日蓮仏法は本来、「信じさせる宗教」ではなく人間の生命や認識の構造を明らかにする法だったのではないでしょうか?

「理と事」の違いをわきまえるならば、
創価学会側の答えは、全く矛盾のあるものではありませんねぇ。
日蓮大聖人は次のように書いていますよ。

《法華経には事理共に有るなり。いわゆる、
久遠実成は事なり、二乗作仏は理なり》

《「信」の一字は、寿量品の理顕本を信ずるなり。
「解」とは、事顕本を解するなり》

これでも分るように、理というのは「不変真如の理」であり、
一面的に言えば、理論的、普遍的な法ですねぇ。
それに対して、 事というのは、具体的、個別的に顕現する事象ですねー。

「法華経には事理共に有るなり」と言うように、
創価学会の信仰活動においても、
当然、それぞれの学会員一人ひとりに事理が存在するわけですねー。

質問者さんが出している質問事項それぞれにも
当然、事理が存在するわけです。
従って、答えも、 事の答え、理の答えの両方あって良いわけですよ。
創価学会側の答えも、その事理が混じったものになりますねぇ。

これに対して質問者さんが、「限界です」と言っているのは、
事と理をイコールにして解釈しようとするところから、
出てくる自己矛盾ですねー。


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