創価学会に対しては千差万別の、数え切れないほどの批判があります。宗教教団でこれほど批判を受けた歴史を持つところは他に類を見ません。
もちろん、人々の生命を脅かすような反社会的な宗教教団は批判されて当然ですが、それらは人々を幸せにするはずの宗教の使命に反しており、宗教教団というよりもテロリストの集団です。
創価学会に対する批判と反社会的な集団への批判とは根本的に違いがあります。そのことについて、日蓮大聖人は、
「日蓮が度度、殺害せられんとし、並びに二度まで流罪せられ、首を刎(はね)られんとせし事は別に世間の失(とが)に候はず」
と言われています。
大聖人は鎌倉幕府から常に命を狙われていました。あるときは大勢の武士たちに草庵を襲われ、額に傷を受けたり、手を骨折する被害を受けました。
そして、伊豆の伊東と佐渡島への流罪にもなります。
さらに、神奈川県の江の島付近の当時の刑場において、斬首刑にされようとしました。
大聖人の生涯は命に及ぶような迫害の連続でしたが、その理由を「世間の失に候はず」と言っています。ここが重要なポイントです。
当然ながら大聖人は、殺人、強盗、放火など、現代の刑事事件に当たるようなことはされていません。それなのに、死刑やそれに準ずる佐渡流罪という最も重い刑罰を受けたのです。
大聖人は、刑罰を受ける根拠としての「世間の失」は無いと言っていますが、「幕府の失」が無いとは言っていません。
人々の良心的な社会の規範に反することはなかったが、幕府という権力者から見ると大聖人には、許すことのできない大きな「失」があったのです。
放置しておけば、鎌倉幕府の権力の失墜にもつながりかねないほどのものでした。
大聖人は幕府が迫害する理由として、
「此法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆う道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり」
と言っています。
大聖人は当時、蒙古の襲来を何度も受け、日本が滅ぼされるかもしれないという恐怖にさいなまれていた幕府に対して、国を諌(いさ)める書である「立正安国論」を提出して、国を救う根本的な方途を示しました。
これがあまりにも正鵠(せいこく)を射ていたがゆえに、逆に「忠言耳に逆う」ことになり迫害へと進んだのです。
ただ、いくら幕府といえども罪のない者も罰するわけにはいきません。このことについて大聖人は、
「今生に法華経を行ず。これを世間の失によせ、或は罪なきを仇(あだ)す」
と言っています。
本来、「世間の失」のない大聖人に、「世間の失」をなすりつけたり、全く罪もないのに罪をかぶせて処罰をする、ということです。
現在でいえば、ありもしない刑事事件を作り上げたり、全く関係のないねつ造事件を創作して、あたかも真実のごとく世間に思わせて、創価学会を陥れようとすることです。
大聖人は幕府が大聖人に対して行った様子を次のように言っています。
「此れは教主釈尊、多宝、十方の仏の御使として、世間には一分の失なき者を、一国の諸人に仇(あだ)まするのみならず、両度の流罪に当てて日中に鎌倉の小路をわたす事、朝敵のごとし」
(釈迦仏の使いとして、人々の幸せと国の安泰のために仏教を教えようとしていた大聖人に対して、幕府は虚偽の「世間の失」をでっち上げ、それを世の中に流布することによって、全ての人々に極悪坊主のように思わせて憎悪させ、害させようとした。それにとどまらず、佐渡と伊豆の流罪の時には、重罪人として馬に乗せ、鎌倉の人通りの多い街中の道を見せしめに引き回したことは、まるで朝廷に敵対する者への対応のようであった)
大聖人への迫害は、理不尽を極めましたが、その渦中でも大聖人は、
「仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に勝つ物なり」
と悠然として迫害を乗り越えました。
真実の仏教はすべての人々、社会、国家のあり方の根本原理を説いています。それは時代によって変わるものではなく、時々の権力者の都合によって一時的に迫害の対象になったとしても、最後は必ず正しさが証明されるものです。
真実の仏教は、変転きわまりない権力の論理よりもはるかに深く強い、普遍的な実在であることを示しています。
その後、大聖人は流罪を赦免になり、鎌倉に帰ります。その時の心境を次のように言っています。
「故最明寺殿の日蓮をゆるししと、此の殿の許ししは、禍(とが)なかりけるを、人のざんげんと知りて許ししなり。今は、いかに人申すとも聞きほどかずしては人のざんげんは用い給うべからず」
(本来であれば、死刑に準じるような佐渡流罪が、わずか二年半で赦免になったのは、故人になった以前の執権北条時頼とこの時の執権北条時宗が、大聖人の罪は恨みを持つ者のガセネタによって作られたものであることに気がついたからである。
事実は、大聖人には処罰されるような罪状など全くなかったのだ。これからは幕府の執権も、どんなに大聖人の犯罪行為を言ってきたとしても、その内容の真偽を確かめずに、ガセネタを信じることはないだろう)
これは、「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」という教えの、一つの勝利宣言とも考えられます。
大聖人はこの後、身延に草庵を構えて、後世の仏教流布のための人材を育成する活動へと入られます。
日蓮大聖人は、自らが亡き後に、世の中に次のように言う人が多く出現することを予想されていました。
「私こそが、唯一の正統な日蓮大聖人の信仰者である。他の日蓮信仰者と言っている人は、日蓮仏教を誤解しているに過ぎないのだ」
