分の見方で批判をします。
例えば、一生懸命に一家のために働いている親に対して、
「そんな、くだらない仕事をしたって全く意味がない」などと言う子供と同じです。
自分は仕事もせずに親の世話になっているにもかかわらず、口先だけで正義面(づら)をする子供です。
こういう批判者は不思議なほど、批判の対象にしている学会について学ぼうとしません。学べば、批判している根拠が崩れるので、意識的に学会の実態を知ることから逃げているのです。
この態度は、一般社会に対しても似たものになります。
自分の都合よく世の中を見て、都合の悪いことは見ないようにします。
そして、客観的な自分の評価にも耳をふさいで、自己満足をするために周囲のものを批判しているのです。
世の中の厳しさから逃げているにもかかわらず、世の中をなめてかかり、分かったと思い込んでいるのです。
2つ目の「世の中から嫌われている」というのも事実です。
多くの学会批判者の日常的な生活に密着してみると、不思議なほどこのことに符合するのには驚くほどです。
また、共通した特徴として、本人は嫌われていることに気が付いていないことです。自分の言動は正しいと思っているが故に、他人が嫌悪感を持っていることが分からないのです。
すべてを自分の偏狭な考え方で捉えるばかりで、他の考え方と比較して自分を客観視するような検証をまったくしません。そして他人の見方を一切受け入れようとはしないのです。
たいてい、周囲の者から
「あの人は、あんな性格だから言っても無駄」と諦められています。
だから、職場などでは孤立している場合が多いのです。
周囲の人と心を合わして共同作業をし、ともに喜び合うというような協調心がありません。
自分の低レベルで、小さな考え方の中で人生を送っているのです。周囲の人に、当人のレベルにまで次元を落としてでも仲良くしてやろう、という人も出てきません。
本人は口先ではお礼を言ったりしますが、心の底から他人に対して感謝をするというような、人間として大切な心の働きが欠落しています。だから、無視され嫌われるのです。
性格異常的な学会批判者の多くが、自己中心的な言動をして、それを改めようとしません。こういう人は、後輩を育成するような教育的な活動はできません。
また、人の上に立つことにも不向きです。いつまでも小さな自分の世界で、自己満足と自己弁護しながら生きていくしかありません。
華々しく学会批判をして、いかにも同じ考え方を持った同志が多くいるようなふりをしていますが、実態は哀れなものです。
3つ目の「偏狭癖がある」というのは、どうでもよいようなことに非常にこだわるということです。
傍(はた)から見れば、無意味なことに対して、当人は重大な意味があるように思い込んで、執拗に調査したり研究したりします。
そして、その結果を自分の思い通りにねじ曲げて、本人にしか通用しないような結論を出し、重大問題にします。
時には、「歴史を変える大発見」などと大騒ぎをする人さえいます。
その異常な執着心によって、家族や周囲の者が迷惑をしていることには決して目が向きません。
そして、当人が執着している事柄に対して、「どうでもよいことだ」などと批判しようものなら、顔色変えて怒り、家族であっても口をきかなくなります。
それほど執着した重大問題であるにもかかわらず、そのことに対して本人の興味が無くなると、いとも簡単に忘れ去ってしまいます。
以前に執着した事柄について当人を追及すると、
「そんなことは、どうでもよいことだ」と答えるのです。全く信頼のできない人が多いのです。
学会に対して、それこそ「どうでもよいようなこと」をあれだこれだと批判している人の実態は、この程度のものです。
それをいかにも、「学会の隠ぺいしている真実を暴いた」などと妄想して、書いたり言ったりしているに過ぎないのです。
これらの3つの共通点を挙げると、読者は、
「学会批判者に対する人権無視の中傷誹謗だ。これこそ創価学会の独善だ」
と感じる人も多くいるでしょう。
人は口先だけであれば、何でも言えるものです。重要なのは、批判している人が、その批判の内容に値するような人物であるのか、またそれにふさわしい人生を歩んでいるのかどうかです。
もし、学会批判者に共感することがあったならば、批判者と顔を合わし、共に行動をしてみることです。
そうすれば、3つの共通点が、単なる誹謗中傷ではなく、不思議に思えるほど、適確な指摘であることが体験できるでしょう。
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