人間と動物の違いは古来、さまざまに言われています。
代表的なものは、火を使うかどうか、道具を使うかどうか、などです。ところが、訓練をすれば動物でも火や道具を使うことができるのが分かっています。
たばこを吸うことができるようになった猿さえいます。
だから、いまだに確定的な判別基準は見当たりません。
ここで、一つのかなり確実性の高い基準を示します。
それは、宗教を保てるかどうかを基準にした区別です。すなわち、目に見えないものを実態として感じ、信じることができるかどうか、ということです。
動物で宗教を保つことができるものがいるでしょうか。
例えば動物園の猿山の猿が、コンクリートの山の頂上に立って合掌し、うつろな目をして神に祈っていたとしたら、見物客は奇跡でも見るような気持ちになるでしょう。
あり得ないことです。だから、宗教を保つということは単純にいえば、人間の証といえないでしょうか。
人類の古い歴史の中においては、宗教的なものを意識できる人が、人々の集団の中の指導者になっていきました。
それは、祭政一致という形に整ってゆき、人々の首長は他の人たちには理解することができない超人的なものに対して、祈りをささげることができるという特権によって権力を持ち、集団を治めていました。
古代の人間の社会の中において、宗教を保つことができる人が、優れた才能を持っている者として指導者になれたわけです。宗教は人間の高等な精神作用を証明するものであったのです。
社会の近代化が進むなかでも、宗教が日常生活の中に根差していた西欧においては、人々が信仰を保つことはごく当たり前のことでした。そういう状況の中では、
「貴方の信仰は何ですか」
と問われたとき、
「私は無宗教です」
と返事をすることは、自分が信頼できない人間であることを示唆するようなものでした。
なぜなら、無宗教の人というのは何をするかわからない人間であることを意味しているからです。
例えば、人間の人生がこの世限りのものであると考えるなら、この世で殺人など、どのような極悪な事件を起こそうが、死んでしまえばすべて完全に終りになるのだから、何をしてもよいではないかということになりかねません。
逆に、命は輪廻転生を繰り返し、現世での行いの善悪が、来世に引き継がれるという宗教を信じていたとしたならば決して、殺人などは起こさないでしょう。
このように宗教は人間の生き方、道徳や倫理観の根底を支えるものです。
ところが、戦後の日本の社会においては、宗教というと、「胡散(うさん)臭いもの」という見方が広まっていきました。
しかし、その対象からは既成仏教は外されていました。代々の檀家となっている寺は、葬式などの法要を中心とするもので、信仰心を勧めるものではなく、宗教というよりも習慣的な儀式のようなものであったからです。
それに対して、新興宗教など活動を活発に行うものに対しては、猜疑心と警戒心を持って対応しました。その大きな理由は、国家神道を精神的支柱としていた太平洋戦争の敗北にありました。
神国日本の戦は天の摂理に従ったものであり、負けるわけがないと信じていたのです。
戦況が悪くなれば最後は必ず神風が吹いて勝利すると確信していました。
戦う大和魂に敵はないと思い込んでいたのです。
最終的には、神風特攻隊として自爆までやりました。一部の人を除いて、ほとんどの国民は、神国日本は必ず戦争に勝利すると信じきっていました。
ところが、突然の玉音放送があり、戦争の敗北を知りました。やがて、現人神(あらひとがみ)は普通の人間になってしまいました。
この敗戦を通じて国民が感じたことは、目に見えない宗教的なことを信じ込むと、うまく騙されて利用され、ひどい目に遭い、ついには人生さえも潰される、ということでした。
まして、国全体が誤った宗教を国の精神的支柱にするならば、国が滅亡することを実感しました。
戦争を経験してきた日本人にとっては、宗教の信仰は個人にしろ、国全体にしろ、極めて危険性が伴うことを身にしみて感じたのです。
日蓮大聖人の著作物しては、「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」が日本史の教科書などにも載っていて、最もよく知られているものでしょう。
しかし、「立正安国」という言葉には、日本人の宗教に対する感覚から拒否反応を示す場合が多いのです。
