日本の仏教の現状

仏教は言うまでもなく、釈尊が説いた教えです。
一生涯で説ける経文は、それほど多くありません。
ところが、現在、仏教書と言われるものは全世界で無数、近くあります。
当然ながら、その中には釈尊が説いてないことを仏教と言っている偽書、
偽物があるということです。

仏教を勉強する場合、このことをしっかりと押さえなければ、
偽物を本物と思い、ありがたやありがたやで騙されるのです。
釈尊の生きていた時代は、文字は一般的ではありませんでした。
だから釈尊は、言葉で説法したわけです。
それを聞いていた弟子が、釈尊亡き後、
文字に定着させたのです。

ここで書かれたものが、正真正銘の仏教です。
五時八教と言われるものです。
それ以降、後世の仏教関係者が書いたものは、すべて偽物といえます。
驚くべきことですが、日本人の多くの人が、
ニセモノの仏教に惑わされています。

その一つの例を書いておきます。
なお、釈尊の教えの根本は何か、ということについては、
文字数が多くなるので、別稿に譲りましょう。

伝統的な既成仏教の寺院などでは、仏像を清掃するとき、「魂を抜く」ための経文を唱えてから作業に取り掛かります。
多くの信者が手を合わせて、それをありがたく拝んでいる様子が、テレビなどでも放映されます。

この情景をもし、釈迦が見たとするならば、驚きあきれ、発する言葉もないでしょう。
それから怒りがこみ上げてくるに違いありません。なぜなら、仏教とは似ても似つかないものだからです。

釈迦は、「仏像から魂を抜くために教えを説いた」などと、生涯を通じて、一言も言っていません。
悩める人々を救うために、人生をかけて説いた教えを、勝手に意味のないことに使われたならば、憤懣(ふんまん)やるかたなく思うのは当たり前です。

それにしても、日本人の仏教に対する無知には呆(あき)れるしかありません。
「魂を抜く」ところに行って、恥ずかし気もなく手を合わしている信者の人たち。それを良いニュースの材料として放映するテレビ局。
そして、それをありがたく見ている視聴者。
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これらの人々は、「魂を抜く」行事が、実は釈迦の顔に泥を塗っているのだということに全く気が付いていません。
その理由は、立派な寺の僧侶が、まさか仏教に反したことをしているとは思いもよらないからです。

実に多くの人たちが、「魂を抜く」行事を僧侶が信仰心を持って行うのは当然だと思っています。
あまりにも多くの人たちが当然と感じているから、それが常識となり、それに反することを言えば非常識というようにさえ見られるほどです。

ところが真実は逆です。
仏教に対する無知からくる迷信を信じ込んでいるのです。少しでも仏教を本格的に学んだ人であれば、「魂を抜く」などという事が、いかに釈迦の教えから離れているかはすぐに分かることです。

仏教の専門家として僧侶を信頼しているかもしれませんが、ただそれも、部外者が勝手に思い込んでいるだけです。
実際に僧侶と生活を共にすれば、僧侶というのは職業なのだというのがよく分かります。

今どき、葬式や回忌法要だけでは、寺院の経営は成り立ちません。
ぜいたくな生活をするためには、寺院の規模を大きくしたり、いろいろな法要や行事を考え出して信徒を集め、お金を供養してもらわなければなりません。

仕事として僧侶をやっているわけですから、釈迦の教えが正しく伝わっているか、どうかなどというのは直接的には関係ありません。
もし間違っていたからといっても仕事をやめるわけにはいきません。

僧侶を養成するためにあるような大学の仏教学部や大きな宗派などに付属して作られている僧侶養成機関では、自宗の教義の学習や各種法要における作法を学ぶのであって、釈迦の真意はどこにあるのかとか、仏教の本質を研究する場ではないのです。

そして、たとえ釈迦の真実の教えが分かったとしても、それが自宗の教義や作法を否定するものであれば、無視して触れないようにするのです。

このような、それぞれの宗派の教育を受けて資格を取り、僧侶をやっているわけだから、釈迦の教えに反していたとしても、失業するようなことをするわけがありません。

例えば、火力発電所に勤めている社員が、「温室ガスを発生して地球環境の破壊につながっているから申し訳ない」と言って、会社を辞めるでしょうか。
僧侶は生活をするためにやっている仕事だから、真実の仏教がどうであろうと、関係ないのです。

だから、僧侶の言動が、釈迦の教えに合致していると思うのは、大きな錯覚です。むしろ、既成仏教のやっている宗教行事は、それぞれの寺が、金儲けのために、あの手この手と工夫をして、勝手に仏教にかこつけて作り上げたものがほとんどです。

具体的にあげると、縁起物を売ったり、おみくじを引かせたり、絵馬に願い事を書かせてぶら下げたりと、それこそ数え切れないほどあります。これらは全く、釈迦の教えとは関係のないことです。

結論的には、ほとんどの僧侶は、仏教に関係のない自宗の作法を行っているだけで、釈迦の真意については全く無知なのです。ずいぶん、失礼なことを言うものだと思うかもしれませんが、これが現実です。
僧侶は、なんだかんだと言っても結局、仕事なのです。

「魂を抜くために読経する」
こんなことを真顔でいう僧侶、またそれを何の疑問も抱かずに見ている信者、さらに、ありがたそうに放映するテレビ局。猿山の猿のままごと遊びと同じです。
お笑い劇場でしかありません。

もともと釈迦は、
「人間は肉体に魂が宿っているものだ」などとは一言も言っていません。

生きている人間にさえ魂がないのに、ましてや木などで作られた仏像に魂が宿るなどとは妄想にほかなりません。
そして、その魂を入れたり抜いたりするということになると、ほら吹きとしか言いようがありません。

釈迦はこのような魂の存在を否定しているのです。
人間が死んだ後、肉体は滅びるが魂は肉体から離れて存在する、などというのは仏教とは関係のない話です。

魂の存在はロマンティックではあるかもしれませんが、真実ではなく迷信です。こんな仏教の基本さえ分からなくなっている日本の仏教事情というものは、仏教国として恥ずかしい限りです。


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