仏教の根本的なところで認識に違いがありますねー。
釈尊が経文で説いた、如来や菩薩は、実在したものではありませんねぇ。
当時、電気もなければ、拡声器も、電波の利用もありません。
そんな紀元前に、経文に書かれているような説法の場所というのは、
絶対に現実には存在できませんねぇ。
釈尊の肉声が、数千kmも離れた人物に届く訳がないですものねぇ。
要するに、釈尊の説いた如来や菩薩は、
すべて釈尊の心の中での人物なのですねー。
釈尊の経文は、釈尊の己心の物語なのですよ。
これを明確にしたのは中国の天台大師ですねー。
釈尊の経文から「一念三千論」という哲学を取り出したわけです。
現代で言えば、ノーベル賞ものですねぇ。
これで、釈尊の仏教の本質が明らかになったわけですよ。
菩薩や如来というものがどういうものかということも、
哲学的、論理的に「一念三千論」の中で、その本体、本質が
明らかにされているのですねー。
ですから、「仏教では如来や菩薩は、創価学会を守るために出現」
という仏教物語のような次元の話ではないのですね。