国家神道と戦争が結びついた悲惨さと二重写しになるからです。
立正安国というのは、「正を立て国を安んずる」ということです。この解釈から、
「創価学会は、信者を増やして日蓮の教えを国教化しようとしている。そして、国の予算で国立戒壇の寺院を造営して、国の安泰を祈ることを目標にしている。そのために公明党も設立した」
と捉えて批判する人が多くいます。
これは大きな誤りです。日蓮仏教の本質はどこまでも一人の人を不幸な人生から幸福な人生へと運命を変えさせて、満足した生活が送れるようにすることがすべての根本にあります。
大聖人の書かれた遺文集のどこにも、国立戒壇という趣旨のものはありません。遺文集の中には次のような部分があります。
「勅宣(ちょくせん)並に御教書(みきょうしょ)を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可きものか」
この中の勅宣や御教書という言葉が使われているので、権力者が国の命令によって日蓮仏教を広めていく、というように捉えられがちです。
しかし、この遺文の前半部分をよく読めば、そうではないことがすぐに分かります。
前半部分には、日蓮仏教の信者が国の中に多くなり、その信者たちの総意が国全体の意思と一致するような状況になったときのことを書いているのです。
また、当然ながら、日蓮大聖人は当時の封建的な鎌倉幕府の社会の中において、日蓮仏教の布教の段階に応じて記述したものです。
すなわち、大聖人は、社会体制がどのような状況の時であるのかをしっかりと把握した上で、日蓮仏教の布教と権力機構の関係を考察しているのです。
現在の日本の民主主義社会の中では、国民の投票によって国の指導者は選ばれています。
言い換えれば、国民が権力者であるともいえます。こういう状況の中では、信仰者が国民の中に増えて、その意向が国全体の意向にまでなる状況が、勅宣や御教書の意義を持つと言えます。
大聖人の仏教は、一人の人の幸福の連鎖が社会、国家の平安に結び付いていくというものです。
したがって、立正の「立」というのは、一人ひとりの心の中に確立するという意味です。
何を確立するのかといえば「正」ということにほかなりません。「正」とは、人間が真実に幸福になっていくための正しい教えです。
思想、哲学、宗教などには当然、高低浅深があります。
単純な話ですが、ある人が努力を嫌がる考え方を持って生きたとしたならば、その人の人生はその人の考え方にはふさわしい生活や仕事になるでしょう。
全てにおいて向上することのできない人生を送ることになるに違いありません。
ただ、食事をして生きているだけ、といえるようなものになりかねません。
人の一生は、その人がどのような思想、哲学、宗教を持って日々の生活を積み重ねてゆくかによって、決まってくるものです。
人生の節目の時あるいは、日々の日常生活の中においても、さまざまな判断を下さなければならない場面が多々あります。
そこでの判断は言うまでもなく、その人の考え方に基づいて行われます。それによって人生が大きく変化するわけです。
立正安国論において、まず何よりも重要視されているのは、人々が確実に幸福へと進むことができる考え方を持つことです。
人間の思想的な影響で、それを保つ人に最も強く影響を与えるのは、宗教です。
死を理想とするような宗教を保てば、死を望むようになります。
どのような困難があってもあきらめずに希望を持って生きる宗教を保てば、希望の人生を歩むことができます。
宗教はその人の人生を大きく左右するものです。
人々を幸福に導く正しい宗教を保つことが立正になります。
そして、そういう人が増加することによって次の、安国へと結びついていくのです。
安国は人々の幸福な人生の土台の上に成り立つものです。決して、国家権力から思想や宗教を強制することによって、安国を実現しようというものではありません。
安国というのは平和で安寧(あんねい)な国という意味です。日蓮大聖人の遺文集を読むと多くの部分に、弱い立場の人々、女性や母親、子供に対して非常に大きな激励をされています。
そこからも読み取れるものは、安国といってもその根本になるのは、立場の弱い人々が幸せに生きることができる国であることがわかります。
一部の権力者や立場の強い人たちのみが満足するような国を安国とは言っているのではありません。