これは、日蓮大聖人の信仰者を名乗る人々が、それぞれ自分こそが真実の日蓮信仰者であると主張して、玉石混交の状態になることです。そういう時には大聖人は、
「日蓮が弟子となのるとも日蓮が判(はん)を持たざらん者をば御用いあるべからず」
と言って、偽物の信者を見極めるように教えられています。
それでは真実の日蓮信仰者とはどのようなものか。大聖人は、
「日蓮が弟子と云つて、法華経を修行せん人人は、日蓮が如くにし候へ」
と言っています。
「日蓮が如く」というのはどういうことかといえば、
「定めて日蓮が弟子檀那(だんな)、流罪、死罪一定ならん。少しも之を驚くこと莫(なか)れ」
ということです。
真実の日蓮信仰者というのは、「世間の失」が全くないのに、日蓮仏教を信仰しているというだけで、流罪や死罪、その他あらゆる迫害を受ける人のことであるという意味です。
「世間の失」が全くないのに信仰のゆえに迫害を受けるというのは、まさに法難のことです。この法難がすなわち、真実の日蓮仏教者の証明となります。
この原理は、大聖人の時代も、現代も全く変わりがないというのが日蓮仏教の神髄です。大聖人はこのことを「久遠即末法(くおんそくまっぽう)」と説いています。
したがって、現代において日蓮信仰を名乗る教団や宗派は多くありますが、その中で、どこが、「日蓮が如く」法難を受けているのかを見極めることが、日蓮仏教の真の実践者かどうかということを見抜く唯一の方法です。
この判断基準から外れている教団や宗派は、どのような自己弁護、どのような奇弁を使って正当性を主張しようとも、所詮は日蓮仏教とは無関係な、否、日蓮仏教に反する集団であると断定することができます。
現在、日蓮信仰を標榜(ひょうぼう)する教団や宗派において、その最高責任者が、「日蓮が如く」、「世間の失」がないのに布教活動を理由に逮捕され、留置されたり、服役した人が居るでしょうか。
もし居なかったとしたら、その教団や宗派は、日蓮信仰から手を引くべきでしょう。まさに、「日蓮が弟子となのるとも日蓮が判(はん)を持たざらん」人たちの集団であるといえます。
日蓮仏教は、現実の社会の中で力強く躍動する宗教です。信者が増えれば当然、既成権力とのぶつかり合いが出てきます。これなくして社会変革も平和の実現もあり得ません。
大聖人の法難は、人々の幸せと平和国家の建設のためには必然的に出てきた迫害であったのです。
日蓮信仰を名乗りながら、既成権力と対峙(たいじ)することを避けて、自己満足の幸せを求めているような信者団体は、単なる拝み屋や儀式屋にすぎません。
本来であれば、日蓮大聖人の名前を口にする資格はありません。
例えてみれば、アユモドキが「私はアユだ。美しいアユである」と言っているようなものです。アユモドキという魚は、外形の一部がアユに似ていますが、ドジョウ科の魚であり、アユはキュウリウオ科の魚で、全く違うものです。
敗戦の色濃くなった一千九百四十三年(昭和十八年)、初代牧口会長と二代戸田会長は逮捕され投獄されました。理由は、民衆の幸福と国家の安泰のために日蓮仏教を流布することが、治安維持法違反と不敬罪に該当するということでした。
二人とも、教え子を誰よりも大切にする優れた人間教育者でした。当然、「世間の失」などはあるわけがありません。逮捕の根拠となった治安維持法は後年、「天下の悪法」といわれるほど人権蹂躙の最悪の法律でした。牧口会長は翌年、獄舎で死を迎えました。
この時、創価学会の属していた日蓮正宗大石寺の住職も、全国各地の末寺の住職も誰一人、僧侶は逮捕されていません。
日蓮仏教の真の実践者であれば、当時の状況からみれば、百パーセント逮捕されることは間違いありませんでした。それが、逮捕されなかったのは日蓮大聖人の魂に敵対したからにほかなりません。
この件については、大石寺側はあらゆる弁解をしています。弁解をしているということは取りも直さず、大聖人の教えに反したということを自覚しているからに他なりません。
襲いかかる凶暴な国家権力に恐れおののいて、自己弁護の言い訳を作り、大聖人の魂を売り渡したのです。
日蓮正宗はこの時点で師敵対になったといえます。
以来、五十年近くを経てから、創価学会と日蓮正宗は分離することになりました。
根本の原因は大石寺の住職が、牧口会長、戸田会長とともに牢獄に入らなかったところにすべてがあります。
その後、表面的には五十年弱は、二者団結して進んできたように見えますが実は、宗門の師敵対の水脈は途切れることなく流れ続けていたのです。このことは関係者ならよく知っているところです。
水脈は地下水から時々、小規模に地上に噴き出したりしましたが、最後に全面的に噴出したのが分離の時であったのです。
ところで、牧口会長の獄死の話をするとよく出てくる反論が、
「当時、治安維持法違反で投獄され、獄死した人は多数いる。その中で特に牧口会長を称賛するのは、偏見ではないか」
というようなものです。
確かに「天下の悪法」であった治安維持法の名の下に、思想団体、宗教団体、社会運動団体などの多くの活動家が獄死させられています。
中には、遺体を引き取った関係者が体を調べると、明らかに拷問による死であることが分かることもありました。
戦後、だれが治安維持法を適用して拷問し、獄死に至らせたのかを追及し、責任を取らせる流れもありました。
確かに、多数の人が自らの思想信条を曲げずに獄死を選んだことは事実です。しかしここには、不問にしてはならない重要な観点があります。
それは、命を賭(と)して貫いた思想信条ですが、重要なのはその思想信条の内容です。
命をかけて信念を貫くというのは一見、素晴らしい生き方のように思えますが、当然ながら信念の内容によって善悪に通じます。
