「愛染不動感見記」について

「愛染不動感見記」を元に、日蓮大聖人が密教を取り入れているというのは、

日蓮仏教の本質が理解できていないところから来る、

迷論ですねー。

ちょうど、日蓮大聖人が亡き後、大聖人の弟子の中に何人も、

自分のこと、『日蓮門下』と言わずに、『天台沙門』と

名乗った者が出てきたのと全く同じですね。

まあ、大聖人自身が、立宗の当初は『天台沙門』と

称されていたこともあったのですが、

大聖人の本地が理解できなかったわけですねー。

どうしてこのような誤りを弟子たちが犯してしまったのかといえば、

簡単なことで、要するに日蓮仏法の理解力が、

低レベルだったからですねー。

大聖人は、御書の中で矛盾したことを多く述べていますねぇ。

『一日の命は三千界の財にもすぎて候なり』

と述べておられると思えば、

『百二十まで持って名をくたして死せんよりは、

生きて一日なりとも名をあげんことこそ大切なれ』

と教えられていますねぇ。完全に矛盾しています。

さらに、

『法門のことは、さどの国へながされ候いし已前の法門は、

ただ仏の爾前の経とおぼしめせ』

と書かれていますねぇ。佐渡流罪以前に書いた御書は、

意味が無いのでしょうか。

これは、釈尊も同じですねー。

「二乗や女人は永久に成仏しない」と言っていたのに、

法華経にきて万人成仏が説かれるわけですねー。

さらに、「四十余年未顕真実」と教えますねぇ。

それじゃあ、「今までの説法はウソだったのか」

ということにもなりますねぇ。

これらの事は、全く、釈尊や大聖人の教えに矛盾があるわけでは無いのです。

矛盾があるように思うのは、仏教の本質が、

理解できていないからに他ならないのですねー。

大聖人が「愛染不動感見記」を書いて、密教を受け入れたという解釈すは、

上記のような仏法不理解と同じ過ちを犯しているわけですねー。

要するに文言上の、表面的な理解しかできていないのですよ。

大聖人の仏法の本質は、

『今、末法に入りぬれば、余経も法華経もせんなし、

ただ南無妙法蓮華経なるべし』

ですねー。

1日も早く、『天台沙門』の妄想から目を覚ますことですよ。


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