どこまでも、一人一人の国民の幸せが基本になった国造りであるといえます。
同時に、権力者、政治家も個人としての人間の生き方として、優れた宗教を保った上で、人々に尽くす政治が行われることが重要です。
宗教政党というのはヨーロッパでは当たり前です。
同じ宗教を保った人たちが、自分たちの主張を自分たちの推薦した政治家に実行させるのは至極、当たり前といえます。
それぞれの宗派が、信者の人数に応じて主張する影響力の度合いも決まるわけです。
これは民主主義の基本的なルールに合致しているでしょう。
大聖人が説いている「安国」の原理も同じです。
日蓮仏教を保った人々が多くなれば、その中から政治に優れた人がいれば、その人を代表として政治家に就かせます。
政治家になった人は、自己の宗教的信念に基づいて政治活動を行っていきます。
日蓮仏教の場合、人々の幸福のために尽くす、という教えが根本ですから、政治家は万人に尽くすという政治的信念を持つことができるでしょう。
このことが、その宗派や信者にしか通じない独善になるのか、それとも普遍的な広がりになるのか、ここで依拠(いきょ)している宗教の真価が問われることになります。
安国の「国」というのは日蓮仏教の教義を研究すればすぐに分かるように、一部の地域でもなければ限定した国でもありません。
全世界という意味です。
それを、日蓮大聖人は釈迦の経文を引いて、
「如来の滅後に於て閻浮提(えんぶだい)の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ」
(釈迦が亡くなった後においても、仏教を全世界の中に広く布教して途絶えさせることはない)
と述べています。閻浮提というのは全世界ということです。
また、日蓮仏教は時の経過についても、未来永劫に教えが流れ通うことを予測しています。
だから、安国というのは日蓮仏教が隆盛することによって、全世界が未来に渡って長らく、平和で幸福な状況が続くことをいっています。
ところが、実際に世界の安国を考えた場合、宗教を選ぶ自由、あるいは信仰する自由が禁止されている国々もあります。
例えば共産主義や、イスラム教を国教としている国々などです。
こういう国では、一人ひとりに日蓮仏教を保たせるといっても不可能です。そうすると、全世界に布教すると言っても観念論となり、現実にはできないことになります。
日蓮大聖人が遺文集の中に書いていることが実現できないことになります。
そうしてはならないという強い信念で、世界の布教へ行動を起こしたのが池田会長です。
会長は、これまでに数多くの国々を訪問していますが、その中で特筆すべきなのは、中国、ソ連、キューバなど国体として自由な宗教を許さない国々にまで足を運んでいるということです。
さらにエジプト、イラン、イラク、パキスタンなどイスラム圏にも訪問しています。
会長が宗教を拒否する思想を持っている国々にまで訪問をしようとした時、多くの人から、
「何のために宗教否定の国々に行くのか。全く意味がない」
と忠告や批判を受けました。その時会長は、
「そこに人間がいるから行く」
という宗教的信念のもとに海外訪問を意欲的におこなったのです。
中国では周恩来総理と対談しました。ソ連ではコスイギン首相と会い、後にゴルバチョフ大統領とも親交関係を深めました。
社会主義国家であったキューバでは、カストロ議長と会談をしました。
議長はキューバ革命以来、数十年にも渡って、要人と会談する時はいつも軍服姿を通していましたが、池田会長とはスーツ姿で会いました。
これはマスコミでも驚きをもって報道されました。
この十一年後、キューバにおいては創価学会の活動が公認されています。
また、ロシアにおいてはその後、学会の組織が認められ、現在では多くの会員が活躍をしています。池田会長が初めて大学の名誉博士号を受賞したのはモスクワ大学でした。
中国は共産主義だから、公には学会の宗教活動は認められていませんが、代々の中国政府は学会に対して、池田会長に対して人並みならぬ敬意を持っています。
中国の大学など教育機関から池田会長に授与された表彰は百をはるかに超えています。また、大学に池田思想研究会を設置しているところもあります。