イスラム国のテロリストが信念を貫いて、他人を犠牲にするために自爆することが、どれほどの悪であるか計り知れません。
戦時中の日本の特攻隊に対しては、日本人にとっては敬意と懺悔と感謝の念を持ちますが、攻撃され、殺された米兵にとっては強烈な悪の象徴です。もちろん、特攻隊員は自らの意思で突撃したとはいえませんが。
信念に殉じ、崇高な生き方をしたと思っている人に対して、心苦しいのですが、日蓮大聖人は次のように厳しく言っています。
「世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし。又、主君の為に命を捨る人は少なきやうなれども其数多し。男子は恥に命をすて、女人は男の為に命をすつ。(中略)人も又是くの如し。世間の浅き事には身命を失へども、大事の仏法なんどには捨る事難し。故に仏になる人もなかるべし」
要点だけ言えば、命をかけたものの高低浅深によって、その人の死の評価の高低も決まるということです。
命をかけることが大切なのではなくて、何に命をかけたかが重要なのです。命をかける対象が極善であるのか極悪であるのか、それによって評価が最善にもなり、最悪にもなるのです。
哀しいかな、人間の性(さが)として、「世間の浅き事」には案外、命を失いやすいものです。世俗的などうでもいいようなことに、感情的になって命を失ってしてしまう人もしばしばいます。
自爆するテロリストも、宗教哲学を深く理解しているのではなく、聖戦ということを単純に信じて命を落としている人も多いことでしょう。
それに対して極善である日蓮仏教に命をかけることは、「仏になる」と言っているごとく、人間として最高の生き方になり、死に方になるのです。
初代牧口会長は日蓮仏教に殉じたからこそ、その死は限りない輝きを放つことになったのです。
このように言うと、「生命を差別的に捉えるのは許されない」と反論する人も多いでしょう。確かに、生命というものをどのように捉えるかについては、さまざまな見解があるのは当然です。
しかし大聖人は、捉え方には外してはならない原理があると説いています。それは、
「又是には総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず、輪廻生死のもといたらん」
と言っています。
生命論に置き換えれば、生命を捉える場合、「総別の二義」をわきまえなければ、迷いの人生になってしまうということです。
例えてみると、「総の義」というのは、「すべての生命は、絶対的に尊厳なものだから、平等であり、差別をつけるべきではない」ということになります。
こんな観念論的な生命尊厳を主張する人は往々にして、道を歩くときに平気で蟻を踏み殺したり、血を吸っている蚊を憎々し気にたたき殺すものです。食事の時には肉製品や魚介類を舌つづみを打ちながら無心に食べるでしょう。
なにより、生命の有無の線引きはどうするのか、ミドリ虫やウイルスは生命体なのかどうか、区別がつくはずがないでしょう。所詮、未成熟なきれいごとにすぎません。
「別の義」でいえば、地球上にはさまざまな生命体がありますがその中で、特に人間の生命は優れて大切なものであると考えられます。
発達した脳細胞の働きによって、地球環境や他の生命体を守ることができます。さらに文化、芸術を発展させ、豊かな精神性を生活の中に生かすことができます。それができるのは人間しかいないのです。
続いてさらに、一重深めて、大切とされる人間の生命の総別を考えてみます。すると、「総の義」として、「人間の生命はすべて普遍的に尊厳なものである」ということになります。
「どのような人間であったとしても生命は何よりも大切なものであるから、すべての人間の生命を全く同じでレベルで尊敬する社会にしなければならない」ということにもなります。
これは一見、理想的に見えますが、現実にはでき得ないことです。もし実現するとすれば、偽善のベールで包むしかないでしょう。
「悪貨は良貨を駆逐する」という経済学の法則があります。多くの人々が属する集団を指導する立場に立った経験のある人であれば、この法則が人間社会にも通じることを体験しているでしょう。
集団の中で悪事を為す人間を許すと、集団全体が悪の方向へと進むものなのです。
簡単な例でいえば、多くの人が集まった講演会などで、どこか一カ所で雑談をしている人たちがいて、それを注意してやめさせなければ、会場全体にざわざわと雑談する人たちが広がっていくものなのです。
創価学会初代牧口会長は、次のような趣旨を書いています。
「悪人は結託する。悪人は後ろめたいものも持っているので、孤立しては安心できない。だから、悪人同士は簡単に団結する。また、強いものにこびへつらって我が身を守ろうとする。そして、共通の敵に対しては結束して攻撃する」
「善人は、自分に弱みがないので、孤立して生きていくことができ、わざわざ団結しようとしない。だから、団結した悪人はますます強くなり、善人を圧迫する。善人はいつまでも孤立して弱くなっていく。悪が増大し、善は委縮する。社会は険悪にならざるをえない。だから善人は連帯して悪人と戦わなければ社会はよくならない」
これは人間の生命レベルでの話ではなく、社会生活レベルでの話だと言うかもしれませんが、生命尊厳といっても、現実に生活している日常の中で実感できるものでなければ、絵に描いたモチにすぎません。
現実の社会生活を離れて生命尊厳を叫ぶ人は、その人こそが生命軽視のパラドックスに陥っているといえます。
当然ながら人間は、そんなにきれいごとでもなければ、甘いものでもありません。生命尊厳だといっても悪い人間は世の中にはいくらでもいます。世界の多くの地域で、悪の生命の存在によって、善の生命が失われているのが現実の人間社会です。
テロリストの生命と理不尽に殺された犠牲者の生命と、同じ人間の生命だから同程度に尊厳である、などと誰が言えるでしょうか。
『使命』という言葉があります、人は生命を何に使うかによって評価が決まるといえます。これが「別の義」です。
牧口会長の日蓮仏教に殉じた獄死は、「別の義」からして極善の死であったのです。それは創価学会の永遠の原点を創造することになりました。
この原点を学会が持ち得たからこそ、東南アジア、韓国、中国の人々が学会やその国の学会員に対して友好的な姿勢で接してくれるのです。
日本軍の侵略により蹂躙された歴史を持つ国々の人々にとって、当時の軍政府に対して、戦争反対を貫けなかった人々や団体に対して、心から信頼感を持つことなどできません。
そしてまた、どこの国においても、創立者が強烈な戦争遂行の国家権力に対して、死をもって宗教的信念を貫いたことが、創価学会が口先だけではない、真実の平和主義教団であるということが認められる理由にもなっています。
どのような奇弁をろうして自己弁護しようが、戦時中に平和主義を、命をかけて貫徹できなかった個人、団体、宗教などに平和に関して創価学会を批判する資格などはありません。同時に、平和主義を唱える資格もありません。
一千九百五十七年(昭和三十二年)、参議院大阪地方区の補欠選挙に、学会から候補を立てて選挙戦を行いました。この時、大阪地検特捜部は、公職選挙法違反で池田会長を逮捕、起訴しました。
特捜部というのは政官財の重要人物が絡む大型事件を摘発する部署です。これまで、特捜部によって逮捕、起訴された裁判はほとんどが有罪になっています。それほど犯罪捜査に優れたプロ集団です。
ただ、目新しいところでは、二千九年(平成二十一年)、大阪地検特捜部は、厚生労働省の局長であった村木厚子氏を虚偽公文書作成・同行使の罪で逮捕、起訴したことがありました。
ところが、この罪は特捜部主任検事が証拠を改ざんすることによって作った、でっち上げであることが発覚しました。当然ながら、裁判では無罪となりました。逆に主任検事には実刑判決が言い渡されました。
この事件は新聞、テレビなどで大々的に報道されました。特捜部が逮捕、起訴した人物が無罪判決を受けるということと同時に、特捜部が罪をでっちあげたということが、衝撃的な出来事でした。これは逆に、特捜部が信頼の高い部署であることも意味しています。
当然ながら、池田会長を逮捕した大阪地検特捜部には、絶大な自信があったし、新聞報道で知った世間の人々も会長の有罪を確信したことでしょう。
逮捕された池田会長の取り調べは過酷なものでした。食事抜きで長時間、取り調べられたり、拘置所の本館と別館を手錠をかけられたまま往復させられることもありました。
その後の裁判は、公職選挙法違反という単純な罪状にもかかわらず、五年弱も続くことになりました。
どうしてこれほど長くなったのかといえば、本来は当然、池田会長を裁く裁判であったはずなのに、途中から検察の捜査自体が裁かれる異例の事態になったからです。
この選挙違反事件では、池田会長とともに数十名の学会員が次々と逮捕されていました。検察官は、会長以外の逮捕者に対して、「違反行為は、会長の指示だった」というウソの証言をあの手この手を使ってさせていました。
取り調べは、長時間に渡ったり、手錠をかけたままだったり、怒鳴ったり、机を激しく叩いたり、誘導したりして、特捜部の狙いに合致するような虚偽の調書を作り上げたのでした。
さらに池田会長に対しても、第2代戸田会長の逮捕をほのめかせながら、罪を認める調書を作成しました。
当時すでに、池田会長が創価学会の中心的な人物であることを内外の関係者は知っていました。だから大阪地検特捜部は、初めから池田会長を逮捕、投獄して学会の躍進を阻み、うまくいけば学会の息の根を止めようとするシナリオがあったのです。
裁判の中では、取り調べた検察官は全員、逆に証言台に立たされ、裁判長や弁護士から取り調べの実態の追及を受けました。
その中で明らかになったのは、池田会長の罪は、ねつ造されたものだったということでした。
ちょうど、村木厚子氏の犯罪を特捜部の検事がねつ造したのと同じでした。
一千九百六十二年(昭和三十七年)、大阪地方裁判所は池田会長に無罪の判決を言い渡しました。大阪地検は控訴しませんでした。
第一審の地方裁判所の判決であるにもかかわらず、控訴しないというのは、明らかに有罪にできる可能性がないと分かったからにほかなりません。
池田会長に、「世間の失」が全く無かった事を証明しています。
この事件について学会は、「大阪事件」と呼んで、学会の歴史の中で重要な法難として位置付けています。
学会批判者は「大阪事件」について、明らかにえん罪事件であったにもかかわらず次のような批判をしています。
「学会内では、『大阪事件』を巨大な権力が仏の組織である学会を潰そうとする魔の働きであると捉え、それに打ち勝った池田会長を賛嘆する好材料している。
ところが実際には、選挙になればどこにでもあるような珍しくもない選挙違反事例だった。入獄などと大げさに言っているが、未決囚として十五日間、勾留されただけの話だ。
また、学会つぶしの権力が働いたなどというが、そんな証拠はどこにもない。日蓮大聖人の法難に結び付けたくて仕方がないのだ。
それより、同時に逮捕された学会員の何人も、有罪判決を受けた。会員を犠牲にしながら自分だけ助かったのだ。
池田会長を美化し、仏教上の意義付けをしようとする、『大阪事件』は実は、なんでもない単純な選挙違反だったのだ」