社会体制上、国民一人ひとりは日蓮仏教の信仰ができない国においては、池田会長はその国のトップと親交を深めることにより、不可能と思えるような布教の道を切り開いてきたのです。
池田会長は日蓮大聖人の根本目標である、閻浮提すなわち世界への布教を夢物語ではなく、現実のものとするために行動しました。
日蓮大聖人の教えを信奉することを標ぼうしている宗教団体は多くあります。創価学会を排斥した日蓮正宗、日蓮宗身延派など既成仏教の各宗各派。国柱会など新興宗教で日蓮主義や南無妙法蓮華経を唱えているもの等々。多くの数にのぼります。
これらの団体や信者の人は、自分たちこそが日蓮大聖人の教えを忠実に信じている、と主張しています。
しかし誰が、宗教否定の国の人々までも救うために、極めて険難な道を世界の布教のために歩んできたか。
大聖人の教えを口先だけで言う事は誰でもできます。いかにも真実の大聖人の信者らしく主張することも簡単なことです。
そんな自己弁護の空想ではなく、これまで一体、大聖人の教えを広めるために世界に対してどれだけの行動を為したのか、そしてどれだけの結果を残したのか、これこそ真実の日蓮仏教の信仰をしているかどうかの判断基準です。
この判断基準は一つの観点からかもしれませんが、根本的な正邪の見分け方が含まれており、非常に重要なものです。
簡単に言えば、世界の多くの国の人々に、日蓮仏教の信仰を現実的に広めていない、また実績もない団体や個人は、大聖人の仏教を信じているとは言っていも、実際は日蓮仏教とは全く関係のない信仰をしているのです。
それなのに、日蓮大聖人の真実の実践者などと言っているのは、我田引水の自己弁護に過ぎないということです。
本来であれば、事実からすれば、日蓮大聖人に関連するすべての団体や個人から池田会長や創価学会に対して尊敬と感謝の念が表されて当然でしょう。
ところが、尊敬どころか、中傷批判を繰り返しているところも多々あます。
批判している当人は、他人の幸せのための役にも立たず、ましてや共産圏やイスラム圏の布教のことなど夢にも思い至らない程度の人です。自分に、批判する資格があると思っていること自体が誇大妄想に等しいといえます。
また、こういう学会批判者の言う事を信じて口車に乗り、軽薄な学会批判をする人も多くいます。
「池田会長の海外での活躍はすべて、どうでもいいような、価値のないものだ。何の功績もないのに、驚くほど成果を上げているような宣伝を聖教新聞では書いているのだ。大学の学術称号の受賞なども、すべて会員から巻き上げたカネで買い取っている。真実を会員には知らせずにだましているのだ」
この様な類いのものです。事実も知らずに、無責任な学会批判者の言葉を信じて、同じように調子に乗って批判をしている人たちです。
全く主体性のない、かげろうのようなものです。物事の真実と虚偽の判断ができなくて、その時々の風によって、あちらへ行ったり、こちらへ行ったりとフラフラすることしかできません。
居ても居なくても世の中の趨勢(すうせい)には全く影響しない人たちです。自分が惨めにならないのか、不思議なほどです。
こういう批判者を例えてみれば、象と蟻が適当でしょう。一匹の蟻が象を見上げて、あざ笑っているのです。
「象よ、お前は何とちっぽけな体をしていることか。力もまったく無さそうで、私に比べれば仕事が全然できないだろう。私が羨ましくて仕方がないだろう。ハッハッハ・・・」
これが大げさな例えではないことは、真摯に事実を事実として受け入れればすぐに分かることです。
とかく学会批判者は、自分の実態が正確に把握できていないのが現実です。いや、自分に対して誇大妄想でも抱いていなければ、虚偽の学会批判などできないでしょう。
性質(たち)が悪いことには、一部の学会批判者は批判することによって飯を食っている人がいます。こういう人は生活のためにやっているのですから、止めれば生きていけなくなるので、いつまでも批判を続けます。真実や虚偽などといった高尚なものは関係ないのです。
こういう有象無象(うぞうむぞう)の批判者は、創価学会を誹謗中傷したとしても、法的な責任を取らせるほど、社会的に立場のある人でもありません。だから、学会としても相手にする気などまったくないのです。
哀れなのは、こんな人に影響を受けて、創価学会批判を口にしている人です。相手が信用できる人間であるかどうかを見分けるのは、現代社会で生きる人の常識の中の常識でしょう。