これだけを読むと、学会と関わりがなかったり、学会員と付き合いのない人は、納得する人が多いでしょう。それが学会批判者の目的なのです。
「大阪事件」の事実を知っていたり、聞かされたりしている人には、嘘が通じないのは承知のうえで、学会のことをあまり知らない人に対して学会に嫌悪感を持たせようとしているのです。
そうして、学会の発展を邪魔するのが狙いなのです。
幼稚な言い分として、「勾留されただけの話で、刑務所に入獄などしていない」などと言っていますが、全くの基本的な認識不足です。
「大阪事件」についての、学会としての記述を見ればすぐ分かることですが、特捜部の権力によって「世間の失」がないにもかかわらず、池田会長を逮捕し、捕らわれの身としたことを「入獄」と言っているのです。
無実の会長の自由をはく奪することは、留置場にしろ刑務所にしろ、同じことです。そして、公的な権力が、宗教団体である学会の発展を意図的に阻止しようとして会長を逮捕することは、法難以外の何物でもありません。
当然ながら、刑務所に入るというのは、裁判で有罪が確定してから後のことです。学会の言う「入獄」と「刑務所に入る」ということの違いくらいは、中学生の学力があれば、理解できることです。
それをあえて曲解して、幼稚な学会批判の材料に使っているわけです。
さらに、どこにでもあるような選挙違反なら警察で十分であり、大阪地検特捜部が出動するわけがありません。さらに、単純な選挙違反に五年近くも裁判が続くわけもないことくらい、誰でも理解できます。
何より裁判中に、取り調べをした検察官全員が証言台に立って追及されるなどということは、異常事態です。
そして、特捜部が逮捕し、起訴した被疑者が地方裁判所で無罪判決が確定するというのは、特捜部の信用問題にも関わる重大事です。
それを特捜部が受け入れたと言うことは、会長の逮捕が、意図的に作られた学会つぶしであったことを認めたことを意味しています。
また、学会の方針に従わずに、実際に選挙違反を行った学会員がいたのは事実だから、その人たちが有罪判決を受けるのは当然でしょう。それを、会員を犠牲にして会長だけ助かった、などというのは常識ある人間のする判断ではありません。
「大阪事件」への批判は、反創価学会者の学会批判の原理の一つがよく表れています。
それは、学会の魂として大切にし、宝のようにしているものに対して、なんでもないつまらない石ころなのだと、へ理屈をつけて人々をだますことです。
だます方法も共通していて、事実を知らない人に対して、あたかも真実のごとく嘘を並べたてて喧伝(けんでん)するのです。
学会批判者の目的は、社会正義のためとか、不幸になる学会員を救うためとか、いかにも正義面をしていますが、それはすべてごまかしの虚像で、本当は創価学会と池田会長に傷を負わせて、勢力を削ぎたいだけの話なのです。
もともと学会批判者には、正義と不正義を峻別するというような、そんな高尚な精神などは持っていません。正義であろうが不正義だろうが、どうでもよくて、ただ学会を陥れたいだけなのです。
だから、会員が最も尊厳の気持ちを抱いている学会の魂の部分を、嘘を承知で傷つけようとたくらむのです。
例えてみれば、購入者が生活を切り詰めてやっと手に入れた新車を、夜の暗闇に隠れて、目立つ傷をつけて逃げるような者と同じです。
人が最も大切に思うものに傷をつけて、悔しい思いをさせ、落胆させることが喜びなのです。
人間として性格的に歪んでおり、良識的な人々の社会の中では、共同生活を許してはいけない類いの人間です。
もし、これらの人たちの嘘八百の戯言(たわごと)に影響されて、学会に対して嫌悪感を持ったり、会員の人でも信仰への確信が揺らぐようなことがあれば、批判者の思うつぼです。
学会批判者はその姿を見て、後ろを向いて舌を出し、蔑(さげすみ)の笑いを浮かべることでしょう。
所詮、学会批判者は自分たちの言うことに影響を受ける人に対して、軽蔑の気持ちを持っているのが実際の人物像です。
なぜなら、自分たちが言っていることは詭弁(きべん)であり、嘘だということは本人自身がよく分かっていることだから、それにだまされる人を軽蔑するのは当たり前といえます。
日蓮大聖人は、生存中の鎌倉時代においても、また、未来においても、日蓮仏教の真実の実践者は、常に批判勢力から攻撃を受けると、次のように教えています。
「今の世を見るに、日蓮より外の諸僧、たれの人か法華経につけて、諸人に悪口罵詈(あっくめり)せられ、刀杖等を加えらるる者ある。日蓮なくば、此の一偈(げ)の未来記は妄語となりぬ」
「罵詈」とはののしるという意味です。「此の一偈」とは、釈迦が自分の死後、仏教が長く伝わっていく中において、真実の仏教実践者や仏は常に迫害を受けるものである、と予言した経文を指しています。
多くある仏教教団の中で、釈迦の教えの通りに法難を受けてきた教団はどれなのか。冷静になって見れば創価学会以外にないことは明らかではないでしょうか。
少々余談になりますが、どうして他の仏教集団には、法難が無いのかといえば、釈迦の真実の仏教をたもっていないからに他なりません。
一般の人もそれが、当たり前の仏教だと思っています。多くの人たちが真実の仏教を見失っているのが現状です。
そういう仏教の僧侶や関係者が言うことは、少し客観的になって考えれば首をかしげるようなものばかりです。例えば、次のようなものがあります。
黙って座っているのが仏道修行だというのがあります。ふと考えれば、笑い話の類です。もし本当なら、無職でブラブラして、することもなく年中、公園で座っている人は悟りを開くことになります。
そうすると、失業した人や定年後の人が増えると、いたるところに仏教を悟った人がゴロゴロして、幸福人があふれる事になります。
黙って座っているだけで、悟りを開けるわけがないでしょう。釈迦の、時代に応じた修行方法があるということをまったく理解していない人が、やり始めたことです。
また、現世は苦しみの世界で、何をしてもダメだから諦めて、死後の来世に幸せになるために仏教の信仰に励みましょう、というのもあります。これも大いなる勘違いをしています。
現実の社会の中で幸せになれないような無力の仏教に、死後の世界を幸せにできるはずがありません。騙されて信じ込んでいるだけです。
死後の幸せを願って、金ぴかの仏像を拝んだって、苦悩の現状から逃避しているに過ぎないでしょう。
さらに、様々な秘術のようなことをして、祈りがかなうと教える仏教もあります。ところが未だかつて、釈迦が異様な秘術をして奇跡を起こしたということなど、どこにも書いていません。仏教は人智の及ばない超越的な出来事を起こすものではありません。
仏教を信仰することによって奇跡的なことが起こるなどということは迷信です。努力せずして奇跡によって幸運がつかめるとしたら、人生を堕落させる宗教に他なりません。
釈迦は因果を無視した奇跡を否定しています。秘術を行う仏教は、釈迦に敵対しているのです。
そして、もっともらしい仏教の教えとして、欲望を抑えたならば幸福になれる、というものがあります。その為に、あれもするな、これもするな、と多くの禁止事項を決めて、それを守ることが仏道修行だというのです。
酷(ひど)いものになると五百項目もしてはならない事があるものもあります。
もし、それらを真面目に実践する国民が多くいれば、国としての経済発展も、科学的発達も滞ってしまうでしょう。
人間に欲望があるからこそ、あらゆる分野の発展もあるのです。小欲知足の人ばかりであれば、社会を発展させる必要もないでしょう。
この欲望を滅する主義を徹底すると、行き着く先は、死しかありません。生きていること自体が欲望の固まりだからです。
最近の、「○○断ち」というのはこの誤った仏教観の名残です。
これらの修行は、結局、いくら信仰心を深くしても救済されるどころか、さらなる苦悩に沈むしかありません。なぜなら、釈迦の教えに反しているからです。当然といえば当然です。
こういう仏教信仰者に対しては、批判する人もいなければ、権力者も警戒する必要がないので、全く法難など起こることはないのです。
それも道理です。一人一人が自分の自己満足のために信仰しているだけで、釈迦の魂に沿った使命感に燃えて他人を救おうともしない。他人や世の中に何の影響力もないのだから、中傷批判も起こりようがないのです。
釈迦は末法(まっぽう)という未来において、真実の仏教実践者は常に悪口を言われたり、ののしられたり、さらには棒でたたかれたり、武器によって傷つけられる、と明言しています。
仏教を広めて、苦しむ人々を救うという善行をしているにもかかわらず、迫害を受けるというのです。
そして、迫害を受けるということこそが真実の仏教実践者の証であると言っています。
釈迦の教えに照らして、今の既成仏教の僧侶や信者の人たちはどうでしょうか。
僧侶は寺に安住して、朝晩の読経をしたり、檀家の家に法要に行ったり、信者の集まりで法話をしたりして、仏教の指導者だと得意になっています。
また、信徒は寺に参拝して、本尊らしきものに手を合わせて拝み、賽銭を投げ入れてご利益があると思っています。
仏教を広めることによって迫害を受ける姿とは無縁の有り様です。釈迦のいう真実の仏教実践者とは全く別物です。
さらに滑稽なことには、「私たちも仏教を信仰しているがゆえに迫害され、国家権力によって逮捕されるという法難にあった。創価学会だけが法難を受けたのではない」と主張する宗派や教団、僧侶や信者がいます。
実際にその事例を調べてみると、「コンビニで万引をして警察に捕まった」というような類いのことを、あたかも釈迦や日蓮大聖人の法難と都合よく結び付けて宣伝していることが、ほとんどであることが分かります。
違法な「世間の失」を行って、捕まっただけの話です。愚者以外の何物でもなく、論ずるに値しません。
それに対して、創価学会、池田会長は仏教を流布するが故に、既成勢力や国家権力また、一個人からまでも激しい非難を浴びせられました。これほど仏教に貢献しながら中傷批判を受けた人や団体はありません。
それは、国内の仏教関係の団体と責任者が受けてきた中傷批判を事実に基づいて書き出せば、比べものにならないほどの差で一目瞭然のことです。
これこそ、創価学会、池田会長が釈迦の予言通りの仏教、すなわち日蓮仏教の真実の実践者であることを証明するものに他なりません。
このように言えば必ず、学会批判者は、なんだかんだとへ理屈を構えて学会と池田会長をつまらないものだと言い張ります。
どうして批判者は、客観的な事実に基づいてものを言うことができないのか、呆れるしかありません。さらに「客観的な事実」と言いながら事実をわい曲するのだから、始末の悪いことです。
例えば、これまでに池田会長に怒涛のように押し寄せてきた非難中傷から考えれば、池田会長という人は極悪非道の人間で、無期懲役の判決を受けても不思議ではないような犯罪者に仕立て上げられています。
ところが現実は、唯一逮捕された「大阪事件」も無罪判決であったし、当然ながら刑事罰の判決を受けたことなど一度たりともありません。
詳細に非難中傷の内容を分析調査すれば、「世間の失」のない会長を、何が何でも犯罪者にしようとする、どす黒い意図が明々白々になってきます。悪意以外の何物でもないのです。
ところでそろそろ、学会批判者は気がつくべきではないでしょうか。
何にか、というと、学会や池田会長を調子に乗って批判しているが、実は批判すればするほど、学会や池田会長の正しさを、日蓮仏教の正当な唯一の実践者であり、教団であることを証明することになるということを。
賢い学会批判者はこのことに気づき始めていますが、愚かな学会批判者はいまだにこのことを理解する能力を持ち合わせていません。
これまで、同じ獄死でも何に対して殉教したのかによって生命の評価に差が出てくると述べてきましたが、もう一つ生命の評価に差が出てくる重要な要素があります。
それは獄死した人の、同士あるいは弟子が、どれだけ死者の偉大さを後世に証明できるかです。もし、どれほど崇高な獄死であったとしても、宣揚する人が誰もいなかったとすれば、やがて忘れ去られてしまうでしょう。
これは幾多の歴史が証明しているとともに、道理であるといえます。
ギリシャの哲学者ソクラテスは自ら毒杯を煽(あお)って獄死しました。ソクラテスは生前に文字としては思想の内容を残してはいなかったといわれています。
もし、後を継ぐ者が誰もいなかったとしたら、死とともに歴史から消えたことでしょう。しかし、ソクラテスには彼を最も尊敬していたプラトンという弟子がいました。
プラトンは師匠の獄死を無駄にしてはいけないと深く決意をして、師の哲学を書籍という形にして世の中に宣揚しました。この弟子の働きがあったからこそ、現在にまで、自らの信念を貫くために命を投げ出した英雄的哲学者として、人々から尊敬と感動の念を持って語り継がれているのです。
創価学会の三代の会長も同じです。獄死した初代牧口会長も、もし第二代戸田会長がいなかったとしたら、他にも多くいた殉教者と同じく忘れ去られてしまったことでしょう。
だが、弟子の第二代戸田会長が、理不尽な国家権力が師を獄死に至らしめたことに対する計り知れない悔しさを常に心に抱いて、戦後の創価学会の再建に命をかけて取り組んだからこそ、現在にまで牧口会長の業績が賛嘆されることになったのです。
今では牧口会長の名前を冠した、通りや公園、学校や建物などが世界の各国にできています。特に牧口会長の教育的信念だった「創価教育学」に基づいた教育が、ブラジルなどの国で学校教育として実践されています。
さらに、牧口会長の絶対平和への信念の獄死があったからこそ、百九十二カ国・地域の創価学会インタナショナルが、それぞれの地域社会において信頼を得ることにつながっています。特に日本軍が侵略したアジアの国々においては言うまでもありません。
初代牧口会長と二代戸田会長の師弟の関係と同じように受け継がれていったのが、戸田会長と三代池田会長の関係です。
これは現在の創価学会とその関連の活動みれば、誰でもうなずけるでしょう。三代池田会長がいなければ、二代戸田会長の名前も偉大さもこれほど知られることはなかったでしょう。
「師匠の偉大さは弟子が証明する」
この一点が、時代がどのように変わろうがブレなかったからこそ、現在のような創価学会に発展させることができたのです。
「師匠と弟子」という関係の重要性は、習い事や専門的な職業や研究の世界ではよく理解されています。
スポーツ界では麗しい師弟関係があって、選手の才能が伸びます。また、学問の世界では、ノーベル賞を受賞した人が、自らの師匠にあたる人に対して感謝を述べることはよくあることです。
ところが、学会の「師匠と弟子」という人間の結びつきについては、「時代遅れで古臭く、胡散(うさん)臭い。何をするか分からない恐れがある」とみる向きも多くおります。
このような見方をする人は、学会に偏見を持っているのは当然として、一般的にも軽薄な近代合理主義の弊害にいまだに冒されている人だといえます。
現実の職場や家庭などでは、人は理論で動くよりも感情で動く場合の方が多くあります。
学会員も日々の信仰活動のエネルギーは、師弟の情感が大きな役割をなしているのです。このような感情を不合理だと軽視する人はおそらく、職場では部下を指導する立場にはなれないだろうし、家庭や地域での人間関係も上手に作ることができないでしょう。
学会がこれだけ発展したのは、組織の論理で会員を動かしているのではなく、会員自らの情感で主体的に活動しているからに他なりません。このことは口で言えば簡単なようですが、実際の巨大な組織の中で実践するのには、よほどの精神的なバックボーンがなければできないことです。
「日蓮仏教の真の実践者は誰か」といえば、答えは簡単です。言うまでもなく、日蓮大聖人の教えを現実の社会の中で実現している人です。大聖人は、
「末法には事行(じぎょう)を本とし、在世と像法とには理観(りかん)を本とするなり」
と言っています。
仏教の修行方法は、時代によって変わります。釈迦の生きていた紀元前の修行の仕方を現代の社会で行えるわけがありません。もし、大昔の教祖のやっていた修行をいつまでも変えずにやらなければならないというような教えの宗教があったとしたら、それだけですでに、世界宗教の大きな流れにはなり得ないことを意味しています。
釈迦は自分の死後、時代が進むにつれて、どのような修行方法を取ればよいかを教えています。それを正当に引き継いだ日蓮仏教は、現代の修行を「事行」と明確に示しています。
「事行」とは現実の社会の中で仏教の実績を成し遂げることです。
それに対して、過去の修行である「理観」とは、観念の世界で悟りを開くものです。この「事」と「理」のちがいについて大聖人は、
「本迹(ほんしゃく)の相違は水火天地の違目なり」
と教えています。
本とは事のことで、迹とは理のことです。簡単に言えば、口先だけで、なんだかんだというのは簡単で誰でもできるが、現実に仏教の教えを実現することは至難の業であるということです。
これが日蓮仏教の神髄です。
悪質で無責任な創価学会批判をしている人が、現実の社会の中で日蓮仏教をどれだけ実現しているのか、と問えば全くできていないのが実像です。
「いや、できている」などと反論するものがいるかもれません。
しかし、そういう宗派や団体の実際の姿を見れば、我田引水で自己満足の言い訳であることがすぐに分かります。
客観的に見て、日蓮仏教の現実社会への実証には、全くほど遠い宗教団体であることは明白です。
日蓮大聖人の著述の「立正安国論」の中には次のように書かれています。
「国を失い、家を滅せば、何れの所にか、世を遁(のが)れん。汝(なんじ)すべからく、一身の安堵を思わば、先ず四表の静謐(せいひつ)を祈らん者か」
(世の中全体に戦乱が起こり、住んでいる所を追われ、生活していた家も破壊されてしまえば、いったいどこに逃げればよいのか、逃げる所などない。そうであるなら、自分自身の無事平穏な生活、人生を望むのであれば、まず何よりも、住んでいる社会、国ひいては世界の平和と安泰を実現すべきではないか)
といような意味です。特に、「祈らん」というのは、大聖人の教えの至る所に出てきますが、根底的には「必ず実現する」ということです。
日蓮仏教は、自己満足や自己弁護、都合のよい思い込みや妄想とは真っ向から対立するものです。
現実に「四表の静謐を祈らん」ためには、政治を掌握し、影響力を持つしかありません。人々の生活のほとんどの部分に政治が関わっているのが現実だからです。
この、政治を抜きに宗教、日蓮仏教を語るならば、絵に描いたモチに過ぎません。観念論であり、「理観」に他なりません。
例えば、信者たちが集まって、「私たちは信仰によって幸せになった。他の人たちにも勧めて幸せにしてあげよう」と相談をしているとき、ミサイルが飛んできて爆発して、集まっていた信者たち全員が亡くなったとしたら、そんな宗教は幻想であり、無意味です。
ミサイルを止めることができるのはまず、政治力であるという現実を認めることです。
「日蓮仏教の真の実践者」は誰であるのかを識別する最大のポイントは、政治力を持っているかどうかです。
単純にいえば、その宗教団体から何人の議員を輩出しているかです。特に、「国を救う」などと大きなことを言っている教団は現在、何人の国会議員を出しているのかが、日蓮仏教として本物か、偽物かの明確な判断基準です。
こんな判断基準を言うと、違和感を感じる人も多いでしょう。しかし、本当に日蓮大聖人の教えを信仰しているかどうかの真偽の判断は、枝葉末節のどうでもよいような批判などによってできるものではありません。
現在の日本においては、国会議員を出していない教団は、偽日蓮宗の信者であるといえます。
なぜなら、日蓮大聖人の生涯が、一人の人を救済して幸福にすることと同時に、内憂外患に翻弄されて危機的な状況にあった日本の国を救う為に命をかけられたことからも明確です。
何よりも、大聖人が本格的に国の救済のために、鎌倉幕府をいさめるために提出されたのが、「立正安国論」でした。立宗から間もない三十九歳のときでした。
そして六十一歳で亡くなる直前に講義をしたのも「立正安国論」でした。このことから、大聖人の一代の化導は、
「立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」
といわれています。
すなわち、日蓮仏教は一人の幸福を実現するとともに、その人が平和で安穏な生活ができるための国家や世界の建設をすることが目的なのです。国政を変えることができなければ、日蓮仏教とはいえないのです。
このことを否定する日蓮系の宗教団体は、どのような弁解をしようが結局は、自らの宗教活動が国に影響などを与えることのできない、国会議員を送り出すこともできない教団でしかないことを意味しています。
それは、大聖人の救国の魂とはかけ離れた、縁もゆかりも無い信者の集まりです。
このように批判されるのが嫌なのであれば、実際に一人の国会議員でも誕生させてみればよいでしょう。そうすれば、学会としてもそれなりの対応はすることになります。
中には、「これから国会議員も輩出し、本格的に日蓮大聖人の立正安国を実現しようとしている。今の段階で批判するのは傲慢だ」などという宗教団体もあります。
しかしよく考えれば、戦後、政治活動が自由になり、七十年以上が過ぎました。その間に、国会議員を誕生させることができなかったような教団に、これから何十年経とうが、できるとは思えません。
世の中をナメてはいけません。日蓮仏教をナメてはいけません。
第二代戸田会長は次のように言っています。
「社会の不幸に目をつぶり、宗教の世界に閉じこもり、安穏として、ただ題目を唱えているだけだとしたら、大聖人の立正安国のご精神に反する」
さらに次のようにも言っています。
「この世の悲惨をなくし、不幸をなくし、人権を、人間の尊厳を守り、平和な社会を築いてゆく中にこそ仏法の実践がある」
真実の日蓮仏教の実践というのは、個人の幸福と同時に必ず国家社会の平和と繁栄を実現しようとするものです。これは実は日蓮仏教と限定されるものではありません。釈迦の説いた仏教の根本でもあります。
それから考えると、現在の日本の仏教界は、釈迦の魂の存在しない、仏教の抜け殻を尊げに拝んでいるに過ぎないのです。
今、仏教の本義に基づく信仰活動をしようと思えば、創価学会の批判などをしている暇はありません。いい加減で、学会批判をすることによってしか、自分たちの存在意義をアピールすることができないような集団は解散したらどうでしょうか。
創価学会にぶら下がって生きるような、寄生虫の如き生き方は、人生の敗北以外の何物でもありません。